サマータイム・リフレイン

音無 蓮 Ren Otonashi

1.サマータイム・ビギニング

 僕と水瀬めぐりのファースト・コンタクトはプールの底だった。三年経っても憶えている、あの珍妙な夏の二日間を。


 僕の記憶の中でたゆたう水瀬めぐりは臆病な女の子という印象が根深い。陰気で常にカーストの底辺。両の目は前髪に隠れ、夏らしい季語で喩えれば、幽霊というか亡霊というか。お盆の墓で白装束を纏っていたら心霊現象と見間違ってもおかしくない。そんな、女の子だった。あくまで外見上の話だ。彼女と顔を合わせて話をする機会はこれより先にはなく、これより後にも二回しかなかった。


 真夏日のプールサイドにデッキブラシを杖代わりにして突っ立っていた彼女は不格好だった。プールの水色に釣り合わないし、そもそも夏の光に不釣り合いだった。夏の夜の柳の木の下がお似合いだ。


 プールは掃除を終えたらすぐに水で満たされて、順次体育の授業で使うことになっていた。ゆえに水は張っていない。


 薄い水色の水槽はところどころ塩素が白くこびりついていて、低くなった青空を箱庭に押し込めて独り占めにしている気分になる。


 いや、一人ではなかった。梯子で底に降りると先に掃除を始めていた水瀬が黙々とブラシで床を擦っていた。


 陽気を発する空の入れ物に、デッキブラシ一本片手に飛び込んだ彼女は容器を引っ提げた梅雨前線に似ていた。


 こしゅこしゅと、泡を立てながら、壁際から五〇メートルを丁寧に磨いていく。僕の方を一切見向きすることなく。


 先週梅雨が明けたばかりなのに、縁起の悪いやつだ。当番を代理出席しているこちらの身にもなってほしかった。二人だけでプールを隅々まで掃除しろって、なかなかの無理難題だったけれど、担任と体育教師直々のお願いだったので断れるはずもなかった。


 そう、掃除当番はそもそも五人だった。おまけに僕はその中の五人に含まれていない。水瀬を加えた五人が当番に任命された。学期始めに役職決めをする際に決定したことだ。


 推薦ではなく各々の意志で掃除当番になったものの、蓋を開けてみれば他の四人が水瀬に全部押し付けて帰ってしまったらしい。


 彼らはクラス内でもカーストの上位で向かうところ敵なしだった。いわゆる勝ち組だ。


 対して、水瀬はクラスの中でもいじめられっ子に近い陰気なキャラだった。厳密にはいじめられていないんだけど、カーストトップの四人にあしらわれているというか、便利な駒にされている、というか。


 天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず、とは福沢諭吉大先生の名言で、僕の座右の銘でもあるんだけれど、どうにも上下関係に重きを置きたいのが人のさがであるらしい。同じ高校二年生なのに上も下もないはずだけど。窓際族からしたらどうでもいいことだった。哀れだな、と達観さえしていた。中途半端に人間とつるめば水瀬のように後手後手に回る。そうすれば、すぐに下に立っていつと錯覚してしまう。


 馬鹿馬鹿しくないか。余計なストレスに気を払う前に、彼らと距離を置けばいいのに。


 窓際族の心得。その一、イヤホンで耳を塞ぐ。その二、机に突っ伏して目を塞ぐこと。その三、便所飯するくらいなら屋上行け。


 自分の世界に閉じ籠れば、人間関係に無駄なリソースを裂かなくて済む。僕と他人との間にベルリンの壁よりも分厚い壁を築く。意思が固ければそうそう取り壊されない。


 しかし、人とのかかわりを完全に断ち切るのは不可能だった。自分で言うのもなんだが僕は他人によく見られたいと思いがちでもあった。なんというダブルスタンダード。これは先天的なものなのでなかなか直すことはできないし、直す必要もないと吹っ切れている。


 十分な評価が欲しい。だから、内申点は常に高く維持している。テストだって学年上位一〇番をキープするくらいだった。別に推薦で大学進学を画策しているわけでもない。というか、推薦合格してしまったら受験期のピリついたクラスの中で恰好の的になってしまう。壁を物理的に壊されてしまっては堪ったものじゃなかった。受験勉強で苦労心労が減るならきっと、素晴らしく優越感に浸れるだろうけど、目立つのは勘弁だった。


