キラル〜2〜

「おーいリラ、あったぞぉ」

「さっすがトムさん!」

 トムが危なっかしい足取りで、丸めた紙を振りながら店に戻ってきた。

「海はなぁ、あんちゃん、かなり遠いぞ」

「時間はあるので、多分大丈夫かと。おい、エラ。エラ!」

「ん〜……?」

 ダメだ。潰れる一歩手前。服屋のおじさん、飲ませすぎである。

 真っ赤な顔で机に突っ伏している。

「トムさんが海への地図を持ってきてくれたから」

「海……?ふふっ、海行きたいなぁ」

「今から行くんだよ、全く。……あ、そうだ、トムさん、この海、?」

「にっ、人魚?!」

 悲鳴のような声をあげたのは、トムではなくリラだった。

「ウィル、あんた、人魚はやめときな。人魚と言えば、男を頭からガリガリ食べるバケモノって噂じゃあないか!」

「ウィル」

 エラを見ている限りそんなことはないと思うけどなぁ、とウィルが思った時、エラがウィルの名前を静かに呼んだ。

「ウィルは、……他の人魚に会いたいの?」

「っへ、」

 エラの目はいだ海の水面みなものようで、何を考えているのかウィルにはさっぱり読み取れない。悲しそうでも、怒っているようでもあり、いつもの天真爛漫てんしんらんまんなエラとは全く違う。まるで別人だ。

 ウィルは少し戸惑いながら、「いや……」と否定した。

「エラは他の人魚がいないと迷子になるかなと思っただけ、なんだけど」

「えっ」

 エラの顔に驚きという表情が戻る。頬に赤みが戻る。さっきまでの酔っ払いエラに戻った、とウィルはひそかにホッとした。

「あ、……なんだぁ。そうなんだ……」

「あ、うん。なんかごめん」

「んん、こちらこそっていうか、私が全面的に悪いよね」

 ふふ、と眉を下げてエラが笑う。つられてウィルも笑った。

「なんだいあんたたち。夫婦喧嘩は犬も食わないよ!」

「夫婦じゃないですよ……」

 リラの茶化しにウィルは冷静にツッコむ。

「ともあれ、この海に人魚がいるかどうかは分からないよ。ウィル、役に立てなくてすまないね」

「いえ、とんでもないです。すごく助かりました……あの、この地図を売っていただけませんか?」

 あ、お金、と思ってエラをちらりと見ると、人差し指と親指を立てて『少しだけなら』というジェスチャーを見せた。

 すると突然リラが笑う。

「ウィル、あたしが買ってやるよ地図くらい!こんなイイ男が困ってるんだ。助けないっていう選択肢はないね」

 にかっと笑うリラに、ウィルは有り難さの前に驚きを感じてしまった。こんなにいい人間がいるのだ、という。

 これまで会った人間が酷すぎたただけなのだろうか。

「あんちゃん、こんなボロ紙切れ、金なんていらんよ。持っていきんさい」

「い、いいんですか、トムさん」

「ええよええよ。そこのべっぴんさんと気を付けてな」

「やだぁ、おじいさん。べっぴんさんだなんてそんらぁ」

 エラはやや呂律ろれつが回らなくなってきた。おい、まだ飲むのかお前。明日どうなっても知らないぞ。

「ほんとにありがとうございました。なんてお礼を言ったらいいか……」

「いいよお礼なんて。ウィル、気を付けるんだよ」

「はい。ありがとうございます。おい、エラ、行くぞ」

「あーい、私はぁ海に行きまーす!」

 ついにベロベロになったエラのポケットから真珠を出してお酒代を払い、ウィルは店を後にした。

 エラの千鳥足が危なっかしいので、腕を支えながら歩く。

 ……いい人たちだったな。

 ウィルはリラやトムの顔を思い浮かべた。さっきまで一緒にいたのに、もうなんだか寂しい。

「あ、そうだウィル。今日は血を飲むれしょ?」

「さすがに酔っ払いの血を飲むのは気が引けるというか。っていうかエラ、大丈夫か?ちょっと休む?」

 特に何も考えずに店を出てしまったウィルにも非はあるのだが。

 ウィルの申し出に、エラはかぶりを振った。

「早く海、行きたい」

「ん、分かった。さっきの店でもちょっと長居しすぎたかな。ごめんよ」

「ふふ。大丈夫。海は逃げないもん。ずっと私の事待っててくれてるから」

 だから大丈夫。エラはふわ、と笑う。

「でもウィルは休憩が必要だね。ちゃんと血を飲んで、私を海に連れて行ってくれないと困るよっ」

 呂律がしっかりしてきている。人魚はアルコールの分解も速いのか、とウィルは思った。決して酒に強いという訳では無さそうだが。

「じゃあ、少しだけいい?」

「いいよ、もちろん」

 近くの木の下でとりあえず腰を下ろして、エラはワンピースのえりに指を引っ掛けた。

「どうぞ」

 ふわりと香る血とアルコールの匂いを感じながら、ウィルは「ごめん」と呟き、遠慮がちにエラの首に噛み付いた。

 ズッ、ズルッ

 はっ、じゅるっ

 あぁ──甘い。甘くて仕方ない。ずっと味わっていたくなる。このままエラの血を吸い尽くせたら、どんなに……。

「ッ!」

 なんとも思わずに浮かべてしまった自分の恐ろしい考えにおののいて、ウィルはガバッとエラから離れた。

「ウィル?どうしたの?」

「ごめん、何でもない」

 エラの首に少し付いた血を指でぬぐいながら、ウィルは言った。こんなこと、エラに言えるはずない。さっきの自分はどうかしていたんだ。きっとそうだ。

「エラ、大丈夫だった?」

「平気!前より少なかったけど、ウィルは足りた?」

「ん」

「行けそう?」

「ああ。行こう」

 言いつつトムにもらった地図を開く。

「次はティアフロット、っていうところに向かおう」

「ティアフロットかぁ。また素敵な所だといいね。あっち?」

「逆。真反対」

 夜明けまであと少し。二人はまた歩き出す。


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