第3話

 刹那、七つの球体が猛然と男に向かって突き進んだ。男は踵を返すが、一歩も足を動かさないうちに、球体に取り囲まれる。四方八方から白色の光に照らされた男の、薄暗い部分を子細余さず浮かび上がらせるように。


「す、すごい……」


 うだつのあがらない男が感嘆する。ちとせは制服の上からでも分かる豊かな胸をむんと張った。


「本気になった私はそこはかとなく怖いですよぉー。さぁさぁ、その書類を渡してくださぁい!」


「ひ、光る球がなんだ! こんなもんちょっと明るめで便利な照明じゃねーか!」


 男はじりじりと後退しながら、書類を拾い上げる。一方、自分の能力を便利道具扱いされたちとせはむぅと唇を尖らせたが、やがてにっこりと笑顔を浮かべた。


「ただの照明じゃないですよぉ」


 言うが早いか、ちとせの白魚のような人差し指がすいっと天を指した。それに呼応して球体の一つが、占環島の抜けるような青空に浮かび上がる。


「あ、高野さん。——あと、そこの方」


 ちとせは背後に控えていた男と、そして兜人に向かって突然呼びかけた。


「後遺症の危険はないですけど、あんまり直視しないでくださいね」


「……え?」


 兜人の疑問を置き去りに、球体はぐんぐんと高度を上げ、やがて空に昇る太陽とぴったり重なった。それと同時に球体が徐々に光量を上げていく。辺りは真夏に勝るとも劣らない明るさに包まれていった。ちとせが言ったその意味にすんでのところで気がつき、兜人はとっさに球体から視線を逸らした。


 その、一瞬後だった。


「——爆発えくすぷろーどっ!」


 ちとせがそう命じた、次の瞬間には球体が爆発を起こしていた。


 ——そう、爆発だ。


 それも大爆発である。


 まるで太陽自体が弾けたのかと勘違いするほどだった。轟音と熱風が上空で炸裂し、その場にいた者の肌をきつく叩く。そして爆発に伴う光をまともに見てしまった男は、ぎゃあっと叫んで目を押さえ倒れ、その場でごろごろと転がった。


「目がぁ、目があああ……!」


「ふふふ、私にたてつく人は、大抵そう言ってすっ転がるんですよぉ」


 なにげに怖いことを言いつつ、ちとせはスカートのポケットから白いハンカチを取り出した。男の傍らに落ちていた、べちゃべちゃに濡れて丸まった書類を、ひょいとハンカチ越しにつまみ上げる。七つの球体——いつの間にかあの爆発した球体も復活している——囲まれ、逃げ場も失われた男はがくりとアスファルトに突っ伏した。


「よぉし、任務完了みっしょんこんぷりーとっと。はい、高野さん、どうぞです」


「あ、ありがとうございます、恵庭さん……!」


 唾液まみれにも関わらず、高野は受け取った書類を大事そうに腕で抱きしめる。

 兜人はようやく我を取り戻し、肩の緊張を解いた。行き場のなかった右手を握ったり開いたりしてみる。掌の皮を覆っていた熱はいつの間にか失われていた。


「さぁて、後の処理は庶務さんに任せてーっと。……あっ!」


 ちとせが思い出したとばかりに振り向いたのは、兜人だった。


 大きな瞳がこちらを捉える。


 日本人の平均よりも少し色素の薄い瞳。


 それは言うなれば——ミルクティー色をしていた。


「お騒がせしました、どうぞお通りくださいね」


「いえ、その……」


 兜人は懐の紙切れと、ちとせの背後にある建物を見比べる。


「自分は労基局に用事がありまして」


「へっ? あ、そうなんですか?」


 ミルクティー色の双眸がぱっと見開かれる。


 兜人は固い口調で続けた。


「はい。労働基準監督局執行課・第五番個別相談窓口にお取り次ぎ願えますか」


「えっと……?」


 戸惑ったようなちとせの表情に、兜人は眉を顰めた。芽室のほくそ笑む姿が目に浮かぶ。まさかそんな部署はなく、からかわれたという可能性はなかろうか。


「聞いた話では……通称・お茶会ティールームと呼ばれているそうですが」


 さらに詳細を言い募ると、ちとせは急に大きく頷いた。


「それは……何を隠そう、私の部署ところです」


「え……?」


 両者の表情が入れ替わる。兜人は大いに戸惑い、ちとせは心得たように微笑んだ。


「芽室生徒会長からお話は聞いてました。ついさっき、ですけど。こんなに早いとは思わずごめんなさいね」


 ちとせがゆっくりと歩み寄ってくる。先ほど球体を華麗に操った白魚の手が、労基局の中に向かって差し出された。


「立ち話もなんですし、中へどうぞ」


「は、はぁ」


 導かれるがままにちとせと、そして高野と労基局の建物内に入る。


 外観の無骨な建物からは想像し難い、広い入り口だった。吹き抜けになっている階段に、その上の大きな天窓から、昼間の陽光がさんさんと降り注いでいる。


 受付で高野を書類と一緒に別部署へ引き渡したちとせは、勝手知ったる風に階段をどんどんと登り、二階の廊下を突き進んでいった。


 廊下の両側には個別相談窓口が並んでいる。どうやらブースではなく、一つ一つが部屋になっているようだ。


 その第五番の前で立ち止まり、ちとせはおもむろにドアを開けた。


「こちらでーす!」


 扉の奥に開けた部屋、その内装に兜人はぎょっと目を剥いた。


 真っ先に飛び込んできたのは、ピンク色を基調とした壁紙だった。しかも小ぶりとはいえハートとダイヤのモノグラム模様である。部屋の中央には白いテーブルと揃いの白い椅子が四脚。どちらも女性が好みそうな可愛らしい猫足である。向かって左側の壁には色とりどりのティーカップとソーサーが並べられていた。その隣にはミントグリーンとホワイトのタイルに飾られたミニキッチンがあり、コンロにはころっとした丸い琺瑯製の薬缶が置かれていた。さらに向かって右側にはこれまた取っ手がダイヤカットのガラス製になった瀟洒な本棚が置かれている。多分、ここに書類などが入っているのだろうが、部屋の雰囲気を守るためか無骨なファイル類は一切見えないようになっていた。


 なんだか自分がとても場違いな気がして視線を足元に下ろす。ついさっき、扉を隔てた廊下まで無機質なタイルだった床は、薄い緑色のふかふかな絨毯に覆われていた。


「ふふふ、可愛いでしょ?」


 まるで自分の子供を自慢するように、ちとせは胸を張った。


 そしてスカートの裾をつまみ上げ、ちょこんと会釈する。



「ようこそ、お茶会ティールームへ。——歓迎します、宗谷兜人くん」



 ……これはまたややこしいことになった。


 ちとせの面前ながら、兜人は思わず天を仰いだ。天井だけは役所らしく通常の照明——というわけではなく、小ぶりながら輝くシャンデリアが我が物顔で吊り下がっているのだった。

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