第2話 春の終わり、二人の出会い

 二人が出会ったのは、春。桜が舞う頃。

 その頃のユイはまだ一人ぼっちで、当てのない探索を続けては怪我人を助ける生活をしていた。

 怪我の手当てをする。対価として食料や情報を貰う。生き残る手段だ。

 まだ、ユイは人の役に立とうなんて思ってもいなかった。

 


 B地区。かつては「港区」と呼ばれた場所である。その中のとある廃ビルの屋上でユイは休憩を取っていた。

 春特有の穏やかな日差しに、心地よい潮風が混ざり合う。

 耳を澄ませば鳥が鳴いていて、見渡せば一面に広がる青い海。

 見上げれば澄み切った水色の空。

 この世界らしからぬ、美しさに溢れた空間が広がっていた。

 こうして過ごしていると、今の状況をつい忘れてしまいそうになる。

 ユイは瞑目し、過去を反芻し始めた。

 


 どこからともなく、まるで無から現れるかのように出現したセレクター。

 その日は休日で、遠くまで買い物に出かけていたっけ。

 サイレンと共に緊急放送が流れたかと思ったら、突然周りから悲鳴が聞こえだすわ、照明は落ちるわで酷く混乱したのを覚えている。

 警備員の人たちの助けで外に出れたのは良いんだけど、外はまるで世紀末かのような荒れ具合。

 燃える自動車。逃げ惑う人々。聞こえるはずのない銃声。

 自衛隊まで出動するなんて、ただ事じゃない。

 とにかく家族と連絡を取ろうと思ってスマホを取り出してはみたけど、何回掛けても繋がらない。

 まさか、もう家の方まで……

 そう思って、ひたすら走ったんだ。



 走って走って、何回も息が切れて。スニーカーを履いていたのは幸いだったけど、それでも徒歩で行くには遠すぎる距離だった。

 家に着いたのはもう日が沈み始めた頃。急いで玄関の鍵を開けて中に入る。

 入った直後、疲労感と安心感に体が支配され、そのまま座り込んでしまった。

 これで、もう大丈夫。家族と一緒にいれば何とかなる。

 ひとしきり休んだ後、重い体を起こして母の名前を呼んだ。

 返事はなかった。

 父の名前も呼んでみる。

 やはり返事はない。

 誰もいない。この世界で一番安心できる場所が、伽藍堂のようになってしまっていた。

 依然として電話は繋がらないので他の場所を探すことにした。

 近くの公園。人っ子一人いない。

 最寄りの避難所。人はいたが両親はいない。近所の人がいたので聞いてみたが、見かけていないと言われてしまった。

 最寄駅。人で溢れかえっていたが、しばらく探しても両親はいない。

 どこにもいなかった。まるで最初から存在していなかったかのように。

 そうしてユイは一人ぼっちになった。



 強く吹いた海風に煽られて、ユイの意識は過去から引きずり出された。

 ユイの白い髪が風に舞う。

 空を見上げると、白い大きな雲が東に向かって流れていた。

 あれ以降、結局両親とは連絡が取れていない。

 それどころか、友人や学校の先生とも全く連絡がつかない。

 誰も彼もいなくなってしまった。

 流れる雲のように、海の向こうに消えてしまったのだろうか。

 残ったのは荒れ果てた街。知らない人たち。そして、セレクター。

 ほんの一瞬で生きる世界が地獄になった。怪物から逃げ惑い、食われて死ぬか餓えて死ぬかの選択を迫られる世界。

 でも死ぬ訳にはいかない。絶対に死にたくない。

 どんな手を使ってでも必ず生き残る。

 ユイの決心は固かった。

 

 

 くつろぎ始めて十分か、二十分かが過ぎた頃、大きな音を立ててユイのお腹が鳴った。

 下腹部をさすりながらユイは表情を曇らせる。


「お腹空いた……」


 昨日の朝からまともに食事を取っていない。水分は補給しているのですぐに重篤な状態になるわけではないが、流石にこれ以上何も食べないのはきつい。

 壁ができてしまったせいで壁外との流通は完全にストップ。壁の中、二十三ある地区の人々は、今ある物資だけでやりくりしなければならなくなった。

 勝手に壁を作ったんだから政府が何かしら保障してくれるはずだ、って言っていた人もいたけど、結局何もしてくれなかった。

 セレクターが現れて一週間で新しい法律を作り、首都のほぼ全体を囲む壁を建設。首都機能は京都に移して、そそくさといなくなってしまった。まるでセレクターが現れることを知っていたかのような行動の速さだけど、真相は分からない。


 最初は壁のところまで行けば出してくれるんじゃないかって思っていた。セレクターが外に出ていかないようにするための壁だし、内から人が出ていく分には問題ないはずだ。

 でも、そうじゃなかった。壁には入口も出口もなく、行き来できるような箇所は全くなかったのだ。

 代わりに出迎えてくれたのはドローンや固定砲台といった無人兵器。何か動くものを見つけると容赦なく射撃してくる。セレクターもお前たちも壁の中に閉じこもっていろ、そう言わんばかりの設備だった。

