第3章 再会 その5

 川端駅東口の広場は、夏休みという事もあって、多くの家族連れで賑っている。

 白い柱時計の前で俊介はキャミーと思しき女性を見つけられず、哲郎は柱時計を見上る巨漢に時折目をやりながらスマホを気にしている。既に時刻は、五時十分を過ぎていた。


「俊介。待ち合わせ場所合ってるのか? もう約束の時間から十分過ぎてるぞ」

「遅れてるのかも……」

「どんな人なんだ。なんたら言うのは」


 どんな人と言われても、実際に会った事はないから分からないとしか言いようがない。

 しかしヴァルサスの言からすると、


「多分女の人。ゲームの中だと小さい見た目で可愛い感じ」

「そうか。本名は? どんな名前なんだ?」

「知らない。ゲームの中では、キャミーだけど」

「もしかしてボルトさんですか?」


 突如野太い声が俊介の鼓膜を濡らした。

 声のした方を見やると、総髪の巨漢が俊介を見下ろしている。服装は、黒のパンツスーツであり、二メートルに迫ろうとかいう肉体を強引に詰め込んでいるようだった。


「ソウルディバイトをやっているボルトさんですか?」


 再度掛けられた声に、違和感が生じる。

 錆びのように重い声だが、しかしどこか柔らかい印象を抱かせた。

 見た目と比較すると、この巨体にしては声が高いような気もする。

 この感じはもしかすると――。


「キャミーさん?」


 俊介が言うや、巨大な女の精悍な顔が柔和な笑みで綻んだ。


「よかった会えて。私がキャミーです」


 キャミーの名乗りに、俊介は驚愕こそすれ、ある種納得していた。

 彼女もゲームの中で理想の自分を演じていたのだろう。

 対してキャミーとの付き合いがなかった哲郎は、俊介の証言から浮かべていたイメージとのギャップを飲み込めていないようだ。


「俊介。小さい女の人って言ってなかったか?」

「ゲームの中では。て言うかこの人女の人じゃん」

「かわいいって言ってたよな?」


 哲郎の失礼な発言をキャミーは笑みのまま受け止めている。

 確かに二メートルに迫る体躯と巨漢と見紛う筋肉量は、一般的な美人の定義から逸れるかもしれないが、面立ち自体は二重の瞼に、通った鼻筋と中々に整っている。

 可愛いかと聞かれれば、アイドル的なそれとは方向性が異なり、コメントに困るのだが。


「父さんには、侠立ちとか握撃とかしそうな殿方に見えるんだが……」

「父さん。さすがに失礼過ぎ」

「気にしないでください。よく言われますから」


 この物腰の柔らかさは間違いなく女性だ。

 しかし哲郎は、尚も認めようとしていない。


「またまたまたまた」

「救急外来で外科医をしております田辺貴美と申します」


 一向に信じようとしない哲郎に、キャミーは名刺を渡した。名刺は淡いピンク色で、右上に猫の白い足跡が点々としている。

 ようやく信じたのか哲郎は、それ以上ないも言わずに名刺をズボンのポケットにしまった。

 顔合わせもひと段落したところで、ここへ来た目的を果たさなければならない。


「じゃあ貴美さん。さっそくヴァルサスの所へ連れて行ってください」

「バスで十五分ほどです。こちらへ」


 貴美の先導で俊介と哲郎の三人は、駅に併設されたバスロータリーに向かった。







 飯山二町目のバス停でバスを降りて二分ほど歩くと、海藤明の住む一軒家が見えた。

 小振りな二階建ての一軒家で、大分古いのか、外壁の白いモルタルが所々剥がれている。

 狭い門扉を潜り、俊介が玄関チャイムを鳴らすが反応はなかった。

 まだ六時前で陽が高いとは言え、家のどこにも電気がついている様子がない。

 出かけている事を疑いながらも、もう一度チャイムを鳴らすと気だるげな足音が扉越しに近付いてくる。


「あーちゃんいる?」


 貴美が扉越しに声をかけると、


「あれ? キミ姉ちゃんどうして――」


 小鳥のような愛くるしい声と共に玄関の扉が開かれ、一人の少女が出迎えてくれた。

 眼鏡の下の双眸は、くっきりとした二重であり、鼻筋は小さいながらも通っている。

 肩まで伸びた髪は、寝癖だらけで所々が絡んでおり、一切手入れしていないのが伺えた。

 上下黒のダボダボのジャージで小柄で華奢な体格を包んでいるが、胸の辺りだけは生地が張り詰めている。

