第五話 やっと気付いた

「あ、あのさ、麻央」


『杉の湯』に行った帰り道、和子おばさんはにくそうに切り出した。


「き、今日くらいは一緒に寝てもいいんだよ? あたしの使ってるベッド、狭いけどさ……」

「大丈夫だって。いつものことじゃん」

「でもね――」


 あたしが無言で見返すと、いや、何でもない――そう言って、和子おばさんは二度とその話題を蒸し返そうとはしなかった。


 ――いつものことじゃん。


 自分のベッドに寝転がりながらそのやりとりを思い出し、もう一度声には出さずにその科白を繰り返してから、天の川をぶちまけたような無数の星々がデザインされた掛け布団を一気に引っ被ろうとして、






 あたしの手が止まった。






 ――そうだ!






 急いで掛け布団を退け、きっちり整頓された学習机の上に置きっ放しのブリキ缶のところまで駆け寄った。それは、金井センセイと美孝と三人で病院に駆けつけた時――銀じいが死んじゃったあの日――ずっと担当してくれていた看護師さんから渡された物だった。


 俺が死んだらよ、これだけは頼むぜ――何度もしつこくふくめられていたんだそうだ。


「これ……何、入ってるんだろう?」


 丸くて、大きさはバースデーケーキがすっぽり入るくらい。形や色や大きさだけでいえば、近所の煎餅せんべい屋さんに並んでいるブリキ缶に似ている。ただ少し違うのは、厳重に十文字に張り巡らされたガムテープと、ふたの上に、べちん、と貼り付けられている一枚の紙だった。




 そこにはこう書いてあった。

 銀じいの字で。




『こいつはおめえにやる。すきにしな』


 ぷ。平仮名だけだよ。




 でも、流暢りゅうちょうで達筆な字だった。

 見慣れていた銀じいの物凄く恰好良い字だった。


 看護師さんに見つからないように病室のベッドの上でせっせこすずりで墨をってから、えいやっ、と書いたに違いない、そう思ったら急におかしくなってきてたまらなかった。




 つい、笑いが込み上げてきて声が出ちゃう。


「あは……あはははははっ!」




 ああ、おかしい。




「あははははは――は……うううっ!」


 あれ、おかしいな?






 何であたし――泣いてるんだろう。






「うううううううううううううううううううっ!」


 止められない。

 もう、止まらなかった。


「うううっ……! やだよ、銀じいっ! どうして死んじゃったの! あたし……っ!!」


 くっ、と一瞬言葉に詰まって、


「うわああああああああああああああああんっ!」


 あふれてこぼれ落ちた涙がブリキ缶の蓋の上で、ぽろん、ぽろん、と不規則に音を立てる。すると、銀じいの書いてくれた最後のメッセージが――すきにしな――その墨文字が、徐々にぼやけてにじんでいく。


「や……だ……っ!」


 あたしは大慌てで、汚れるのも気にせずパジャマの袖で拭いた。

 何度も何度も。


 ああ、駄目だ。


 もっと酷くなって――。

 滲みが広がって――。


「や――やだやだやだやだぁっ!」


 銀じいの書いた文字が段々と読めなくなっていく。






 銀じいが――消えていく。

 消えていっちゃう。






「やだよぅ、銀じい! 行かないでよ! あたしを残して行かないで! もっと……もっと一緒にいたかった! もっと一緒に笑っていたかったのに!」


 けれど、


(――おう、どうした、麻央!?)


 そう言って、レディのあたしの部屋にノックもせずにずかずか踏み込んできてくれた銀じいはもういないんだ。






 その時――やっと気付いたんだ。

 あたし、ちゃんと泣いてなかったんだって。






 途中、隣の家からカーテンの閉まる音が聴こえた気がしたけれど、そのままあたしは、夜が明けるまでひたすらわめき、泣き続けたのだった。


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