2.曇天


 昼過ぎになって漸く雨は上がり、分厚い雲を透かして太陽が姿を現し始めた。しかし天気予報の通り、空は相変わらず泣き出す寸前の様相で、閉塞した湿気がじわりと肌に張り付く。


 今日も不快指数が高く、過ごしにくい一日となりそうだ。



「嫌な天気ねえ。全身に黴生えそうだわ。七瀬ななせさんは平気? 逆に除湿しすぎて脱水してない?」


「多分大丈夫。洗濯機に入るような真似はしてないから」


「本当に? 久々に怪我してきたから、てっきりこの湿度に参って脱水乾燥のフルコースを試したのかと思ったわ」



 冗談めかした言葉とは裏腹に、白衣を纏った女性はカットバンを貼った七瀬の膝に、心配そうな視線を落とした。



「でも、大した傷じゃなくて良かった。検査の結果も異常なしよ。今の時期は、雨やら湿気やらで足元が滑りやすくなってる場所が多いから、しっかり気を付けなさい」



 ただ転んで擦り剥いただけの傷に対して随分と大袈裟な注意喚起だ。まるで子供か年寄りにでも言い聞かせるかのような物言いに、しかし七瀬は大人しく頷いた。


 白衣の女性、藤咲ふじさき杏子きょうことはもう四年以上の付き合いになる。長年の間、精神的にも肉体的にも支え続けてくれている主治医には、七瀬も逆らえない。



「そういえば、例の猫とはどう? そろそろ懐いてくれたかな?」



 検査結果の報告からカウンセリングの段階に移ると、藤咲はここ暫く中心だった話題を振った。


 七瀬の脳裏に、昨夜のことが蘇る。


 少し迷ってから、彼女は吐息混じりに答えた。



「昨日、バイト帰りに見に行ったら、死んでた」



 藤咲の凛とした知的な顔が、途端に曇る。少しの間を置いて、ナチュラルベージュのルージュに彩られたくちびるから、慎重に選んだであろう言葉が紡ぎ出された。



「そう、残念だったね……」


「気にしてないよ。仕方ないことだから」



 しかし、七瀬はあっさりと受け流した。


 全く落ち込んでいないといえば、嘘になる。

 あの猫には、七瀬なりに愛着を抱いていた。だからこそ、昨夜のような悪天候だろうとバイトがない日だろうと毎日欠かさず、世話をしに通い続けていたのだ。


 なのに悲しみも喪失感も沸かず、どこか遠い絵空事じみて感じられるのは、あまりにも突飛で予想外の別れだったせいで、いまだ現実感が沸かないせいか。


 それとも、まともな感覚というものが壊れているせいなのか。


 そんなことを、七瀬はぼんやりと考えた。 否、考えるという単語は相応しくない。曇天の雲より薄く淡く、覚束ない思考は、取り留めもなく脳を掠めて通り過ぎていくだけだ。


 藤咲は、向かい合う鉄壁の仮面じみた無表情の中に、僅かな澱みが浮かんだのを機敏に察知した。だが、敢えて気付かないふりを押し通す。



 七瀬の心を封じる鋼鉄の扉は凍て付き堅牢で、どれだけ叩けどどれほど叫べど届かない。精神科医として藤咲に出来ることは、せめて氷が溶けるようじっくり時間をかけて温めるだけで、後は相手が自ら鍵を開け出てくるのを祈る他ないのだ。



 カウンセリングとは名ばかりの雑談を終えて、今回も終始表情を変えなかった七瀬を見送ると、藤咲はやりきれなさを吐き出すように大きく溜息をついた。




 リンゴロリン、ゴロリンゴロリン。


 コンビニエンスストア『ボブ&サム日間杉ひますぎ店』に、間抜けな入店音が響き渡る。妙な具合に音程のずれたジングルは、機械が壊れているのではなく、元々こういう音なのだ。


 また、閑古鳥が住み着いているような店舗名ではあるけれども、この近隣のコンビニでは一、ニの売上を誇る。


 しかし今夜は珍しく、夕方の猛烈なラッシュを乗り越えると客足がぷつりと途絶えた。戦場跡の如く、店内の商品は散らかされ疎らになっている。


 在庫の品出し補充と前出し陳列に勤しんでいた七瀬は、ジングルと共に来店した人物を認めると、ぺこりと頭を下げた。



「お疲れ様です、オーナー」


「七瀬さんもお疲れ様。はい、どうぞ」



 無邪気な笑顔で彼女に紙袋を差し出したのは、恰幅の良い中年男性。入れ替わりでこれから深夜勤務に入る、オーナーの坂上さかがみだ。


 もうそんな時間かと思いながら何気なく受け取ってみれば、ずっしりと重い。



「何ですか、これ」


「ウチに余ってた猫缶だよ。七瀬さん、猫飼ってるんでしょ? いつも猫缶買ってくもんね。貰ってくれると助かるよ~」



 そう言ってオーナーは、人懐こいパグに似た顔を綻ばせた。その声を聞きつけ、レジにいたもう一人のアルバイトの娘も駆け寄ってくる。



「え~、何? オーナーもナナちゃんも猫飼ってるの? いいなぁ、見た~い! ねねね、写真とかないの?」


「いやいや、筒見つつみさん。僕は猫なんて飼ってないよ。恥ずかしい話なんだけど、普通の缶詰と間違って近所のホームセンターでまとめ買いしちゃって」


「やだ~、オーナーってばウッカリし過ぎ! チーフに超怒られたんじゃないですかぁ? 目に浮かぶ~!」



 ケラケラ笑いながら、筒見はオーナーの奥方であるチーフの名を口にした。


 するとどうやら指摘は図星だったらしく、オーナーは恥ずかしげに白髪混じりの頭を掻きながら、美味しそうだし安かったんだよね……と呟いて眉をハの字に下げた。



「『はぁん? 安かったじゃないのよ! 商品名くらい確認できないの? 美味しそうだってんなら、あんたちゃんと食べなさいよ!』……って感じかな?」



 そこですかさず、筒見がチーフの物真似を披露してみせる。



「いや、チーフならまずオーナーの言い分聞いてから『はぁん? 何言ってんだか聞こえないよ! こ、れ、は、何、で、す、か!?』って具合に鬼のような言葉攻めから入るんじゃないかな」



 続いて七瀬が突っ込むと、オーナーは手を叩いて笑った。



「七瀬さん、大正解! でも口真似は筒見さんの勝利! 本当に怒られたかと思ってビビっちゃったよ~」



 客が一人も来ないのを良いことに雑談はヒートアップし、オーナーがチーフに叱られた場面の完全再現にまで発展した。



 おかげであっという間に時間は過ぎ、七瀬は断るタイミングを掴めないまま、退勤時刻を迎えて店を出ることとなった。



 四缶セットを五つ、計二十個もの猫缶の重みに辟易しながら。

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