 僕が掃除当番を代わった話に戻ろう。といっても、日直当番の職務を終わらせて帰ろうとしたところで担任から引き留められ、プール掃除を手伝うように命じられただけなんだけれど。その際に掃除当番のうち水瀬以外はサボってしまった旨を伝えられたのだ。


 親切心からすぐに承諾したが、担任は僕が現金な性格をしていると勘違いしていたので、掃除の対価として担当教科である数学の内申点を挙げておくと約束してくれた。


 棚から牡丹餅。願ったり、叶ったり。徳を積めばたまにはいいこともあるらしい。餌がなくとも断るつもりはなかったけど。


 というわけで。職員室で体育教師から備品のビーチサンダルを拝借するとすぐに屋外プールへと向かった。体育着に着替えて、倉庫から新品のデッキブラシを持ち出す。


 微かな塩素の臭いが鼻につく。

 夏の始まりを実感する。


 プールの端に設けられた梯子を伝って底に降り立つ。水瀬はというと僕がプールに到着した時と同様、黙々と底を擦っていた。五〇メートルを磨き終え、折り返し地点に到達したところだった。


 あちらが無言なら、僕には構う理由もないので背を向けてひたすらブラシを滑らせた。


 水色の床のあちらこちらに水で満たされたバケツが置かれていて、中心線に沿うように三本のクレンザーが等間隔に並んでいた。


 そのうち手近にあった一本を片手に、手近なバケツをひっくり返して、乾いた地面とブラシを潤わせる。蓋を開けたクレンザーの容器をきゅっと押してみれば、円弧を描いて白く、どろどろした液体が弾け飛んだ。水音をを立てて地に貼りつく。


 あとは足を滑らせないように注意深く磨くだけ――。


 そのときだった。


 足元にひんやりとしたものが駆け抜けた。


 あまりにもいきなりだったので思わず吃驚して、その弾みで足の裏が床を掠めた。つるっとオーバーなくらいの効果音とともに刹那、宙で跳ねて、次の瞬間ばしゃっと水が飛び散り、僕はしりから水たまりに飛び込んだ。


 飛沫が散乱する。……あー、下着が水浸しでぐしょぐしょだ。気持ち悪い。


 背後に影が近づいた。犯人はただ一人。思わずムッとして振り返った。無神経そうな水瀬の顔がこちらを見下ろしていた。細くしなやかな影が視界を覆う。


 怜悧な二重瞼。背中に伸びた厚ぼったい黒の髪。半袖の上着にくっきり浮かぶ下着の跡と起伏。紺色短パンの隙間に潜む未確定領域。


 夏風がぶわりと吹いて、そのせいで柑橘類の臭いが鼻の粘膜を侵略した。頭がおかしくなりそうだった。思春期とはかくも恐ろしいものなのか。


「何じろじろ見てるの、気持ち悪い。

 あと……誰? 知らない顔だけど」


 ハッと意識が掘り起こされる。苛立ちが戻ってくるのにそう時間はかからなかった。


 クラスメイトが僕の存在を忘れていたことには一瞬だけ、そう、ほんの一瞬だけ傷ついたけどそもそも僕は窓際族だ。無駄に認知されないように教室の隅で外界との交信手段を遮断しているんだからそりゃ、名前すら知られていなくても文句は言えない。


「……同じクラスの草薙だよ。草薙湊」

「ああ、窓際でよく黄昏てる奴ね。空気みたいだから忘れちゃってた」


 弱気なキャラという印象から打って変わって水瀬めぐりは相当の毒舌家だった。少なくとも、クラスでは微塵も見せない一面。素顔なのか、同族嫌悪か、それとも下等に見られているのか、舐められているのか。


