スナッフ・フィルム2

私は、ご主人様の書斎を、暇潰しと知的欲求の充足とを理由にして、頻繁に使用するようになっていた。

「青薔薇。君は神話を知っているかね」

 ご主人様はある時、私にそう問うた。

「知っています。迷信の根源にあるものです。何故なら、神は存在しないからです」

 私は神を信じてはいなかったし、寧ろ積極的に否定する立場ですらあった。第一に、私は神とその奇跡によってではなく、あくまで理性的な、人間の持つ科学によって生み出された存在であるということ。第二に、私が如何なる苦境に置かれようとも、誰も救おうとはしなかったということ。この二つの事実こそが、私の神の不在を確信している理由だった。

私の答えを聞いたご主人様は、顎に手をあて、ううんと呻った後に、こう言った。

「では青薔薇。君にとって物語とはなんだね」

 私は答えた。

「物語は……美しい空想です」

 ご主人様がにやりと笑うのを、私は見た。

「ならば何故神話をただの迷信と切り捨てられるのだろう。物語には真実が付随していなければならないのか」

「物語は美しいですが、神を美しいとは思いません」

「ならば、神の物語ならどうだ。神と、それに翻弄される人々の物語だ。言ってしまえば神話とは、一種のファンタジーではないのかね。そこをどう思う、青薔薇」

 それに反論できるだけの知識は、私にはなかった。

 そうして私は、書斎にある神話の本……神の物語について読み始めることとなった。

その上で理解したことだが、神話とは宗教のための叙事詩である以前に、古来から伝わる物語なのだ。これらの神話は古くから存在しているためか、扱われているテーマもまた、宗教以前に人間の根本に関わる要素であることが多い。

神話の中では、神が如何にして気まぐれに人間を作り、そして如何に理不尽な癇癪を起こして人に死を与えたかが、宗教の種類を問わぬ汎ゆる神話の中で語られている。これらは生と死、信賞必罰とを表した物語であり、神話における普遍的なテーマとなっている。

私の好きな話を上げるなら……例えば日本神話において、かつて共に世界と神を産んだ国作りの夫婦が、岩を挟んでこう言い合った。

「私はこれから毎日、一日に千人ずつ人を殺そう」

 かつて国と神を産んだ母はそう言った。

「ならば私は、人間が決して滅びぬよう、一日に千五百人子供を産ませよう!」

 かつて夫だった男はこの世に残り、そう言い返した。

こうした神話の数々は、他の物語と同様に私を魅了した。そしてそこには、知識を充足させる快感も付随していた。知れば知る程、人の業の深さ、神の身勝手さ、そして両者の葛藤とが描かれた壮大な物語だと感じ取れた。その中で私は、汎ゆる神話に共通する、一つの物語の形があることに気がついたのだ。

見てはならないもの。触れてはならないもの。そして、それらを知りたい、見たいという無尽蔵の欲望。この相反する感情への葛藤が、汎ゆる神話において、似たような形で語られているのだ。私の好きな日本神話における生と死の物語も、黄泉の世界に妻を取り戻しに行こうとし、見てはならぬと言われた腐り果てた妻の姿を見てしまうという禁忌を犯したがために、人々に死が齎されることとなったのだ。

思わず私は、それらの者と自身を重ねた。重ねざるを得なかった。私にとっての知恵の果実は確かに私のすぐ隣に存在したからだ。

黒の扉の部屋。

私にとっての禁忌だ。見るも触れるも全てが禁じられた空間。私にとっての知恵の樹の実であり、コノハナサクヤヒメだ。その禁忌の先に何があるかは分からない。この家という名のエデンの園から追い出され、苦しんで生きることになるのだろうか。

私はきっと悪いアクターに違いない。持ち主の言いつけは絶対であるはずなのに、私は黒塗りの禁忌に触れたくてしょうがないのだ。

元より、この家の中で出来ることは少ない。食事はいつも郵送で送られてくる冷凍食品を温めるだけで、掃除をしなくてもいつも部屋は綺麗だ。今私の知識欲を満たしてくれている本たちも、いずれ尽きる。いや、この際、いずれ私の読み物が尽きるか否かが問題なのではない。きっとそれは言い訳だ。本当のところは決まっている。

私は、禁忌であるが故に、あの扉を開きたいと望んでいるのだ。触れてはならないものだからこそ、その目に収めたいと思っているのだ。

ご主人様の仕事が忙しいせいで、あまり家に居ないというのも問題だ。何故なら、それは私に対して、無闇に禁忌を犯させようとしているのと同じだからだ。

そこまで考えて、私ははっと息を呑んだ。

「私、なんてことを」

 ご主人様は一切悪くないというのに、まるでご主人様のせいで私が禁忌を犯さざるを得ない状況になっているとでも言うような、そんな考え方をしていた。それは明らかに被害妄想だった。

「……」

 私は今、フローリングのソファに深く座り込んでいた。窓からは光が差していて、浮かび上がる埃の量は書斎よりもずっと少なかった。そして、この部屋のどこにも、人は居ない。誰も、居ない。

心臓の鼓動が聞こえる。それは次第に早まっていく。手のひらに汗が滲んだ。

私は立ち上がり、歩み出す。あの黒い扉の方へ。その足取りは重く、存在しない足枷がそこに在るように思われた。

私は、黒い禁忌の前に立った。それはいつもと同じようにそこに在るが、普段とはその意味が違っている。触れざるものから、私の冒険心と知的欲求と、善悪の区別のつかないあらゆる感情が混ざったものが、私の身体を支配し、動かしつつあった。黒の扉のドアノブに手をかける。

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