 だらしのない風貌と青白い肌のせいで一見しただけでは気付けないが、容姿そのものは身なりをちゃんとすればアイドルと言っても通用しそうなほど整っている。


「久しぶり。海藤」


 俊介が声をかけると、海藤明は、扉を開けた格好のまま、呆然と立ち尽くした。


「え。なんで? 大島くんが……」


 ようやく状況を認識したのか、形はよいが、逆剥けだらけで血色の悪い唇が震え出す。

 咄嗟に明は、両手でドアノブを掴み、扉を閉めおうとした。しかし貴美が丸太のような右腕が扉を掴んで阻止する。


「あーちゃん、どうしたの?」

「どうしたもこうしたもないよ!!」


 扉を閉めようと懸命にドアノブを引っ張る明だが、貴美は片腕で抑え込み、びくともしない。

 逃げる事を許さない貴美だが、明に掛ける声は穏やかであった。


「彼は、心配してきてくれたんだよ?」


 俊介が貴美の作ってくれた扉の隙間に身体を捻じ込んで玄関の中に入ると、明はドアノブから手を放し、俊介から距離を取るように玄関から廊下まで引っ込んだ。


「あのさ、海藤」


 何を話せばいいのだろう?

 ここまで来たのに、いざとなると言葉が出てこない。

 バスに乗っていた道中、頭の中で色々な台詞を練習していたが、成果は真っ白になった意識の中に溶けてしまっている。

 俊介の沈黙に飲まれたように誰も一言も発さない。

 無音の焦燥感が数秒を数分に感じさせ、俊介に言葉を捻り出せと煽ってくる。

 言葉を間違えると、ここに来た意味を失いそうで怖い。

 だけど一番してはいけない行為は、沈黙を貫く事だ。


「俺、話がしたいんだ」

「何の話がしたいの?」


 たくさんあったはずなのに、気持ちを言葉に出来ない。


「あのさ海藤……」

「わたしを責めに来たんでしょ?」

「違う!!」


 本当にそうか?

 まったく責める気持ちはないのか?

 そう言い切ってしまうのは嘘だ。


「いや……ごめん。分かんない」


 でも責めたいばかりじゃない。他にも話したい事がたくさんある。

 ゲームの中で、ボルトとヴァルサスとして言葉を交わしていた時と同じように。


「ただ、海藤と会って話をしたくって」

「それでゲームの中まで追いかけてきたの?」

「追いかけてきたって……違う。俺は、あのゲーム好きでやってるだけで――」

「わたしが好きなゲームだって前に話したじゃん!! 覚えてたんでしょ!?」


 そんな話をした覚えはない。でも明が嘘を付いていないのは、分かる。

 話してくれたのに、俊介が忘れているのだ。

 さほど興味のない奴の話だったから。自分とは相いれないオタクの話だから適当に頷き、適当に答え、適当に兄の話題を出して雑務を処理するように。


 これを会話と呼べるのだろうか?

 他愛のない会話の内容をいちいち覚えている人間は居ないかもしれない。

 けれど明とどんな話をしてきたのか、俊介の記憶はおぼろげ過ぎる。


 無関心は、嫌いよりも悪辣だ。

 明にとってみれば、俊介が今更話をしに来たと言っても、何も信じられないだろう。

 彼女の気持ちも考えずに、自分のわがままのためにここへきて、わがままに明を巻き込もうとしているだけなのかもしれない。


「俺は……」


 ――例えそうだしても。


「ゲームが楽しいからしてるだけで、お前と会うとか、会わないとかじゃなくって」


「じゃあ何で来たの!?」


 ――うまく言葉にも出来ないけど。


「お前が――」


 ――ありのままを吐き出してしまいたい。


「お前がログアウトして逃げたからだろ!! もう戻ってこないつもりだったんだろ!!」

「戻れるわけないじゃん!!」


 明は、俊介をまっすぐに見据えた。

 俊介は、初めて明と目を合わせた気がした。


「自分が人生奪った人がいる場所になんか行けるわけないじゃん!?」


 初めて言葉を交わしている気がする。


「あの一件でわたしの人生だって壊れたの!! 少ないけど友達だって居た。あの学校での生活楽しかったのに」


 明の悲哀が錆びついた刃となって俊介の胸に食い込んでくる。


「こんな中途半端な時期に転校してきたのが、どんな扱い受けるか分かるでしょ!! わたしだって、わたしなりに辛いんだよ!! でも言っちゃダメじゃん!! 辛いとか、苦しいとか!!」