 よくもまあここまで国民を蔑ろにできるなって思ったし、実際、日本政府は世界中から非難されたらしい。非難されたからって外に出れるわけではないのだけど。



 あれこれ考えていると貴重な糖分を消費してしまう。この辺にしておこう。

 ユイは立ち上がって、ビルの上から周りを見渡してみる。

 コンビニとか駅とか、食料がありそうなところはあらかた見て回ったけど、見事に全滅。このビルも一階から屋上まで漁ってみたけど、成果なし。

 他の地区に探しに行ってみるのもありだけど、もっと手っ取り早い方法は……。

 ユイの視線の先、ビルの真下には小さな公園があった。芝生や木々で溢れた公園にはいくつかベンチがあり、その一つに人が寝転がっているのが見える。

 存在しないのなら、既にあるところから取ってくればいい。

 ユイは体を翻すと、階下に続く階段へと向かった。



 ユイがビルから出ると強い風が吹いていた。空腹で元気がなくなったユイの体は簡単に煽られてしまう。転倒してしまう程ではないけど、かなり歩きにくい。

 強風になびく髪を抑えながら空を見上げると、桜が舞っているのが見えた。昼過ぎの日差しに包まれて、キラキラと輝きながら。

 その美しさにユイはしばらく佇立して見惚れてしまう。

 綺麗だ。でもこれじゃすぐに全部散ってしまう気がする。

 もしかしたらこれが最後の桜になるかもしれないし、今のうちに堪能しておきたい。しかし、その前にやるべきことがあった。



 ビルの隣にある小さな公園。その中の木々の一つを選び、ユイは幹に体を隠す。まるでスパイ映画のエージェントのように、木の幹からそっと顔を覗かせ、ベンチの様子を窺う。

 人が寝ている。スカートを履いているのを見るに、女の子のようだ。

 無防備にもこんな見通しが良い場所で寝ている。急に襲われたらどうするつもりだろう。そう、今みたいに。

 傍らにはコンビニの袋のようなものがある。食料……だろうか。いや、食料だろう。そうじゃないとわたしが困る。

 今なら獲物を見つけた獣の気持ちが分かる気がする。底しれぬ高揚感。本能がざわつく。

 いや、一回冷静になろう。

 ユイは自分の鞄を開いて、中を覗く。

 水が入ったペットボトル、救急セットやその他の日用品の中にそれはあった。

 電気スパークを用いた護身用品。いわゆるスタンガン。ユイが探索の過程で見つけたものだ。

 スタンガン程度でセレクターの動きは止められない。むしろ何の効果もなく、簡単に反撃されてしまうだろう。そういう意味ではあまり役には立たないかもしれない。

 でも、壁の中にいる敵はセレクターだけじゃない。人がいる。悪意ある人間がわんさかと。

 たまに鉄パイプや拳銃で武装している生存者を見かけるけど、恐らく自衛のためか、他の生存者を襲うためだろう。

 人間同士で争っている場合じゃないのに。まあ、自分が言えたことではないのだけど。



 ユイは鞄からスタンガンを取り出すと、スイッチを入れた。

 バチバチとスパークが走るのを確認する。よし、まだちゃんと使えるみたいだ。

 もう一度ターゲットの様子を確認する。ベンチの上で寝転がって、完全に熟睡しているように見える。

 行ける。そう思ってユイは足を踏み出した。

 一歩、一歩。足を忍ばせ、気配を殺し。

 目はずっと女の子の方に向けながら。須臾の間も離さず、ただひたすらに。

 スパイ映画のエージェントのようにというよりは、忍者のようにといった方が適切かもしれない。

 そう時間も経たないうちに女の子の側に到着した。ユイは徐に観察を始める。

 ビニール袋の中身は、やはり食料だった。インスタントの食品――カップラーメンやカップスープがいくつか入っている。ビンゴだ。

 とりあえず、これで空腹を凌ぐことができそうだ。早速食料を手に取ろうとしたユイであったが、傍らの女の子のことが気になっていた。

 遠くからだと分からなかったけど、この子、かなり美人。

 まず、顔立ちが整いすぎている。ここまで整った顔は初めて見たかもしれない。

 肌も綺麗だ、お人形さんみたいな肌とはこういうことを言うんだろう。

 後、髪も……って、いけないいけない。気付かれる前に目標を果たさないと。



 ユイはゆっくりと慎重にビニール袋に手を伸ばす。

 大丈夫。もし気が付かれたらスタンガンを使えばいい。これを当ててしまえばしばらくは筋肉が収縮して動けなくなる。動けるようになる頃には、もうわたしは腹を満たしているだろう。