 同族? 冗談じゃない。

 認めない、認めるものか。


 見ず知らず、ほぼ初対面の人間に罵詈雑言を投げる女よりかは人間性も幾分かマシだという自負はある。


「君の境遇よりかは空気の方がマシだ」


 ガランッ、とデッキブラシが床に転げ落ちた。肩がぶるりと震えてしまった。水瀬のものだった。


 これじゃ、人のこと言えないじゃないか。

 熱に浮かされた頭が急速に冷えていく。

 恐る恐る、水瀬の顔を覗こうとした。

 が、両手を翳され視界が遮られる。


「確かに、空気の方がマシかもね。ちょっとだけ、羨ましい」

「……カーストの奴らと関わるのをやめればいいじゃないか。自分から離れればいい。

 難しい話じゃないはずだと思うけど」


 返ってきたのは疲れ切った掠れた声。


「ふふ。できれば苦労しないんだけどね」

「……? どういう」

「あれとは中学の頃からの顔見知りなの。今更印象を変えるなんて、そう易くない」

「じゃあどうしてわざわざこの学校に入ったんだよ」

「ままならない理由ってあるでしょう? 第一志望に偏差値が届かなくてやむを得ず、とか」

「心中お察しするよ。でも自業自得だ」


 相談事を受けているわけでもなく、他人の愚痴を聞き入れるわけでもない。僕はただ一蹴することしかできなかった。何故なら、過去の自分と照らし合わしてしまうからだ。


 彼女は、「そうかもね」と申し訳なさそうに微笑んだ。呆れを通り越したときのどうしようもない笑い方だった。



「でも、」


 水瀬はくい、と上を向いた。影になっていた頭部がズレて日光が真っ直ぐ射してくる。強く、目を瞑った。


 鼓膜だけが外界と繋がっていた。自分の世界と他人の世界を繋ぐイヤホンの片割れだった。だから、


「もう、大丈夫。大丈夫だから」


 反芻される、自分に言い聞かせるような口振りが余計に耳元にこびりついてしまった。


 大丈夫? 何が、だろう。

 まさか。

 ふと、最悪な結末へと考えが至る。


 さっきまで一言も交わしたことがなかったほぼ赤の他人が目の前で自殺の宣告をしているとしたら。


 僕はどのような対応を取ればいい。

 どのように救済すればいい。


 相手はこちらを気にも留めず、そのうえ僕に対しては罵詈雑言を垂れ流し、絶やさない性悪な人間だ。


 だが、赤の他人ではなくなってしまったことで見殺しにする選択肢はなくなったようなものだ。ただのクラスメイトが自殺しただけでも十分に吐き気が込み上げて仕方がなくなるだろうに、よしや少しでも自分の知り合いになってしまった人間に、目の前で自殺宣言でもされてしまったら止めるしかない。止めるしかないじゃないか。選択肢はただ一択に狭められる。


 だって、無視して本当に自死を選んでしまったら? きっと僕は見殺しをしたような公開の杭に打たれて一生重い身体を引きずらなきゃならなくなるだろうから。


 救わなければ、僕までも殺されることとほぼ同義だ。

 ……冗談じゃない。ニアピンで他人なのにニアピンだから放っておけない。


 大丈夫。その三文字が僕を殺す。

 たとえ思い込みだったとしても。


 水瀬。お前のせいでお前を気にかけなきゃ済まなくなったじゃないか。

 むしゃくしゃが加速する。加速を止めることなく、舌を強く叩き、台詞は音となる。


「自殺でもするのか? やめとけよ。ちょっとでも苦しい思いをして死んでも、良いことなんてないだろうし」

「まるで一度自殺したかのような口振りね」


 水瀬の勘は鋭かった。だけど、彼女には関係ない話だ。口を噤んで目を逸らす。嘘を吐くのは上手くなかったが、あからさまな誤魔化しを察したのか、彼女は追及をしてこなかった。


