第2話 ペン

朝は八時十五分に家を出る。

前後しても一分ほどで、ほとんど誤差は無い。

今朝はいつもより少し念入りに髭を剃ったので、二分ほど遅れただろうか。

雨が降っていたので傘を差しながらではあるけれど、意識して顔を上げて歩けば、いつもとは違う風景が見えてくる。

ああ、アジサイが咲き出したんだなぁ、とか、こんなところにパン屋があったっけ、とか。

地面を見て歩くよりは、駅までの道のりが楽しくなる。

学校前の風景も、騒がしいガキ共の世界、だったのが、当たり前だけど、憂鬱な顔をしたヤツもいれば、黙々とスマホの画面だけを見てるヤツもいて、自分とは縁の無い世界というわけでも無さそうだ。

俯いていると視野が狭くなって、それは世界が狭くなるのと同じなんだと気付かされる。


昨日の少女は、昨日と同じところに立っていた。

「遅い」

待ち合わせの約束をした憶えは無いが、待ってくれていたのかと思うと悪い気はしない。

少女は俺の顔をじっと見て、ふむふむと頷く。

「おじさん、昨日よりいい顔してるね」

それはお前もだ、と心の中で言い返す。

どういうわけか昨日より可愛く見えるのは、明るい色合いの傘が似合っているからか、それとも傘をくるりと回してから微笑む仕草のせいか。

いや、いい歳してこんなガキにときめいていちゃイカンな。

「おじさんに頼みたいことがあるのです」

「断る」

「悲鳴上げるよ?」

即答したら有無を言わせぬ即答が返ってきた。

やはりコイツは侮れない。

女の武器をフルに使うタイプだ。

「何だ、言ってみろ」

にまっ、と笑うのは、可愛くもあるが不穏でもある。

「この胸ポケットのペンを抜いてほしいのです」

無い胸を、ぐっと突き出してくる。

何を言っているのかコイツは。

「いや、自分で抜けよ」

「なんか糸がほつれて引っ掛かっちゃってるみたいなんだよね」

「学校に着いてからでいいだろ」

「今ペンを使いたいの」

「鞄の中に別の──」

「筆記具入れは学校に置いてるから」

「……」

「早くしないと、その辺のオジサンに頼んじゃうよ?」

昨日は猫のオシッコの付いた手で触ると脅され、今日は他のオジサンに頼むと脅されるが、どちらも無視して去れば済む話で、実際のところ脅迫のていを成していないのだが、何故、俺は逆らえないのか。

「ほら」

更に胸を突き出してくる。

薄っすらと透けるブラ、控えめな曲線。

それに誘い込まれるように手が伸びる。

胸ポケットから顔を覗かせているペンの上端部を指でつまむが、ペン以外の部分には絶対に触れまいとして、ついつい手前に引っ張ってしまう。

ペンの上端を手前に引っ張ると、ペン先部分はどうなるか。

「やっ……ん」

そう、胸に食い込む形になるのである。

俺は慌ててペンの角度を立て、それでいて指がブラウスに触れない位置をキープする。

冷静に判断しているようで、実のところ心臓はバクバクだ。

指も微かに震えてしまっているようだが、俺は慎重に、ペンをほぼ垂直に引っ張り上げる。

確かに、ほつれた糸がペンのクリップ部に引っ掛かっていた。

ほどこうとすればブラウスに触れるしかない。

何より、傘を持った状態では無理だ。

思いっきり引っ張って切るか。

いや、確か鞄の中にはさみが……。

絡まっていた糸を鋏で切り、どうにか無事にペンを抜き出す。

「ちょっと、何でそんなに準備がいいの」

昨日と同じく、何やら不服そうな顔をする。

というか、なぜ文句を言われねばならんのだ。

「ま、いいか」

セリフまで昨日と同じだ。

「じゃあおじさん、この手帳にそのペンで名前書いて」

「は?」

「いいから早く! 遅刻しちゃうじゃん」

あ、そう言えば時間! というか俺の方がヤバい!

俺は焦って言われるままに名前を書き、何故か、

「じゃ、また!」

などと言って駆け出すのだ。

「仕事、頑張ってねー」

なんて声を背中に聞きながら、何だか訳が分からない女だと改めて思う。

そう思いながらも、何だか訳も分からず頑張れる気がした。

ただ、二日連続で遅刻はしたけれど……。


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