 そうだ。こういう事を話したかったんだ。


「だってわたしは、加害者なんだから!!」


 苦しかったのはお互い様だ。

 痛みと挫折。罪悪感と孤立。

 どちらも同じように苦しい。

 明の痛みは、きっとあの頃の自分と同じような痛みだ。


「殴ってよ! 足でも折ってよ! それで満足でしょ!」

「あーちゃん! ボルト君があんたの事どれほど心配してたか!!」

「うるさい!! キミ姉ちゃんと比較される気持ち考えた事あんの!?」


 だけど許せない事がある。


「医者と傷害事件起こしたオタクと……どんなふうに言われるか分かれよ!! 母さんからどんなふうに言われてるか分かってよ!!」


 また明を傷付けるかもしれない。

 俊介も傷付くかもしれない。

 それでも腹で煮立ったこの感情を表に出さずにいられなかった。


「何でも人のせいかよ。お前」


 まるであの頃の自分を見ているようでひどく不快だった。


「分かれ分かれって。まったく分かんねぇよ。どうして欲しいのか、ちっとも分かんねぇ」


 自分が一番傷付いていると信じ、周りの優しさが悪意に思えた。

 自分は苦しいのだから何をしてもいいと思っていた。

 そんな風に驕っていたゲームと出会う前の俊介が目の前に知るようで、我慢ならなかった。


「同情してほしいのか、助けて欲しいのかどうしたいんだよ!! はっきりしろってんだよ!!」

「じゃあわたしの居場所を返してよ!! あのゲーム止めてよ!! あんたには、何でもあるじゃん!! 父親も兄弟もいて、人気レストランだからお金だって持ってて、他にいくらでも趣味なんかあんじゃん!! なんであのゲームなの!? 他にもたくさんあんじゃん!?」


 明の瞳から涙が零れ落ちていく。

 けれど、俊介は怯まなかった。

 もう気を遣うのはやめだ。言いたい事を言いたいだけ、言ってやればいい。


「俺がどんなゲームをしようと俺の勝手だ!! 俺が追い出したんじゃない。お前が逃げたんだ!!」

「逃げる以外にどうすればよかったんだよ!」

「ちゃんと向き合って話せばよかったんだ!」

「話してる結果がこれじゃん!」

「お前がこじらせるからだろ!!」

「うるさい!!」


 明は、両耳を塞ぎながら駆け出して俊介の脇をすり抜けると、開かれたままの玄関扉から外へ飛び出してしまった。


「海藤待てよ!!」


 追いかけようと、俊介が右足を踏み出した瞬間、足首に焼けた鉄の鎖が絡みついたように熱を孕んだ。


「しゅ、俊介!?」


 俊介が右の足首を両手で掴み、その場に膝を付くと、哲郎が動き出すより速く貴美が駆け付け、大きな手で俊介の右足首を覆った。


「怪我した所?」

「はい……」

「見せて」


 貴美に言われるまま、俊介が右足首から手を放すと、貴美の指がその見た目とは似つかわしくない繊細な手座りで痛みの熱源を押してくる。

 軽く押されているだけなのに、額にしわが寄るの我慢出来ない。


「ボルト君。痛む?」


 俊介が頷くと、貴美は手を放した。


「炎症が酷くなっているかも。無理して動かしてはダメ」


 この場に医師が居てくれた事に安堵した哲郎は、走り去る明の背中に釘付けとなっていた。


「すいません。田辺先生、息子のこと頼めますか? 私は明さんを」

「はい。いとこをお願いします。妹みたいに大切な子なんです」


 この人は、人としても医師としても信用出来る。

 そう判断した哲郎は、俊介を貴美に任せ、明の後を追った。







 明は人生で初めて、がむしゃらに走っていた。

 無心になって、ただ懸命に走っている。

 足を止めたら、全てが終わってしまう気がした。

 何もかもを失ってしまうように思い、


 ――そっか。


 ふとした瞬間、絶望する。


 ――もう何も残ってないんだ。


 逃げるべき場所も。

 ヴァルサスという人格も。


 ――ならなんで走ってるんだろう?


 動かし慣れていない筋肉が悲鳴をあげている。

 赤く光る信号機を見て、明は足を止めた。

 国道を行き交う無数の車の流れを見つめる。


 ――そっか。


 息が整うと、頭の霧がすっきりと晴れていくようだった。


 ――まだあるじゃん。一つだけ。


 全てを失ってしまったのなら、新しい場所に行ってみるのも悪くない。


 ――もう、どうでもいっか。


 出来るだけ確実に。そう願いながら待っていると一台の貨物トラックが目に留まった。

 ギリギリまで引き付けてから明が一歩踏み出すと、


「明さん!!」


 身体を抱く温もりとブレーキ音の甲高い音がとても心地良かった。

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