Faithful Lover side-Yutaka- 2


 店内に一歩入ると、珈琲の濃い香りが鼻腔を擽った。それは店内全体を被っているような、あるいは壁やテーブル、椅子なんかのあちこちに深く染み付いていて、そこからも放たれているような、そんな気がする。

 内装もレトロだけど、決して古臭くない。

 木の温かみとオレンジの柔らかい電飾。

 初めて来たのにも関わらず、とても落ち着く空間だった。


「いらっしゃいませ……ってユタカさん?」

「ご無沙汰してます、ミオリさん。本を借りたままにしちゃってすみません」

「いえ、忙しい時期でしたでしょうから」


 ――ミオリ?


 店内の様子に気に取られていたけど、ミオリという名前に思わず反応した。ユタカくんの背から覗き込むようにして店員の顔を見詰める。

 いつも二つ縛っていた黒髪は緩くウェーブのかかった明るめの茶色に変わっていて、眼鏡はコンタクトに変わっていた。

 それでも、表情に、声に、面影は残っている。

 一瞬で、高校時代へと記憶が遡っていく。

 胸が熱い。背がぞわぞわと粟立つ。 


 まさか、こんなところで――。


「式部」


 喉が渇いて、貼り付いて、掠れた声が出た。


「……九重くん?」


 ずっと、会えることを願っていたはずなのに、いざ彼女を目の前にすると、なにも言えなくなってしまう。

 綺麗になったな。ずっと、会いたかったんだ。

 喉元まで出た気障な言葉は、また胸の奥へと滑り落ちていく。

 今回ばかりは声に出なくてよかった、けれど。

 式部も言葉を探しているのか、右へ左へと視線を動かしている。

 ……そして背中に感じるユタカさんの視線が痛い。


「……知り合い、なんすか?」

「え、ええ。高校の同級生なんです。お二人もお知り合いだったんですね」

「さっき出会ったばかりで、知り合い、でもないと思うけど。……席、案内してもらっていい?」

「あ、ごめんなさい。奥のテーブル席にどうぞ」


 昼時ということもあって、席はそこそこ埋まっている。

 客層としてはお年寄りが多い。常連さん、だろうか。

 席によっては賑わっていて、笑い声が聞こえてくる。落ち着いたジャズのBGMとはミスマッチなはずなのに、不思議と不愉快には感じない。

 四人がけのテーブル席に案内されて、向かい合わせにユタカさんと座る。

 俺たち以外にも、斜向かいにスーツ姿の二人組の男性が額を引っ付けそうな距離で話していたから、男二人で居る居心地悪さは感じなかった。

 ユタカさんはにっこりと笑っているものの、それが表面的な笑顔であるのはさすがに初対面でもわかる。


「九重さんとミオリさんって、高校時代付き合ってたとか?」

「いや、普通に二年生のときのクラスメイト」

「ホントですか? なんかそれ以上な関係って感じしますけど」


 確かにそれ以上ではあるかもしれないけれど、きっとユタカさんの想像しているような間柄ではない。

 それにしても、ユタカさんは市役所にいたときとは雰囲気が違う。

 なんというか、ちょっと気の抜けた……というか、だらしないというか。

 俺へ視線は厳しく鋭いけれど、態度からは微塵も緊張感を感じられない。

 休憩中なのだからとやかくいう筋合いはないけれど、人が変わったようだ。


「あの、お冷やです」


 式部は、二人分のお冷やとおしぼりを置くと、不思議そうに俺とユタカさんの顔を交互に見比べる。


「あ、ミオリさん。本、ありがとうございました。これ」


 ユタカさんが式部に渡す際に、ちらっと見えた本のタイトルに見覚えがある。

 「ありがとう」と受け取る式部を見ていて、確信した。



 ―― 素敵なカフェの可愛い子にあげちゃった。



 まさか、母さんと式部が出会っていたとは……。

 俺は、頭を抱えた。

 元々あの本は俺の所有物だった。

 母さんが腰痛を緩和させるために始めた散歩。飽きてしまわないように、とカメラをプレゼントしたところ、花を撮ることにハマったらしい。

 なんの花か調べてほしい、と頼まれることが増えたので、その本を渡した。

 まさか、買うきっかけになった式部の手に渡るとは思いもしなかった。

 出来るものなら、過去を修正させてほしい。


「九重くん、大丈夫?」

「ああ、たぶん、大丈夫」

「……ねえ、ミオリさんってシロツメクサ好きなの?」


 式部が首を傾げる。

 何故ユタカさんがその質問をしてきたのか、俺は身に覚えがあって背中に冷や汗を感じた。


「えっと、嫌い、ではないですが」

「ページの角、折ってあったからさ」


 その角を折ったのは俺なのだが、自ら名乗り出ることでもないだろう。

 まるで、警察官を目の前にした犯罪者のように、俺は身を竦めた。

 いや、でも、俺が元所持者なんて夢にも思わないであろう。


「なあ、式部のおすすめなに。俺、めっちゃ腹減っててさ」


 とりあえず、この空気を変えねば――と無理矢理二人の会話に割り込む。


「ああ、すみません。つい話し込んでしまって。ランチセットはいかがですか?」

「メニューこれ? んー、じゃあ、このサラダパスタのセットで。珈琲はアイスコーヒー。ユタカさんは?」

「俺は……じゃあトーストのセット。珈琲おまかせで」

「かしこまりました」


 キッチンの方へ向かっていく式部を見送っていると、手前に座るユタカさんにじろりと睨まれた。


「なに」

「大人の嫉妬は醜いっすよ」


 無理矢理会話に割り込んだのがばれていたらしい。俺はバツが悪くなって、笑顔を取り繕った。


「嫉妬なんて、とんでもない」

「ふーん。……俺とミオリさん、合コンで出会ったんですよ」


 思わず口に含んだお冷やを吹き出しそうになる。

 冷静に考えれば、三十にもなれば合コンくらい行くだろう。

 いや、でも……ってことは、彼氏、居ないってことか。

 いい情報だ、と口許がにやけそうになるけれど、ユタカさんの冷たい視線を感じて表情を強張らせる。


「まだ知り合ったばっかだし、ミオリさんは俺のこと恋愛対象とは思ってないみたいですけどね」

「……へー」

「でも、これからかもしれませんけど。俺結構ミオリさんのことタイプだし」


 にやり、と口角の上がった笑顔が憎らしい。

 俺はそっと視線を逸らした。

 挑発に気付きながら、乗るほど若くない。

 でも、笑顔で見なかったことに出来るほど、成熟は出来ていなかった。




 

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