ノー アンサー

坂井シロ

第1話  残されていた名前 01~03

 三十歳の秋から冬にかけては、僕にとって暗澹たる時期だった。


 事前の相談がないまま、桃花が突然アパートを出て行った。僕の知らない男と暮らし始めたらしかった。しばらくすると「離婚届を送ってほしい」と電話で連絡してきた。


 七年半を一緒に過ごしたことで、僕は桃花のほぼすべてを理解したつもりでいた。彼女が幼少期に体験した「闇黒あんこく」には気づきもしないで。



        01


 電話が来たのは、一九九六年三月八日の金曜日だった。桃花が去って半年が経とうとしていたころだ。

 先週の休日出勤の代わりに、休みを貰っていた僕は、九時過ぎまでベッドにいた。三連休なので出かけるつもりだったが、まだ行き先を決めていなかった。そろそろ起きようと考えていた時、枕元で電話が鳴った。

『どういうつもりなんだ?』

 受話器を取った瞬間、こちらが名乗りもしないうちに、男の声が罵るみたいに云った。電話が遠いうえに、後ろで車の音か何かがしていて、ひどく聞き取りにくかった。

「ええっと、魚住ですが」

 間違い電話だろうと思いながら答えた。

『桃花を出してくれよ』

 擦れたような声質で、口調は厳しかった。こちらが黙っていると、彼は続けた。 『あぁ解っているよ。魚住さんだろう? ちょっと桃花を出してくれないか』

 状況は把握できないが、間違い電話ではないらしかった。

「桃花はいません」

 とりあえずそう告げた。 「実は去年の秋に別れまして、ここには住んでないんです。連絡先を教えましょうか。羽生さんという人のところなんですが」

 起き上がり、アドレスを捜そうとした時、相手の男が『はにゅ、だ』とか云った。よく聞こえなかったので「え?」と問い返した。

『羽生なんだよ。俺がその』

 憤然とした口調で男は答えた。受話器の向こうの人物が、羽生本人であると理解するまで、ちょっと時間がかかった。

「羽生さん、どう云ったらいいのかな。信用してもらえるかどうか解らないけれど、彼女はここにはいませんよ。彼女が家を出てから、一度も会っていないんです」

『とにかく桃花を出してくれ。解ってるんだ。彼女が帰るのは、あんたのところくらいしかないんだ』

「だからね、本当にいないんですって!」

 強く云い返すと、彼はしばらく黙っていた。そして沈黙の後で、いきなり通話を切った。

 おかしな喧嘩に巻き込まれているみたいだった。ベッドから出て、部屋を歩き回りながら、人差し指の間接を噛んだ。指を噛むのは、困惑した時の僕の癖だ。煙草へ火をつけて、半分だけ喫って揉み消した。しかし、後味の悪さはどうしても拭えなかった。この半年間、僕は僕なりに苦しんで、やっと安定を取り戻した。なのにどうして、今頃こんな電話が来るのだろうか。

 洗濯を始めることにした。何かをしていたほうが気が紛れるからだ。部屋は三階なので、ベランダからの見晴らしはよかった。洗濯機が回っている間、手摺りにもたれていた。頬へ当たる風がずいぶん暖かくなってきたし、どこからか花の匂いも運ばれてきた。遠くに見える高層マンションに、点々と布団が干されているのが見える。

 二度目の電話が来たのは、ベランダでソックスを干し始めた時だった。無視しようかとも考えたが、何度もベルを鳴らすので、仕方なく受話器を取った。

『魚住さんのお宅ですか?』

 今度は女性の声だが、やはり聞き覚えがなかった。

「はい」

『私は羽生と申しますけれど。渉さんですよね?』

「そうです。よく解らないな。実はさっきも、羽生さんという男性から電話があったんですが」

 受話器の向こう側で『あぁ』と微かな声が漏れた。

『私は羽生紗季といいます。羽生義明のイトコなんですけど……。そんなことよりも、さっき義明が伝えた通り、桃花さんがいなくなったんですよ。どうやら桃花さんは、ある男性に狙われていたみたいなんです。五十代後半くらいの中年男性にね。長髪で、色の浅黒い男だったそうです。思い当たることはないかと思って』

