Glorious Health side-Yutaka- 3


 七月の頭。期末試験の期間に差し掛かったところだった。

 朝目覚めて部屋から出ると、リビングからうめき声が聞こえた。


「母さん!?」


 腰を押さえて、ソファに崩れるように寄りかかっている。

 駆け寄ると、息が荒くて、顔が苦痛に歪んでいる。額には脂汗が浮いて流れた。


「母さん、どうした!」


 意識が朦朧としているのか、返事がない。

 どうしたら……と、焦っていると、いつの間にか起きて来た悠斗が、電話機の子機を持ち出して電話を掛け始めた。


「救急車呼ぶから」

「あ、ああ」


 悠斗の冷静さに、パニック状態から平静を取り戻す。

 小学生の弟のほうがしっかりしているなんて情けない。


「すぐ来るって。保険証とか、準備しておこう」

「ああ」

「兄ちゃん、後で僕の学校に電話して。保護者がかけないと怪しまれるから」

「わかった。とりあえず病院行く支度しろ」

「うん」


 それから二人で慌しく着替えて、救急車を待った。

 母さんのことを思うと気が気じゃなくて、救急車に乗っても、病院に着いても、不安と焦燥感でいっぱいになっていた。

 どれほどの時間が経っただろうか。壁に掛けられた時計は昼の十時を回っていた。家を出たのは朝の七時くらいだったろうか。もう一日くらい経過している気がする。

 ぼうっと時計の針を見つめていると、女性の看護師に診察室へ呼び出された。

 俺も悠斗も恐々と医師の前の丸い回転椅子に座る。


「お母さんは急性腰痛症だと思われます」

「急性……?」

「要するに、ぎっくり腰ですね。でも、気を失うほどの痛みだったみたいですし、一、二週間入院をして検査とリハビリをしたほうがいいかと思うんですけど……お父さんはいらっしゃいます?」

「……いえ、離婚してるので」

「そうですか。では、お祖母さんかお祖父さんにご連絡をしますね」


 呼び出された祖父母が入院の手続きをしてくれて、俺達は母さんの運ばれた処置室へと移動した。

 ベッドに横になって点滴を受けていた母さんは、目を開けて周囲を見回している。


「あれ? 穣に悠斗」

「母さん、大丈夫?」

「え? なにが?」


 きょとんとしている母さんに、事の顛末を話す。母さんは入院って単語を聞くなり顔を青ざめた。


「入院って……あんたたちどうするの。お祖母ちゃん家に行く?」

「……いや、二週間らしいし、俺がなんとかするから」

「本当に二人で大丈夫なの?」


 大丈夫、と口では即答出来ずに、首肯する。


「僕も手伝うよ。だから、お母さんはちゃんと治して帰ってきて」

「悠斗……」

「もう少ししたら悠斗も夏休みだしさ。なんとかなるって」


 なんとかなるという根拠も自信もないけれど、母さんを安心させるためならどんな嘘でも吐けそうだった。


「……わかった。信じてるからね」


 その後、祖父母と話、祖母ちゃんが何度か家に様子を見にきてくれることになった。

 とりあえず家に帰った俺と悠斗は、学校と美容室の予約をしていたお客さんに連絡して、祖母ちゃんと一緒に母さんの入院の支度を手伝った。


「二人は学校があるでしょ。お母さんのこと心配しないでちゃんとやりなさいね。なんかあったら連絡ちょうだい」


 祖母ちゃんの家までは車で十分ほどだ。すぐに来てくれるだろう。


「わかった」


 こうして、暫くの間、兄弟二人の生活が始まった。





 母さんが入院して三日目。

 早くも俺は音を上げていた。

 学生生活、試験勉強、加えて掃除、洗濯、炊事。

 悠斗が協力してくれてはいるけれど、微々たるもので、家事は溜まっていく一方。

 母さんの手伝いをしている時とは違って、一人でしているととても時間が足りない。

 中でも梃子摺てこずっているのは料理だった。

 下準備は手伝っていても、包丁を握ったり、火加減を見たり、特に味の調整は母さんがしてくれていたため、ひとつまみと少々の加減がよくわからない。

 昨日は、心配した祖母ちゃんがおかずを持ってきてくれたけれど、そこでもつい意地を張って「大丈夫」と言ってしまった。

 毎日時間が足りなくて、授業中舟を漕いでたときは、さすがに焦った。

 

