第10話 少年、講義と帰宅

「切り裂き魔は魔術師ということですか?!」


 僕は興奮気味に立ち上がった。エヴァン師は突然の僕の起立に動じずに静かに見つめてくる。なんだか一人だけ盛り上がっているみたいで気まずい。頰が熱を持つのを自覚して僕はもう一度椅子に腰を降ろす。


「そうだといえるが、なんとも言えないな」

「そういうことですか?」

「実行犯は魔術師ではないだろう」

「では誰なんですか?」


 エヴァン師は静かに口を開く。


吸血鬼ヴァンピーアだ」

「ゔぁ、ん……?」


 聞きなれない単語に僕は耳を傾げる。発音的に言葉は英語ではなく、ラテン語だ。

 エヴァン師は教える気がないのか、僕をじっと見つめたまま何も言わない。これも講義の一環なのだろうか。僕は必死に考えた。


「ゔぁんぴーあ……ゔぁん……」


 幾度も口にして僕は一つの答えに向かった。


「ヴァンパイア……吸血鬼ですか?」

「その通りだ、オスカー」


 満足げにアメジストとルビーの瞳が三日月に笑う。その様子を見て僕は安堵に胸を撫で下ろした。


「吸血鬼とはフィクション小説では色々な説があるが、根本は我々の知る吸血鬼だろう」

「ニンニクがダメとか、吸血されたら仲間になってしまう、とかですか?」

「オスカー」


 エヴァン師がにこりと唇だけを微笑ませて人差し指を向けた。


「物語とはフィンクションのなかにノン──真実を含ませていることが多いのだよ。特に伝承とかにね」

「フィクションのなかに真実が……。ということは吸血鬼カーミラやドラキュラ伯爵にも真実が隠されているということですか?」


 頷く師の反応に後悔した。オカルトが大の苦手なので吸血鬼を題材にした小説も全く手をつけていないのだ。それに厳格な学園の図書室には信仰に相反するといって吸血鬼の類の本は仕入れることは一切ない。

 読むべきだったのだ。臆病で夜が全く眠れなくなったとしても。

 大後悔時代を迎えている僕を、エヴァン師は愉快に見つめた。


「課題図書として吸血鬼関連の本を与えよう」

「……お願いします」

「さてと……話が脱線したな。吸血鬼の議題はまた今度だ」


 項垂れていた背中を真っ直ぐに伸ばす。

 エヴァン師の肩に不死鳥が飛んできた。


「命とは、必ず生から始まり、死で終わる。魂とはこれを繰り返すことを定められている。天国に行ったとしても、地獄に行ったとしてもいつかはまた生を受けねばならない」

「ウロボロス……」

「いかにも。命が生まれた先にあるものは必ず死でなくてはいけない。逆も然りだ。死があるからこそ生へと帰結する」


 師の肩に止まっていた不死鳥が突然飛んだかと思うと空中で燃え上がり、灰となってテーブルに落ちた。思わず僕は口を大きく広げて魅入ってしまう。


「例え不死鳥だったとしても必ず一度は死ぬのだよ」

「ということは……不死鳥という名称は正しくありませんね」


 僕が率直に言うと師は口元を綻ばせた。紛い物で作られた不死鳥は灰から姿を現れることはなく、ベンジャミン氏によって回収される。


「魔術師はその理を崩そうとする厄介な人種だ。彼らがしていることは川の流れを塞きとめることに等しい」

「塞きとめたら、洪水が起こります。どうなるんですか?」

「さあ」

「さあって……。どういうことですか?」

「我々でさえも分からないのだよ、オスカー。未知数なことだからこそ、危険視している」


 エヴァン師はそう言い切ると立ち上がった。


「さあ、魔術師の講義はここまで。寮へ向かおう」

「は、はいっ」


 ベンジャミン氏に食事のお代を払い、師と僕は喫茶店をあとにした。市電を乗り継ぎ、学園の寮へ。

 堅牢な燻んだ灰色の建物が見えてくると僕の心臓はうるさいぐらいに飛び跳ねた。まだ授業を行なっている時間帯だろうが、人の目が気になって仕方なかった。噂というのは何故か早く、僕がみなしごになったということも半日経たずに広まったのだ。そして今度は殺人現場を。絶対に良からぬ噂が飛び交っているに違いない。