「申し訳ないけれど、僕は何も知らないし、桃花はここにはいませんよ」

 受話器の向こうで、羽生紗季が『うーん』と唸った。甘えたような感じの声で、あまり緊迫感は感じられなかった。それから少しの間を置いて、また彼女は話し出した。

『桃花さん達がこちらへ来たのは五日前、三月三日の日曜です。東京で結婚式を済ませて、夕方の便で沖縄へ来たんです。その夜は那覇に泊まって、翌日の月曜はコザのあたりをレンタカーで回ったそうです』

(新婚旅行で沖縄へ行ったのか)と、ぼんやり考えた。三月三日は桃花の誕生日だから、わざと選んで挙式したのだろう。彼女はそういうのが好きなのだ。

『けれど翌日の火曜日、その男性が現われたんです。その男は最初、ホテルのロビーでじっと二人を見ていたそうです。それから行く先々についてきました。義明は一度捕まえて文句を云ったそうですが、しばらくすると、やはり遠くから見ている。そしてその翌日、桃花さんがいなくなった。朝まで待っても戻らないので、警察に連絡した。それが木曜日……、つまり昨日です』

 一気にそこまで説明すると、羽生紗季は黙り込んだ。僕もどう答えていいのか判らずに黙っていた。大きく息をついてから、彼女は挑むような口調で云った。

『それで、申しわけないんですけど、こちらに来てもらえませんか?』

「僕が、ですか。こちらって沖縄ですか?」

 半分呆れて声を上げた。

『そう、沖縄です』

 羽生紗季は平気で答えた。『義明は動揺していているし、私は桃花さんのことをよく知らないじゃないですか。でも、花嫁が新婚旅行の途中でいなくなるなんて、普通じゃないと思うでしょう?』

 言葉に詰まった。沖縄なんて行ったこともないし、気軽に行けるような距離でもない。

「解ってるかも知れないけど、ここは川崎なんです。神奈川県の川崎」

『解っていますよ。でも桃花さんは、もう死んでいるかも知れない』

 羽生紗季は、妙に冷静な声で云った。 『そういう可能性だって、ないわけじゃないんです。そうじゃないですか?』

 それはそうだろうと思った。可能性なんて、そういうものだ。僕は自分でもどうすればいいのか判らなくなった。別れた妻が再・新婚旅行の先で失踪し、その捜索を要請された時のことなんて、想像したことすらなかったからだ。

「羽生さん、考えさせてくれませんか。とりあえず、連絡先を教えておいてください」

 羽生紗季は電話番号をすらすらと答えた。僕はそれを書き取り、確認のために読み上げてから通話を切った。

 数十分が過ぎたが、決心はつかなかった。明日と明後日は休みだし、沖縄まで行くのはかまわない。一人暮らしになってからは生活費が減ったので、そのくらいのお金は銀行にある。悩んだ後で受話器を取った。

「すみません。魚住ですけど」

 電話に出たのは、仕事場でヒデさんと呼ばれている男性だった。彼はまだ四十歳くらいだが、現場監督のような立場にいた。

「突然で申しわけないんですが、月曜から二・三日ほど休ませてもらえませんか」

『どうかしたのかい?』

 ヒデさんは無防備な、あっけらかんとした口調で訊いた。

「ちょっと沖縄へ行きたいんです」

 少しのあいだ、彼は黙っていた。やがて『かまわねえよ』と答えた。 『今は忙しくもないしな。あんたは若いんだから、遊びに行きたくもなるだろう。いいよ、ゆっくりしてきな』

 受話器を置いてから、小さく頭を振った。駄目だと云われたら、沖縄行きはやめるつもりだったが、あっさり許可が下りてしまった。

 荷造りを始めることにした。着替えを用意しようとしたが、下着はみんな洗濯したばかりだった。下着以外で必要なものを準備したが、替えのシャツと歯ブラシくらいしか思いつかなかった。少し悩んでから、カメラも持っていくことにした。写真を撮っている時間があるかどうか判らないので、カメラ本体と三本のレンズだけを、小型のバッグへ詰め込んだ。




        02


 話を一年半前に戻そう。桃花との関係が険悪になってきた時期だ。原因は一言で表現するなら、「価値観の不一致」とか「性格の不一致」とかそういった類のことだ。どこにでも転がっているような話だ。