「死ぬわけないでしょう。それも自殺だなんて、馬鹿馬鹿しいったらありゃしない」

「じゃあ、大丈夫ってなんだよ」

「大丈夫っていうのは、大丈夫よ。もうあいつらとお別れできるってこと」

「殺しは良くない」

「諭されなくても分かっているわよ。もしかして被害妄想が激しいお方で?」


 一々口が悪いが、しょせん彼女は社会的弱者に変わりなかった。クラスという社会の最下層。搾取される側。


 僕だって同族に近い扱いだけれど、そもそもクラスという小社会から手を引いている。 

 社会的弱者じゃなくて、社会不適合者。

 だから弱者に対しても憐憫の視線を向ける。

 水瀬は僕の目が映す感情を汲み取ったのか、長く静かな溜息をついた。


「一言一句、真っ直ぐに正しい言葉を伝えれば、あいつらに毒を吐く勇気があればよかったのに、って思っているんでしょ?」

「それも一つの手だっただろうな」

「そう、ね。結局、私はやっぱり弱いんだよ。影ではコソコソ悪口言い放題できるのに表舞台では縮こまる、強い人の言いなりになることしかできない。そんな自分が嫌になる」


 自分が、嫌になる。

 勝手に嫌になってろ。向上心のないやつは馬鹿だ。


「私は、変わりたかったんだ」

「うわ言にしては上出来だろうな。ほら吹きでも目指してるの?」

「……いや、変わるんだ。今度こそ」

「そうやって何度諦めてきたんだよ」

「君に私の何が分かるって言うの!?」

「何も、分からないだろうな。いや、分かりたくもない」

「何ですって?」


 加熱していく水瀬の言葉に掛け合うつもりはなかった。

 ありったけの本心だけを吐き出す。


「変わろうとしても周りに阻まれて変わることができない、許されない。君にはその気持ちが分からないでしょう?」


 こちらが本心一〇〇%を投げつければ、あちらは一二〇%を投げ返してくる。

 不毛な持論のドッジボール。

 勝ち負けなんて概念存在しない。どちらかといえばどちらも負けだ。


「中学生の頃から変わりたかった。ずっとずっと、本当に、ずっと。でも願うだけだった。願うだけ。自分で叶えるなんて大層なことできなかった。……君にとやかく言われる筋合いはないにしても、私は私を弱いと痛感してる。君に言われなくてもね」


