野営

 シュナウツさんはいびきがうるさい。

 犬ってこんなに鼾がうるさいもんだったんだなあ、と下敷きの毛布を共有するルシオは思っていた、広げた地図の向こうの星々を眺めながら。

 ヴィオロン国境を前にした〈赤い鉄線〉基地の外れ。兵舎近くの適当な空き地を借りて野宿する一人と一匹は、あす早朝に国境越えをする予定だ。ヴィオロンの首都までは領事館行きの名目で軍の輸送車に乗せてもらう手筈になっている。シュナウツの家からここまで、最低限の休息を挟みつつ昼夜を問わず大型三輪を駆って三日の道程だった。

 地図には精霊の証言が十五箇所に書き込まれた。街道の分岐点で、硝子壜の堕天使を通して伝わる精霊の声はアイヴィ・ダンテスを乗せた荷馬車が北東へ行ったと告げていた。荷馬車はここからもっと東に逸れた地点から国境を越えたと考えられる。順当に最短距離を予測して線を引くと、その進路はクノヘン山脈の東端につきあたる。線上にはヴィオロンが〈碧き湖畔の王国〉と呼ばれる由来となった古城があった。その名を〈碧翼城へきよくじょう〉という。

 ——湖の娘は湖に戻る

「まず間違いなかろうぞ」

 いつのまにか目を覚ましていたシュナウツが、夜空に向かって地図を広げるルシオの腕の下からもぞもぞと鼻づらを覗かせて言った。

「モニーク。ぶじ予定が立って、仲間どもの兵隊小屋も近いというに、何でまた野宿などするのぞ?」

「気が楽だろ? 今夜はそんなに寒くないしな」

 錆びた鉄缶を拾ってきて小さく火も焚いている。

「人間は縦割りだの横割りだのまったく面倒くさいものぞな」

 老体には外気そのものが快くないのか、シュナウツは不満そうに胴体をルシオの身体にくっつけて寝そべった。

 ひん曲がった片眼鏡をルシオは外してやって頭上に置く。

「シュナウツさんも人間なんだろ」

「人間などとうにやめたぞな」

 この前と言っていることが違うが……。

「魔心を得たときに、か?」

 魔心師が如何にして真の魔心師になるのかは旅の途中でシュナウツから聞いた。

 魔心師とは第一義には〈意識〉の研究者を指すため、実技者としての魔心師は確かに多くない。魔心術を行なうとしても、精霊そいつらを知覚する感性があり、魔草を扱う知識に長けていれば、まず充分なのである。ただし、その場合の魔心術は、精霊のいたずらを煽ったり解決したりする程度の小さなものだ。堕天使を捕獲したり、〈通路術〉を実践したり、という大技を使って世界の真理解明に到りたければ、心に魔心を飼うしかない。

 魔心を得る方法はたった一つ。

 地下の深く、〈意識〉の封じられた氷塊の元に降りてゆき、氷の欠片を心臓に突き刺す。

 氷詰めの〈意識〉の元に降りる道は、魔心を得た魔心師だけが知っている。だから魔心を得るためには魔心師の弟子となって連れていってもらうか、あるいは相応の代償を払って魔心師を道案内にするかだが、〈意識〉に至る道を金で売る魔心師などいるはずもない。

 そうして魔心を得た魔心師は、〈意識〉の強い生命力の影響を受けるせいなのか、不老の存在となる。

 ただし、不死ではない。

「それもそうだがな、正確には、モクの吸いはじめが終わりのはじまりぞ」

「魔痺タバコ?」

 ルシオはぎょっとして、枕がわりの雑嚢から頭を浮かせた。

「あれって、そんなに良くないものなのか?」

「身体の質にもよるとは言われとるがな。だいたい喉と肺と目と心臓をあっというまに悪くして魔心師は死すぞ」

「死ぬのかよ」

「死ぬだけならよいがな。魔心師が死すとき、死に向かう精神は魔心一色に染まる。我が心を魔心に喰われてゆくのぞ。とても正気を保てず気狂いになるか、中には魔心に寄せられた精霊に身体を乗っ取られて恐ろしい馬鹿騒ぎを起こしながら死んでゆく者もある」

 鼻先にたかる羽虫の群れを前脚で不器用に追い払う。シュナウツは一旦その動作に夢中になった。

「わしはモクの毒に身体をやられ、魔心に心を喰われて斃れた。庭に斃れていたわしの心臓を野犬が喰った。その野犬が今のわしぞ」

 不意に立ち上がり、全身をぶるりと震わせてから地面に前脚をつっぱって伸びをする。

「不幸中の幸いは、犬の頭と心の大きさでは魔心が本来の力を発揮できないことぞ。干し肉をよこせ」

 ルシオは雑嚢に手を突っ込んでがさごそやった。

 干し肉の包みを引っ張り出した拍子に、転がり出てきたものがあった。

「これか」

 飴玉ほどの大きさの水晶の珠を、ルシオは宙にかざして見上げる。

 球体の表面に、髭面の中年男がごくごく小さく歪んで映った。

「シュナウツさん、これって何だと思う?」

 干し肉を咥えてどこかへ行こうとしていたシュナウツが振り返った。

「どれどれぞ」

 トコトコと来てシュナウツは、老犬の濁り気味の眼で水晶珠を覗く。

 あわててルシオは片眼鏡を装着してやった。

「ううむ。これは」

 干し肉を落として神経質そうに耳の裏を掻いてから、シュナウツは言った。「わからん」

 けれどすぐ、その耳がピンと立ってひくつく。

「だが堕天使が、〈過去〉だと言うておる」

「過去?」

「誰かの記憶ぞ」

「ミハが言っていた。これはアイヴィに関係があるものだと」

「小娘の過去? 血統にあぐらをかいた女の虚栄と傲慢と飽食の歴史か。砂でもかけて埋めておけ。野犬も喰わんだろうがな」

「いやあ、そういうわけにもな」

 ふたたび、シュナウツの耳がピンと立ってひくひくした。

「他人の過去なら大切にしようというのか? モニーク、おまえは置き去りにしてこなかったというのか? 〈あまりにも多くの死と失望〉を」

 腕を枕に寝返りを打ってルシオはシュナウツに自由な手を伸ばした。顎の下を掻いてやるとシュナウツさんは眼をほそくして喜ぶ。いや、人間としてのシュナウツさんは喜んでいないのだが。

「そうかもな」

 シュナウツが人間の肉体を置き去りにして犬の身体で今を生きているように、ルシオは寄る辺ない孤児の身から世間への恨みつらみを削ぎ落として一軍人になり、飽きるほど戦場経験のある万年軍曹の身から殺し殺された恨みつらみを洗い落として平穏な一市民になり、ただの肉屋の身から日常への執着を払い落としてアマデオ・キンケル風紀長の犬になった。

「思えばこの道中は犬同士の旅だなあ」

 抱えたままでは生きてはいけないものを、無視して置いていくのは悪いことではない。

 悪いことではない、というよりむしろ、受け入れたくなくても受け入れなければならない現実というものがこの世界にはある。特に、生と死はやりなおしがきかない。

 だけどアイヴィ・ダンテスはどう思っているだろう。

 過去をさっぱりと捨てた人間があんなふうに誰かを激しく憎むだろうか?

 彼女の抱える怒りが過去から生じたものならば、それを解決する方法はどこへ探しにゆけばいい?

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