 一九九四年の秋、勤めていた会社が倒産した。社長は社員の前で、両手をついて謝った。僕には妙な気がした。全責任が彼にあるわけではないし、予想外の不運も続いていたのだ。けれど謝罪することで、彼の気が済むのであれば、それはそれでよいだろうと思った。

 会社が潰れたことはたいして気にならなかった。社長は別の仕事を紹介してくれたし、給料も大きく違わなかったからだ。ただ、新しい仕事は肉体労働だったので、ビジネススーツが全部無駄になってしまった。

(こういった変化は、重要なことじゃない)

 僕はそう考えていた。しかし桃花は違っていた。彼女は僕の職業が変わったことに戸惑っているように見えた。そればかりか僕に対して、苛立ちさえ感じているらしかった。

「カメラマンになりたいって話はどうなったのよ」

 彼女は僕をなじった。おそらくなじっていたのだと思う。

「僕は今でも、写真をやりたいと思っているよ」

 答えると彼女は泣いた。一体どうしろというのだろう? 僕は時間があれば写真を撮りに出かけていた。雑誌や公募展に繰り返し投稿もしていた。入選することもあったし、しないこともあった。自分なりの目標を立てて、努力をしているつもりだった。

「僕にどうして欲しいんだい?」

 訊いても、泣き続けるだけだった。この時から破綻が始まっていた。桃花は僕とは異質な人間……、一種の演劇パフォーマー『ボードビリアン』だったからだ。たとえば過ちを犯したとき、僕なら可能な限りの謝罪をし、それから独りで自責の念に悩むだろう。しかし桃花は周囲の人々、つまり観客達の前で「こんなにも反省してるのよ」という演技に全力を注ぐ。そうしたパフォーマンスによって都合のいい『事実』を造り出そうとするのだ。


 翌年の一月から、桃花は仕事を始めた。近所の会社の事務だった。僕の給料でもささやかな生活を送ることは可能だったが、彼女から働くと云い出したのだ。

「かまわないよ」と僕は答えた。 「子供がいるわけじゃないんだし、君がやりたいんなら、そうするといい」

 その時も桃花は泣いた。どうしたらいいのか解らなかった。ふざけているのではなく、本当に解らなかったのだ。しかし彼女は、ふざけているのだと断定した。その数ヶ月前から、桃花は色々なことを断定するようになっていた。僕の思考も感情も彼女の管理下にあって、何一つ自由にならないみたいな具合だった。

 ある夜、目を覚ますと桃花が電話で話していた。相手は誰か女友達のようだった。彼女の話に出てくる僕は、ほとんどパーソナリティ障害者だった。

(ほらね)

 ベッドのなかで僕は思った。(まるで理解されていない)


 仕事を始めて間もなく、桃花は愚痴を云い始めた。会社の先輩に、好きになれない人物がいるらしかった。桃花の話を全面的に信用するならば、確かにそれは絶望的な悪性格だった。

「嫌なら辞めなよ。僕ならそうするな」

 三日続けて愚痴を聞いた後で、そう提案した。 「それに文句は直接云ったほうがいい。僕に話しても何も解決しないじゃないか。なんなら電話して、僕がその人と話してみようか?」

「バカなこと云わないでよ!」

 呆れているのか怒っているのか、判別のつかない口調で桃花が云った。あるいは、その両方だったのかも知れない。

「私はアルバイトよ。その人は正社員で、ずっと前から会社にいるの」

「関係ないんじゃないか」

 一呼吸おいてから答えた。 「その人が正社員でも、取締役でもね。相手が間違っているんなら、話してみればいい。引け目があるわけじゃないんだし、話せば解ってもらえる可能性もある。話して駄目だったら、その時に辞めればいい」

 桃花は沈黙してしまった。彼女はすぐ沈黙してしまうのだ。

「あなたは、本当に何も解ってないんだわ」

 しばらくしてから桃花が呟いた。 「そんなだから、ろくなことにならないのよ。あなたには友達だって、全然いないじゃない」

 この『友達がいない』という台詞は、桃花にとって切り札のようなものであるらしかった。僕はそれほど他人から好かれるタチではないが、特別に嫌われるほうでもないと思っている。ただ、積極的に他人と関わる気がないだけだ。しかし桃花からすれば、友人がいないのは周囲から嫌われている明白な証拠であり、パーソナリティ障害者と断定するに足りる材料であるらしい。