 ――試験、やべぇなぁ……。



 いくら大学進学を目指していなくても、手を抜いていいというわけではないと思っている。

 とはいえ、 試験勉強を深夜二時までやって、朝六時に起きて、家事をして――という生活に疲れていた。

 連日の寝不足が響いたのか、揺さぶられているような頭痛がする。

 もう我慢の限界だと思った丁度その時に、昼を知らせるチャイムが鳴った。


「あれ、穣。どこ行くんだ?」

「ちょい寝てくる」


 とりあえず、保健室に寄ってみたけれど、残念ながらベッドが埋まっている。

 他にどこか……。

 できるだけ人気ひとけのあるところは避けたい。

 静かで、ゆっくり眠れそうなところ。

 思い当たったのが、式部の教えてくれた中庭だった。




「あれ、九重くん?」

 俺の顔を見ると、式部は眉根を寄せて不安そうな表情に変わった。

「具合悪い? 顔色良くないですよ」

「……だろうなぁ」

 校舎の壁に寄りかかっていると、力が抜けてきて、ずるずると落ちていった。お尻が地面に着いて、やっと少しホッとする。

「横になります?」

 頷くと、彼女は隣に来て「どうぞ」と膝を貸してくれた。

 芝生の上とはいえ、汚れることが気にならないのだろうか。

「悪い、五分だけ……」

「気にしなくていいですよ。寝てください」

 恥ずかしかったし、少しは遠慮したかったけれど、思考は行動になることなく停止した。

 体が重く、まるで水底へと沈むかのようで……やがて遠く響く喧騒も聞こえなくなっていった。



 

 チャイムの音が鳴り響いている。

 意識は勢い良く浮上して、俺は学校だったことを思い出して飛び起きた。

「大丈夫?」

 そういえば、寝てる間ずっと膝を借りていたのか。

 思い出すと、式部の柔らかな膝の感触まで蘇ってくる。

 急に恥ずかしくなってきて、俺は彼女から目を逸らした。

「悪い……」

「いえいえ、顔色良くなってよかったです」

 彼女は校舎の壁に手をつき、立ち上がろうとしてバランスを崩した。

 慌てて背を支えてやる。

「あはは、痺れちゃいました」

 その時、背にしていた教室の壁にかかっていた時計が見えた。

 短針が右を指していて……つまり、三時を過ぎている。

「え、はあ?」

 昼休みが十二時からだから、俺は三時間も寝ていたことになり、俺達はその分の授業をすっぽかしてしまったことになる。

 そして、式部はその間俺のことを起こすことなく、ずっと膝を貸していてくれたのだろう。


「ごめん」


 心の底から出た言葉だった。

 彼女は目を丸くして、首を傾げた。


「謝ることなんて何もないですよ。九重くんの看病をしただけです」

「いや、でも、さすがに……ごめん」


 謝ることしかなくて、頭を下げる。

 俺が素直に早退していたら、式部を巻き込まずに済んだのに。

 試験前の大事な期間に授業をサボらせてしまった罪悪感が、ずっしりと背中にのしかかる。


「……では、体調を崩された原因を教えて貰うのはどうでしょうか」

「え」

「教えて貰うことで、チャラにしましょう」

「なんだよ、それ」


 でも、そう言って貰えたことで、少しだけ気が楽になれた。


「実は――」



 両親が離婚していて、片親しかいないこと。

 そして、その唯一の保護者である母さんが入院してしまったこと。

 祖母ちゃんや、悠斗、母さんには言えなかった自分の本音も、少しだけ彼女に話した。

 本当は、一気に乗し掛かってきた今の状況がしんどい、と。

 

 彼女はまるで授業でも受けているかのように、まっすぐに俺のことを見て聞いていた。




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