月下の別離




 ウタクはなるべく丁寧に、あばら家の立て付けの悪い戸を開ける。

「こんにちは、先生」

「……来たのか小僧」

「妹の、レッラの体調が良くないので」


 それを聞いて、医者の老女は眉間の深い皺を一層深くする。

「……心労ってやつだよ。なんだかんだでお前たち兄妹はまだまだ子供だ。父親を亡くすには早すぎた。……いや、人を亡くすのには、いつだって早すぎるもなにもないんだけどね」

「先生」

「上がんな。すぐに薬を調合してやるから」



 本に埋もれた小さな家の奥では、武術の『師匠』がいつになく難しい顔をして腕組みをしていた。

「ウタク、よく来たな」

「師匠、今日は将棋はどうしますか」

「……いや、いい。それよりもウタク、ちょっと気になる噂を耳に挟んだのでな」

「噂、といいますと」


「まぁ、あまりまっとうとは言えない兵どもが、お前の村のあたりをうろついているという話だな」




 道とは言えないような険しい山道を歩き、大切な薬を手にウタクはようやく村に戻ってくる。

 

 だが。


 ……もう夕暮れ時だというのに、ずいぶんと人が外に出ている。

 なぜだろうか、その違和感に嫌な予感を覚えてしまうのは。


「あ……ウタク」

「……ウタク、お前」

 村人達はウタクの姿を認めると、気まずそうに目をそらす。


 その光景に、ウタクの心臓がばくばくと不快に鼓動した。

 まさか。


『まぁ、あまりまっとうとは言えない兵どもが、お前の村のあたりをうろついているという話だな』


 ――ウタクは、走った。




 走る。疾駆する。駆け抜ける。

 鮮血のような色をした夕暮れ時に、風のように。


 十五歳になったばかりの若く、しなやかな肉体が躍動する。ウタク・カムイは、この上なく急いで村はずれにある自分の家を目指していた。



 まさか。

 母さん。

 レッラ。


 まさか、そんなこと。



「ただいま戻りました!」

 野生のコスモスに囲まれた村はずれの小さなカムイ家の戸を、勢いよく開けた。



 そこに広がっていたのは、夕暮れよりもなお赤く染まった母の、四肢と、首。

「な……」


 赤く。赤く。赤い。

 いつも家族で過ごした小さな家が、母の血でどこまでも赤い。


 ぱさり。

 震える手が、大切な薬を落としてしまったことにウタクは気づいた。

 大切な、妹のための薬が、拾わなくては。


 ……。


「……レッラ」


 レッラが、いない。

 家のどこにも、レッラがいない。その遺体さえも。

「レッラ、どこに」

 

 そう呟き、次の瞬間にはウタクは村に向かって駆けていた。

 おそらく村人たちはこの惨劇を知っていて、先程ウタクから目をそらしたのだ。

 ということは――。


「母は一体……それにレッラは……妹は、どこに、いるのですか……!!」

 ウタクは村長の家の戸を壊さんばかりの勢いで開け放ち、ありったけの声で叫んだ。

 どこに。

 妹は、一体どこに。


 村長の家に集まっていた大人たちは、一斉に目をそらす。

 やがて、村長が苦々しい表情で、口を開いた。


「妹は……兵たちに、連れて行かれたよ。彼らの、慰みものとして。お前の母はそれを止めようとして、斬られたようだ」

「な……」

 何を言われたのか、一瞬わけが分からなかった。

 妹、は、連れて行かれた。


 ウタクは踵を返した。

 取り戻さなければ。

 父を喪い、母を殺された。

 この世で、お互いしか身内がいなくなってしまった。

 もう、レッラを守れるのは……ウタクだけなのだ。


「待て、ウタク……どこに!」

「決まっています。妹を、取り戻します」


 村人たちは、己の財産や命惜しさに母を見殺しにして――そして兵達がレッラをさらっていったのも見て見ぬふりをしたのだろう。

 誰も、ウタクら兄妹を守ってはくれないのだ!


「ま、待て!」

「待ちません!」




 

 走る。疾駆する。駆け抜ける。

 ひたすらに、山道を走り抜けた。

 略奪を終えた兵たちは、馬で己の持ち場に戻るのだろう。その場所はわかっている。


 ――レッラ!!


 鮮血のような色をした夕暮れが、薄青い夜となり、そして月だけが輝く昏い真夜中になっても、ウタクは走るのを止めなかった。


 びゅうびゅうと、冷たい風が吹きつける。

 こんな夜に、レッラは。


 やがて、ウタクは山道の少し拓けた場所に出た。

 そこには煮炊きをしたのか、簡易なかまどの痕があり、椅子代わりにしたのだろう倒木がいくつか集まっていた。

 そして。

「……っ!」


 刃物で切り刻まれたらしい藍染の布の断片が、たくさん。それは見覚えのある模様が染め抜かれている。

 ……これはレッラが、着ていた……。

 

「……っ、うぁあああっ!!」


 咆哮しながら、泣きながら、ウタクは走った。

 泣くな。

 レッラは、きっともっとつらいのだから。

 そう言い聞かせても、涙が溢れ出して止まらない。



「レッラ、どこですか、どこに……いるんですか!!」

 泣きながら、最愛の妹を呼ぶ。

 

 レッラ、愛する妹。

 どうかあなただけでも。



 その願いを――何者かが、残酷なカタチで受け入れてくれたらしい。


「にい……さ、ん」


 それはほんの微かな声。

 だけど、ウタクはそれを聞き逃さなかった。


 その声を頼りに、ウタクは昏い山道の枝をかき分け進む。

 やがて――清涼な流れの小川に出た。


 冷たい月が輝く、ほの青い夜の闇。

 その中に、白い裸身が浮かび上がって見えた。


「レッラ……!!」


 ウタクは最後の力を振り絞るがごとく、彼女に向かって駆けた。

 

 妹は、ぼろぼろだった。

 殴られたのか、体中赤い傷と青いあざだらけで。

 涙を流し尽くしたようで、頬には幾筋も涙の痕があり。

 そして、血を吐いたようで、口元は赤い血にまみれている。


 そんな彼女を、ウタクは抱きしめて泣いた。


「レッラ……申し訳ありません、レッラ……」

「に、い、さん……?」

 光を失った瞳で、レッラはウタクを見つめていた。


「レッラ、間に合わなくて、申し訳ありません……私の、妹……」

「……にい、さん」


 妹は、兵に暴行を受けて……もう、息絶えようとしていた。

 ウタクは、間に合わなかったのだ。


「にいさん……」

 泣き叫んでざらついたのだろう声で、レッラはウタクを呼ぶ。


 そして――



「平和な世界なら……皆、幸せだったのかな……」




 そう言い遺し、レッラ・カムイは――冷たき月の世界コンル・クンネテュフを永遠に旅立った。




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