「そんな風だから、まともな仕事に就けないのよ!」

 黙っていると、優勢だと勝手に判断した桃花が、畳みかけるように云った。

「あの仕事はまともだよ」

 ウンザリしながら答えた。 「誰かを騙すわけじゃないし、傷つけるわけでもない。このあいだ紹介された仕事なんかより、ずっとまともじゃないか」

 その半月ばかり前、桃花の友人から仕事を紹介された。最初は美術雑誌の編集作業だと聞かされた。どうやら桃花が根回しをしたらしい。桃花がやたらと乗り気だったので、話を聴きに行ってみた。

 けれど仕事の内容は、キャッチセールスと変わらなかった。売出し中の新人芸術家へ片っ端から電話をかけ、こう云うのだ。「先日あなたが◎◎展に出品なされた作品が、私どもの主催する芸術賞に選ばれました。近々受賞作品を集めた特集号を出版する予定があります。そこで申しわけないのですが、受賞者の方々に、出版費用の一部をご負担願いたいのです」

 五十万円を支払えば優秀賞が与えられ、カラーページに大きく掲載される。その下には三十万、十万、五万円の賞があり、値段が下がるごとに賞のランクも落ちていく。費用負担を拒否した場合には、賞を辞退したと見做され、名前すら掲載されない。そんな具合で『上半期・日本画部門の受賞者特集号』とか、『下半期・陶芸部門の受賞者特集号』とかを発行していくらしいのだ。

 しかし、断わってきたことを告げると桃花は憤慨した。 「出版社勤務よ。あんな肉体労働よりずっといいじゃない。あなたにはプライドがないの!?」

「プライドはあるよ」

 僕は真面目に答えた。 「プライドもあるし、羞恥心もあるから、あんな仕事はできないんじゃないか」

 彼女は無言で立ち上がり、奥の部屋へ籠もってしまった。ドアを閉める時、パタンと大きな音を立てた。


 夏になると、桃花は別居を提案した。

「私達は、私達のために、少し距離を置くべきだと思います」

 僕は相手にしなかった。何をやったって、結果は変わらない。もうおしまいが見えてきているのだ。


 九月中旬、桃花は帰らなかった。冷たい雨の降る日だった。『しばらく戻りません』と電話がかかってきて、こちらが何も云わないうちに切れた。翌日、身の回りのものを持ち出した形跡があった。さらに一ヶ月後、『離婚してほしいんです』と電話が来た。桃花は別の男と暮らしているらしかった。仕事先で知り合った男で、結婚するつもりだと云った。

「君は本当にバカだよ」

 最悪の気分で云った。受話器の向こうで桃花は泣いているみたいだった。彼女の泣き声が、とても懐かしく思えた。

「とにかく会って話をしよう」

 桃花は黙ってしまった。しばらくの沈黙の後、『もう会いたくない』と答えた。『相手の男性にも悪いし』と云った。『離婚届けと荷物を送ってほしいの。それくらいしてくれてもいいでしょう?』

「それくらいね」

 遣り切れなかったが、どうしようもなかった。相手の男には悪いが、僕にはもう悪くない。これは僕がすでに、彼女にとっての『観客』ではなくなった証拠だ。ボードビリアンが、観客でもない者に、立派に振る舞って見せることはない。

 離婚というのは、最後にきちんと会って、話をするのが普通のようにも思われた。けれど、(もうどうでもいいや)と思った。普通がどうかなんてことに、ほとんど興味がなかったからだ。

 桃花の両親は、彼女が幼いころ交通事故で他界していた。僕の両親は、三十歳にもなった息子の人生に強く干渉するほど物好きではなかった。おかげで離婚はあっけなく成立した。




        03


 羽田へ行って搭乗手続きを済ませた。昼の便に空席があって、すぐ沖縄へ出発することができた。羽生紗季に電話を入れたいと思ったが、その暇さえないくらいだった。

 離陸してからしばらく経つと、外の景色は単調な青空になった。やがて少しずつ感傷的になってきた。この半年間、僕は桃花のことを考えないよう努めていた。だが、こうして飛行機のシートへ身体を預けていると、彼女のことを思い出さないわけにはいかなかった。

(今さら、どうしようもないことだ)