 堂々と歩くエヴァン師に隠れるように僕は歩いた。寮内は不気味なほど静かだ。いつもなら喧騒が飛び交い、笑い声が響いていた。


 寮母も休憩に入ったのだろう。会うこともなく、僕たちは僕の寮室にたどりつく。


「ここが君の部屋か」

「そうです。テオがこの部屋の隣です」

「ふぅん」


 納得したように頷いてエヴァン師は容赦なくテオの扉のドアノブを回した。鍵がかかっており、開くことはない。


「な、何してるんですか?」

「オスカー。君は周囲を見ておくんだ」


 返事を待たずにエヴァン師はマッチを擦る。灯る先を鍵穴の前にかざし、薄紫の血色の悪い唇を寄せた。


「満たせ!」


 掠れたバリトンボイスとともに吐息が火を撫でる。スパークして火は金属が溶けるように鍵穴へと流れた。そして鍵の形になってエヴァン師が漆黒の革手袋を嵌めた指先で回す。

 カチャリ。確かにそんな音がした。

 改めてドアノブを回すとなんの拒みもなしに開かれる。テオの部屋が簡単に暴かれた。

 火でできた鍵を引き抜き、エヴァン師は部屋のなかに堂々と入る。


「エヴァン先生!」


 慌てて僕は師のあとを追う。師はすでにテオの机の方に手を伸ばして、ノートやら教科書やらを漁りはじめた。

 プライデートの侵害も甚だしい!

 師はそれでもなんでもなさそうに僕を見ずにノートを開いた。


「扉を閉めておいてくれ」

「え、でも」

「早くしないと誰か来るぞ。一階から多数の足音がする」

「はあ?」


 早くしろと言わんばかりに今度は見つめられる。僕は結局テオの部屋のなかに入って、扉の鍵を閉めた。


「こんなことしたら、不審者扱いですよ!」

「安心しろ。君はテオの友人で私はテオの音楽教師。何も恐れることはあるまい」

「そういうんじゃなくて……」


 全く僕の常識が師に追いつかない。悶々とした気持ちを抱えて僕は部屋の隅にただもたれた。


「なんでテオの部屋を……こんなこと」ため息混じりに問うと、エヴァン師もため息で返す。

「彼が切り裂き魔を見たかもしれないからだ。そしてそれを君が見た」

「それはそうかもしれないですけど」

「夜の取り調べを覗いたんだが、彼はずっと黙秘している」

「……そりゃあ疑われているから」

「違うなら違うと言えばいいのに彼は黙ったままなんだぞ」


 一言も。

 そう言われて僕は確かにと納得した。テオが殺人を犯すなど考えられないし、何より犯人を許せないと豪語していたのだ。いくらなんでもおかしいにもほどがある。

 師は引き出しを開け、日記らしきものを開いた。


「先生」


 僕は思わずエヴァン師を急かした。師の言う通り人の足音が複数、こちらに近づいてきたのだ。生徒達ではない、大柄な音、野太い声たちに寮母の悲しみと焦りの声。


「先生、足音が近づいてきます」

「これ以上は調べられんな」


 エヴァン師は窓へと急いだ。三階の窓を開け、僕に手を差し伸べる。


「せ、先生? そこ、ベランダなんてないですよ?」


 問答無用に手を取れと言われ、僕は逡巡する。しかし無情にもテオの扉の前に彼らはやってきた。くぐもった声が聞こえて、察するにロンドン警視庁から派遣された警察たちだということが分かった。鍵が寮母の持ってきたマスターキーで開けられる。


「早く」


 ドアノブが、ゆっくりと回って扉が開かれた──。


 部屋に男たちが入ってくる。


「よし、彼が殺人鬼である証拠を捜すぞ! 見逃すな!」


 聞き覚えのある声が第一声に敷かれ、そこかしこから家探しする音がした。不快でいっぱいになりながらも僕はエヴァン師にしがみついた。

 ここは三階の窓の近く。ベランダなどなく、少しだけ出ている煉瓦の突起が僕と師の足場だ。壁に背を付け、蟹のようにゆっくり足を動かしながら僕の部屋の窓を目指した。


「オスカー」


 先鋒を急いだ師が僕を見る。僕はというと、あまりにもスリリングな経験のため、今にも失禁しそうだった。恥ずかしながら、僕はまだ子どもなのだ。だから、だから、仕方ないのだ、恐怖を感じていても仕方ない。

