第四の世界

 アイネの周りにはいつも物が散乱していた。

 鞄から出した服は床に散らばっていたし、割った皿の破片も片付けることなくそのままだ。

 ある日とうとう見かねたミハが、

「住まいの乱れは魔心の乱れにつながるものだよ」

 と注意すると、

「ですが、それは私が生きる上での仕事ではありません。使用人の仕事を奪っては可哀想です」

 アイネは口を尖らせた。

「それは屁理屈だよ、アイン」

「休息以外は一分一秒の時間も惜しいんです。一年であれだけの書を読破しろと言ったのはミハ様ですよ?」

「魔草術の書架は飛ばしていいってことにしたじゃないか。父君の薫陶を受けて身に付けた完璧な魔草術で君がしたことといえば視界のゴミをそいつらに食わせるという荒技だが。おかげでそいつらに腹が痛いと泣き付かれた僕がとても困ったよ」

 アイネはますます意地を張った。

「ならばミハ様の部屋を見せてください。ミハ様の部屋が見当たらないのは術をかけて隠しているからですよね」

「危険な研究物があったりするからだよ」

「見せてください。解説付きで」

 そういうわけでミハの自室が開かれることになった。

 ミハの部屋は確かに塵一つなく片付いている。

 しかし、部屋にあるのは革張りの長椅子が一つと、撞球台。たったそれだけ。

 そして壁の一面は、漆黒の球でびっしりと埋められている。天井まで。

「経験あるかい」

 アイネに撞き棒を渡してミハが撞球台を回った。

「ありません。でも……」

 青い羅紗の上に転がる球が普通の撞球よりも大きく、数も異様に多い気がする。

 普通の撞球は色分けされた球を使うはずだが、その球は——。

「ミハ様。これは何ですか」

 問うために顔を上げたアイネはミハの髪の色にはっとした。

 今まで一度も現れたことのなかった金色——その美しい輝きに一瞬ロシュフ・ロス・エ・ゴルトシャーフを思い出した。

 台に上体を屈めて狙いを定めながらミハが答えた。

「世界」

「世界?」

 撞かれてぶつかりあった球が、宙に跳ね上がり、じっと静止する。

 ミハが撞き棒を振ると一つがアイネの元に飛んできて、すぐ目の前でゆっくりと回転した。

 透明な球のなか。

 蠢めく無数の光。

 光のすがたをした無限の命。

 その運動と法則。

「触れてごらん」

 言われた通りに手を伸ばす。

 指先で触れた瞬間、膨大な命の物語がアイネの脳裏に閃いた。

「〈光〉を材料にして作った模擬実験上の世界だ」

 ミハの研究書の中では天使と堕天使は区別されず、さらに原初的な存在である精霊そいつらを含めて物質以外の精神体を〈光〉と総称する。

「私たちの宇宙をとても小さく単純化したもの?」

「そう。一つ一つ条件を変えて宇宙を作り出す。そのあとは手を加えない。世界は勝手に育ってゆく。小さな球の中で千変万化に生命は躍動する」

 ミハは球の位置関係を測りながら移動して撞き棒をかまえた。

「ここにある球のどれも、一つとして一分一秒の出来事が同じ順序で起きて同じ歴史を辿ったものはない。けれど出来事そのものはどれも同じことが起こる。生命の誕生、文明の隆盛と衝突、やがて訪れる生命の限界と滅び。どの世界も必ず終わりはくる。それが〈意識〉の分離物という不完全な材料でつくられた僕らの世界の辿る道だということだ」

 澄んだ硬質の音をたてて球がぶつかりあい、四方に転がって壁に跳ね返される。

「〈光と闇の意識〉はこうした実験を完全な材料を使って繰り返した。もちろん模擬実験ではなくて本物の世界でね」

 アイネは宙に漂う幾つかの球に次々と触れていった。

「そこで繰り返されたのは、『何もかもが生きながら死んでいるような世界』……」

「光と闇から生まれるものを第一の世界、分離された光から生まれる僕らの世界を第二の世界と言おう。封印された〈意識〉は何も生み出さない闇だから欠番として、僕は〈意識〉の賭けのその先を知りたい」

 ミハの狙い打った球が台の外へと弾き出される。

 片手にミハはそれを受け止め、三本の指で掲げた。

「僕は第四の世界を見てみたいんだ」

 その球は終焉を迎えようとしていた。

 漆黒に塗り潰されてゆく世界。

 終わりがくる――。

 ミハは一つの宇宙の終幕を見つめながら、片手で何もないところから酒の瓶を取り出した。

 しゅぽんと栓が飛び、泡立つ黄金色の酒が二つの杯に注がれる。

 アイネは杯を受け取った。

 師匠と弟子ははなむけの乾杯をして静かに終わりの刻を見送った。

 アイネの胸は〈上げ草〉に酔った地下鬼のように陶酔していた。

 たとえ単純な模擬実験でも〈光〉から世界を作り出してしまうなんて。きっとミハ以外の誰にもできない。

 彼そのものが世界の理から外れている。

 アイネは身体に巡る酔いを言い訳にしながら思った。彼の元にずっといられたらいいのに。世界の理から外れた次元で、王女であることも暗殺者であることも永遠に忘れていられたら。

 いいのに。

「僕の顔を見つめても魔心は身に付かないよ、アン」

 アイネはじっと見つめていた正面のミハから目を逸らす。

 彼がアイネの名をまともに呼ばないのは、アイネがずっと“ミハ様”をやめないからだ。彼は肩書きや身分など、自由でいられないことを好まない。

 けれどアイネは一線を引いていないと、ときどき忘れてしまいそうになる。彼がアイネよりも遥かに年上の大賢者で、アイネの歩む人生からはもうすぐ消える存在であることを。

 目を逸らしたままアイネはなじるように言った。

「ミハ様は威厳がありません。あまりにもなさすぎます。髪をもっと古風に伸ばして……そうだわ、地面まで伸ばしたほうがいいです。老人は老人らしく。あと、いかめしい杖を持つとか」

 「杖か……」と顎に手をあてて思案げにするミハの横顔がちらりと視界に入って、アイネは杯をあおった。

 今のはただの八つ当たりだ。

 終わりはもうすぐ来るから、心配はいらない。魔心の氷の痛みがきっとこの迷いを消してくれるだろうから。

 勝手に育ちたがっているこの思いを、凍らせてくれるだろうから。

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