 胸で呟いて、頭を振ってみた。結局のところ、僕は孤独に疲れている。桃花のことを懐かしく感じるのも、愛情などではなく、孤独を感じなかった時期の記憶を懐かしんでいるだけだ。

 自分でそんな風に結論し、目の前にあった分厚い機内誌を手に取った。目次を見た限りでは、興味を惹かれる記事はなさそうだったが、掲載されている写真はとても綺麗だった。

 一時間ばかりページをめくっているうちに、耳の奥に違和感を覚えるようになった。あたりを見回すと、機体が前側へ傾いているのが判った。僕は窓から外を眺めてみた。コバルトブルーの海と海岸線が見える。海岸線は陸地を縁取るように、エメラルドグリーンの帯になっていた。

 空港で公衆電話を見つけ、羽生紗季に教えられた番号をプッシュした。呼び出しの音が一度だけ鳴り、女性が『クライマックスです』と答えた。

「クライマックス、ですか?」

 聞き違えたかと思って、問い返した。

『ええ、クライマックスですが』

 女性は訝し気に答えた。

「じゃあ、そちらに羽生紗季さんはいらっしゃいませんか?」

 通話は保留にされた。少しのあいだ、オルゴール曲が流れ、羽生紗季が出た。さっきより口調が事務的だが、彼女であることは声で判った。

「お仕事中すみません。魚住渉です」

『ああ』

 少し和らいだような声で、羽生紗季は答えた。 『こちらから電話したところだったんですよ。ご自宅にいなかったですよね?』

「空港にいるんです。那覇の」

 彼女は『え?』と小さく叫んだ。こんなに早く来るとは思わなかったのだろう。けれど次の瞬間、口調はてきぱきとしたものに切り替わった。

『ええっと、それじゃ、タクシーで那覇市役所の前まで来てもらえませんか。ガジュマルの樹があるので、その下で待っていてください』

「那覇市役所の前に、樹があるんですね?」

 念のため繰り返した。

『何か目印になるようなものを持っていますか』

 改めて自分の服装を確認してから、答えた。

「小型のカメラバッグを持っています。それからホワイトレザーのブルゾンを着て、ブルージーンズをはいてます」

『それだけ聞けば充分です。着くころに私も行きますから』


 タクシーが停まったのは、広々とした通りだった。道の両脇にはタイル貼りの歩道が作られ、涼し気な街路樹が並んでいた。通りを挟んだ市役所の向かいには、十階建てくらいのショッピングプラザが建っている。右手にスクランブル交差点があり、歩行者信号が青になると、小鳥が囀るような電子音が流れた。

 市役所の正門横に、大きな樹が植えられていた。おそらくこれがガジュマルだろう。僕は樹陰でブルゾンとフランネルシャツを脱ぎ、フランネルシャツだけをディパックへ押し込んだ。Tシャツに直接ブルゾンをはおったが、それでも暑い気がした。

 歩行者信号の音楽を五・六回聞き終えたが、羽生紗季らしい人物は現われなかった。もう一度電話をしてみようかと考え始めた時、近くの歩道に乗り上げる形で、古びたステーションワゴンが停まった。ドアの隅に紅い文字で[CLIMAX]と書かれている。

 ショートカットの女性が出てきて会釈をした。すらりと背が高く、バランスの取れたプロポーションをしている。年齢は僕と同じ……、三十歳くらいだろう。ゆで卵みたいにつるんとした顔の輪郭、利発そうな黒目がちの瞳、そしてぽってりと厚みのある唇が印象的だった。

「羽生紗季さんですね?」

 屈託のない笑顔で「はい」と答えた。薄手の白いセーターに、マスタード色のコットンパンツ、そしてスウェードのスニーカーをはいている。はっきり目立つ両胸の隆起がなければ、少年のように見える恰好だった。

「午前中に、ショーウィンドーの飾りつけを手伝っていたんです。いつもはもう少しだけ、マシな格好なんですけれど」

 こちらの視線に気づいたのか、照れたように笑った。しかし次の瞬間には、思い出したかのように真面目な口調を取り戻し、「乗ってください」と促した。羽生紗季の印象は、想像していたものと多少違っていた。爽やかな笑顔を振りまきながら、手際よく仕事をこなしてしまうような、優等生タイプの女性に見えた。