 一応、医療従事者の端くれとして、こんなものを使うことには抵抗があった。殺しはしないとはいえ、人を傷つける道具を。

 でも、餓えて死ぬよりはマシだ。餓えて、衰えて、絶望して、世界を呪いながら果てる。そんな未来は望んでいない。

 自分が死ぬより酷いことなんてない。思想や信条は生きていてこそ意味を持つ。

 だから、わたしは生き残るためなら手段を選ばない。



 ビニール袋に手を触れた。そのまま指を折り袋を掴む。

 ビニール袋特有のガサガサという騒音が鳴り響いたが、女の子の方はというと目を閉じ寝息を立てたままだ。

 大丈夫。気付かれていない。

 ユイはビニール袋を左手に持ち、体は女の子の方に向けたまま、ゆっくりと後退する。

 数メートル離れたところで背を向け歩き出した。

 歩きながら右手のスタンガンに視線を落とす。

 なんだ。これを使うまでもなかったし、やっぱり簡単にできるじゃないか。

 人から物を盗んだ。その言いしれぬ背徳感に心が踊らされる。

 もう、わたしはいい子じゃない。でもそれで構わない。

 


 その時だった。小さな公園にけたたましい銃声が鳴り響いたのは。

 ユイは一瞬、自分が撃たれたのかと思った。しかし、銃声とともに抉られたのはユイの側の地面。

 振り返ると、さっきの女の子が拳銃を携えてこちらに向かってきていた。

 殺される……! ユイの顔がみるみるうちに青ざめていき、体が震えだす。今更ながら、ユイの心中を後悔の念が去来する。

 まずいまずいまずい。何とか、弁明しなければ。段々と真っ白になりつつある頭で必死に考えを巡らす。

 その間にも女の子は少しずつユイに近付いていき、ついにユイの目の前に立った。

 女の子が口を開くより前にユイは慌てて謝罪の言葉を口にする。


「ご、ごめんなさい! お腹が空いていて、我慢できなくて、それで……本当にごめんなさい。だから、どうか、撃たないで、お願いします」

「? なんのこと?」ユイの目の前の女の子は首をかしげる。えっ、なんで?

「いや、わたしがこれを盗んだから撃ったんじゃないの……?」


 言いながらユイは女の子にビニール袋を見せた。

 女の子はそれを一瞥すると、


「あぁ、それ。いいよ。あなたにあげる」

「ありがとう……って、いやいやちょっと待って」


 ユイの脳内は大混乱に陥っていた。この子は何を言ってるんだろう?


「えっと、わたしがあなたの食料を盗んだから撃ったんだよね?」

「んー? 違うよ。久しぶりに人に会えたと思ったのに、すぐに行っちゃうんだもん。大声出すのもダルいし、なら撃てば気付いてくれるかなーって」

「いやまぁ、そりゃ気付くけどね……」


 どうやらわたしが食料を盗んだことを咎めるつもりはないらしい。そして発砲の理由が謎である。

 この子、よく分からない。でも今のやり取りで少し興味が湧いた。


「どうして、わたしが盗んだのに殺さないの?」


 他の人間だったらすぐにわたしの頭を銃で打ち抜いていただろう。ただでさえ貴重な食料だ。盗まれて、激昂して、殺害。よくあることだと思う。


「あー、それはね。久しぶりに人と話したかったってのもあるけど、一番は」


 女の子はそこで一旦言葉を切り、ユイの目を見つめて続ける。


「あなたが可愛かったから」


 は? え? なんて? わたしが可愛かったから?

 ユイは動揺を隠しきれず、その場であたふたしてしまう。その顔は明らかに赤くなっていた。

 その様子を見た女の子は相好を崩し、


「冗談だよ? 本気にしちゃった?」

「え、そ、そうなの?」


 今まで言われたことがない、唐突に告げられた言葉に心底動揺してしまった。恥ずかしい。

 ユイの顔がますます赤くなる。まるで熱湯を頭からかぶったみたいに。

 ユイは俯いて赤くなった顔を隠そうとした。


「あなた……結構面白いね。気に入ったよ」

「はぁ」


 どうやら悪いようにはならなさそうだ。その点は安心できるけど、まだ少し釈然としない。

 それからほんの少しだけ間を置いて、女の子が語り始めた。


「ま、罪を憎んで人を憎まずってやつかな。こんな状況だから犯罪行為も厭わない。そう思っちゃうのはしょうがないし、自然だと思う。人間なんて、誰だって間違いを犯すよ。だから、ちゃんと反省していればそれでもう十分。それ以上何も言わないよ」


 すっと、言葉が胸のうちに入ってきた。そんな考え方もあるのかと思った。


「それに、元々あれは誰かにあげるつもりだったし。たまにいるんだよ、あなたみたいな子。ろくな武器を持っていなくて、食料は他のやつらに取られ、餓死寸前みたいな」

「わたしみたいな」

「そう」


 純粋にすごい、と思った。わたしだったらそんな考え持てないし、他人のために自分が損するなんてありえない。

 ユイは自分が恥ずかしくなった。それと同時にある欲求がユイを満たしていた。

 お礼がしたい。初めての感覚に戸惑いつつも、それを伝えるべくユイは口を開いた。


「あの、お礼がしたいです」

「お礼? その食料の?」

「うん。何だか、あなたのために何かしたくなって」

「うーん、そうだねぇ……」


 ひとしきり女の子は逡巡した後、言葉を口にする。その顔に屈託のない笑みを浮かべながら。


「あたしと一緒に、この世界で生きてみない?」


 そうしてユイはユリナと出会った。

 まだ二人が、何も知らなかった頃の話だ。

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