 願うだけだった。だけだったなあ。と自嘲げに後悔の証を塩水にして心に擦り付ける水瀬。デッキブラシをのそのそと持ち直すその猫背の後ろ姿はより小さく見えた。


 ああ。


 水瀬はいつか変わりたかった頃の僕に似ている。変わりたい自分を自分で抑止していた、中学時代の僕に。


 人生のルートを分岐させるにはそれなりの勇気は必要なんだと思う。事実、僕は変わるために、ルートを分岐させるために自分なりの努力はしたつもりだ。


 他人と深く馴れ合うことをやめるという選択肢を取るために、距離感の取り方を覚えようとした。そして、覚えた。


 それより以前は、僕も水瀬めぐりと同じ系譜を辿っていた。カースト下位でうろちょろしていた僕は上位の明るく陰湿な奴らにとって都合のいい手駒になっていた。


 だから、水瀬が映し鏡のように見えたのだ。


 人との馴れ合いを極力避ける選択肢を取った僕と、選択肢を掴めない、中途半端な水瀬。


 馬鹿で、愚かだと一蹴するのは簡単だろうけど、する気は起きなかった。許せなかった。


 選択肢を掴み取る勇気がない、という選択は弱者の常套句に過ぎない。でも、一度僕が通ってきた道でもあった。


 決して、他人から良く思われたいから彼女を支持するわけではない。

 強いて言えば。かつての僕が、水瀬と同類項だったから。

 これじゃまるで情けをかけてるみたいだ。


 なんとも憎たらしい。本能的な、自分の同族博愛精神が憎たらしい。他人と馴れ合うつもりもないのに、他人を甘く誑かして。


 きっと僕も中学生時代から言うほど大きな変化を起こしていないのかもしれないな。


 外見が変わっても、中身を変えるにはそれなりの意識と手間と時間がかかるはずだ。


「……私ね、転校しちゃうんだ。だからもう、大丈夫。次の学校で失敗しなければ、いい」

「初耳だな」

「担任には黙っていてもらうように釘を刺したから。事前に知られたら弄られるから」

「いじめられっ子は大変だな」

「他人事ね。でも、一学期が終わるまでの辛抱よ。それまでの我慢。どうせ一か月もないわけだし、終わってしまえばこっちの勝ちなんだから」

「……お前がいいんだったらそれで構わないよ。知った義理じゃない。赤の他人同然の僕にできることはないんだからな」

「君が無力なのは知ってる。無害そうな顔をしてるし。周りに危害は加えなさそうね。内に内に、自分だけを変えようとしている」

「そりゃ慧眼だな。鋭い指摘どーも。ってか僕にはその口調なんだな。普段は物腰柔らかい癖に」

「委縮してるだけよ。でも、君は私と同じ匂いがしたから」

「柑橘系の香水はつけてないからな」

「あら。わざわざ嗅いでいたのかしら。でも香水はしてきてない。シャンプーよ」

「……全部、夏風のせいだ」


 それっきり、僕は黙り、水瀬も黙った。


 デッキブラシが水槽を磨く音がこしゅ、こしゅと続く、連なる。一時間を過ぎたところでクレンザーの泡は塩素の白とともには水槽から完全消滅した。


 その頃には、ずぶ濡れだった紺色の短パンと下着はある程度乾いていた。


 掃除を終えて、一人更衣室に籠って制服に着替える。汗水をたっぷり吸いこんだ体操着をリュックの中に詰めて、代わりにロッカーから制服を取り出す。


 薄手の黒い長ズボンを腰丈まで手繰り寄せ、両股を締めて固定する。その間に、半袖のワイシャツを急いで纏う。ぷつぷつ、と一個ずつボタンを留めていくけれど、手先が水に浸かりすぎて皴だらけだったので上手くいかない。


 ふと。ぴしゃん、と横開きの扉がレールを滑って壁に激突した音があった。

 誰かが更衣室の扉が勢いよく横に開いたのだ。


 ワイシャツを着ている最中だというのに、水瀬が更衣室の床を踏む。

 でも、ここは男子更衣室。言うならば、水瀬はアウェイ。敵陣。


 彼女が既に白い夏服に着替えたあとだったことから鑑みるに僕が男女の更衣室を誤認していたわけではなさそうだった。

 では、なんで水瀬が?


「下着、隠してよ」


 じとっと不機嫌そうな目つきで睨んでくる水瀬のおかげで僕は現実に引き戻される。そういえば、ズボンはまだベルトで固定していなかった。慌てて、後ろを向く。

 さっきまで通らなかったボタン穴が嘘みたいにぱっくり開いて、ボタンを抑え込む。火事場の馬鹿力がはたらいたような気分だ。さすがに火事場よりは厄介じゃないんだろうけど、生憎、いや幸い、僕は家事を経験したことがなかった。


 僕からしてみれば水瀬に着替え姿を見られたことは家事と同じくらいの大惨事だった。


 予想外の一撃に思考がぶん殴られ、揺さぶられる。

 ボタンを留めて、ベルトを普段よりきつめに締めると、僕はおずおずと背後へと振り返った。

 水瀬の顔は相変わらず飄々としていたが、耳元だけはあからさまに真っ赤だった。


「……顔、赤いけどどうしたの?」


 僕はカマをかけてみた。不意打ちの代償だ。

 蓋を開ければカマかけは大成功だった。

 耳だけが赤かった彼女の顔はぼふんっ! と音を立てて全体まで真っ赤っかに染まった。彼女らしからぬ気の動転に思わず吹き出してしまう。近づいてくる水瀬に再三注意されるが、知ったこっちゃなかった。


「で、どうして僕のところに来たわけ? わざわざ男子の更衣室を覗きに来たってことは急用?」

「ま、まあ。そんなところ」


 場所は変わって、屋外プールから昇降口へと繋がる外廊下だった。西日が眩しく。僕の右に立つ水瀬の方を向くにも、手でひさしを作らないといけなかった。


「別に大したことじゃないんだけど」

「ややこしい説明は不要だ。水瀬は何をしたくて僕を呼びに来たんだ?」

「…………つまらないお願いなんだけどいいかな」

「僕にできる範囲だったら」

「じゃあ、簡単ね」


 一歩、飛び跳ね二歩で行く先を遮られる。


 にへら、と微笑んだ水瀬が立ちはだかった。

 満面の笑み。クラスじゃ見せない少女の一面。脈動が鼓膜を揺るがす。

 なのに、どこか威圧感がある。


 彼女の顔が至近距離まで近づく。

 顔にかかった彼女の髪と、柑橘系の匂いが心臓に悪かった。


「私はね、お祭りに行って、二人で花火を見たいの。簡単でしょう?」


 君でもできるはず、と。額に人差し指を突き立てられた僕は続く言葉、返す台詞を一切編み出すことができなかった。


 ああ、簡単の尺度は人それぞれだったな。

 当たり前の論理を見落としていた自分を盛大にぶん殴りたかった。


 僕に今更、拒否権はなかった。

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