 ステーションワゴンは、さっきの国道へ出た。中央分離帯に並ぶヤシの樹が、風のなかで葉を上下へ揺らしていた。それは巨大な鳥が、ゆっくり翼を動かしているみたいだった。

「義明と桃花さんが泊まっているホテルへ行きましょう。もっとも、今は義明しかいませんけどね……。直接話を聴くのがいいと思うんですよ」

 正面を見詰めたままで紗季が提案した。桃花の新しい夫に会うことを考えると、気持ちが重くなった。

「想像しなかったわけじゃないけど、僕は歓迎されてはいないんだろうな」

「ごめんなさい」

 紗季は無表情で呟いた。素っ気ない口調で、あまり済まなさそうな感じは受けなかった。 「不快な思いをするかも知れませんよね。それについては、申しわけないと思っているんです。魚住さんを呼んだのは私ですし、責任は私にあるわけですから。どれほどのことができるか分かりませんけれど、沖縄にいる間、可能な限りのフォローはさせていただくつもりです」

 少し考えてから、僕は口を開いた。 「あなたが泣こうがわめこうが、来たくなければ来なかった。だからあなたが責任を感じるような問題じゃない」

 目前の信号が赤になり、紗季が視線をこちらへ向けた。

「魚住さんはなんていうか、そんな風な考えかたなんですか? もっと変わった人のように聞いていたんだけどなぁ」

 桃花の関係者から、どのような評価を受けているか、想像するのは容易だった。苦笑するしかなかった。

「自分では、結構まともなつもりでいます。だけど友達もいないような人間なので、世間の評価は低いようですね」

 ステーションワゴンは郊外へと向かっていた。往復六車線の通りで、景色がゆったりして見えた。道路脇に並んでいるのはガソリンスタンドや中古車センター、そして大型パチンコ店だった。布製ののぼりを立てている店が多かったが、大抵は文字が読めないくらい、激しく風に煽られていた。

 僕はぼんやりと、紗季の横顔を眺めていた。そうしているうちに、彼女とは以前にどこかで会っているような気がした。やがて視線に気づいたのか、紗季もこちらを一瞥した。

「電話でも云いましたけど、桃花さんがいなくなったのは水曜の朝です」

 頷いてみせると、彼女は続けた。 「でも前日……、火曜日から様子がおかしかった。義明がシャワーを浴びているあいだ、桃花さんは電話をしていた。義明がバスルームから出ると、慌てて受話器を置いた。東京の友達へ電話をかけたと説明したそうですが、それは事実じゃなかった。ホテルで調べてくれたんですけれど、電話は外からかかってきたんです。それから散歩してくると云って、彼女は部屋を出た。ひょっとしたら、誰かに会っていたのかも知れない。そして次の朝にいなくなった」

「なるほどね。警察へ連絡したそうだけど、警察の見解はどうなの?」

 紗季は曖昧に笑った。

「あてにはなりませんね。新婚旅行中に逃げ帰る新婦は多いんだそうです。それに義明は丸二日ぐらい満足に寝ていませんから、判断力もなくなってる。だから魚住さんを呼んだんです。他に方法が考えつかなかった」

 市役所前を出てから、四・五十分は過ぎた気がする。道路脇には古びた住宅が目立ち始め、ススキが生えているだけの空き地も多くなった。やがて前方に[残波岬]というプレートが見えてきた。ステーションワゴンはスピードを落とし、左へウィンカーを出した。

「ざんぱみさき?」

 声に出して云った。

「そう。ホテルは残波岬にあるんです」

 道は緩やかな下りで、左側の民家や樹々の間からちらちら海が見え始めた。やがて景色が開けた。道の両脇はサトウキビの畑で、それがずっと続いていた。下り坂の先に、灯台と白い高層ホテルが見える。

 ホテルのゲートから正面玄関まで並木が続いていた。車から降りてあたりを見回した。地理にくわしくないので、沖縄のどのあたりにいるのか解らない。

 紗季は入口へ歩いていった。二重になった自動ドアをくぐると、半円形のロビーが広がっていた。ロビーは怖ろしく天井が高く、中央には十メートルはありそうなフェイクのヤシの樹と、南国の植物が飾ってあった。金で縁取りをされたピンクのリボンが、何かの式典の会場みたいに、壁から下がっていた。

 紗季はフロントカウンターで、何か話していた。おそらく義明を呼び出してもらっているのだろう。

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