 落ちたら真っ逆さま。

 落ちたら……。

 石畳の花壇が見える。薔薇の花が咲き乱れて……もし、もし顔から落ちて、口に、目に、棘が思い切り刺さったら?それよりもこの前食堂に出た西瓜のようにぐしゃりと潰れてしまうのだろうか。


 僕の類いまれなる妄想はさらに僕を恐怖のどん底に貶めた。


「下を向いては──いや、もう向いてるな」


 師が僕の腕を掴んだ。どうやって窓を開けたのか分からないが、僕はいつの間にか体を肩に抱かれ、部屋のなかに入っていた。


「し、死ぬかと思った……」

「うっかり事故で死ぬのであれば、私は大歓迎だ」

「はあ?!」

「自殺と魔法使いの前で死ぬのは勘弁してくれよ」


 肩を竦めて僕を降ろし、エヴァン師は我が物顔で僕の椅子に座った。そしてテオの日記を再び読みはじめる。


「……テオが黙秘しているのに、日記が関係あるんですか?」

「本当ならばあの場で魂に干渉すれば、彼が何を見たか分かるんだが魔術師たちがずっとテオを見ているのだからできなかった」

「いたんですか?」

「ああ。そして私が死神だと気付いて追っ手を放った。上手く紛れていたんだがね」


 そりゃあ顔の悪い人間は悪目立ちするものですよ。なんて僕は言えるはずがなかった。

 僕は別室の小さなシャワールームに入り、朝に洗い流せなかった汗をシャワーで落とした。制服から普段着に着替え、もう一度師の元へ戻った。


「あの、お風呂入らなくて大丈夫ですか」


 油彩の匂いが染み付いてしまったのか、さっぱりしたあとなんとなく師から漂う油の匂いが気になった。意外と染み付いてしまうものだ。


「ああ。そうしようかな」


 僕にテオの日記を投げつけてフロックコートをその場に捨てる。物への愛着が希薄すぎる行動をしながらシャワールームへと姿を消した。


「着替えは?」

「ノン。必要ない」


 簡単に拒否された。行く宛のなくなった良心は萎み、どうすることもできない僕はベッドの淵に座ってテオの日記を開くことしかできなかった。人の秘密を暴くという暴力的な行為に胸が張り裂けそうになりながらも、頁を捲る。


 内容はごく普通。僕より筆まめとも言える。ことこまかに一日の流れ、起きたことを記しており、たくさんの登場人物が出た。勿論僕もちょくちょく出ている。

 進むごとに不穏な文章が出てきているような気がしないでもない。二月にジゼルという女の子の病気が重症化していく様子を小説のように詳細に記していた。何より、その女の子の親であるアントニオ氏の様子も焦燥の色が滲んでおり、二人で教会にお祈りしに行ったことまである。

 僕は驚いた。そして沈んだ気持ちになった。テオがここまでしているだなんて知らなかったのだ。ずっと自分のことばかりで全く周囲のことなんて気にしていなかった。怠惰だった。そして次の頁で僕は完全に打ちのめされた。


『ジゼルが自殺した』


 まだ見ぬ少女の自殺。きっとテオは悲しんだことだろう。病床の回復を教会に祈るほどだ。それなのに結末がこれとはあんまりだ。

 少女は何故自殺を選んだのだろうか。自殺したいと強く願ったことのない僕には到底たどり着けない感情だ。

 僕はベッドに入ってもう一つの空のベッドを見る。同室の学生はみなしごの僕と一緒にいることを嫌って別の子の部屋に逃げ込んだ。無視よりもこれがかなり精神的にきたものだ。

 悲しくなって毛布のなかで丸くなっているとだんだん眠気がしてきた。体がずっしりと重たくて辛い。

 シャワールームの扉が開いた音がしたのを遠く感じた。

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