第30話 年の初めの試しとて 【改訂版】

 食卓に突っ伏す娘から、延々父親の愚痴が洩れているのがうっとうしい。

 詩織は正月番組を見るのを諦めてテレビを消した。

「もう一週間になるのに、まだ言うの?」

「だってぇ……」

 娘が顔を上げる。

「せっかく誠人お兄ちゃんがデートに誘ってくれたのに、お父さん本当に一晩中ブロックしてたんだもの!」

 大事に大事に温室で育てた愛娘に、いよいよ虫が付いたと知った俊雄さんの反応は……言うまでもない。

 詩織はしみじみ呟いた。

「ああいう時の父親って、大したものよね。見事に丸三日以上、誠人君を近寄らせなかったものね」

 訪問者どころか、娘がちょっと抜け出そうとしただけでもあっという間に察知して何処へ行くのか訊いてくる。誠人君宅への用事どころか、他の用事を装っても見事な嗅覚で婉曲にダメと言って愛しい彼氏への連絡を防いでみせる。父親というのは色ボケした娘の事なら動物的な勘が働くらしい。

 まあそこまでは、世のお父さんなら普通にできるのかもしれない。

 が、詩織が自分の旦那に一番関心したのは……更にそこから攻勢に出た事である。


 俊雄さんは娘の行動を完全には抑えきれないと踏んで、アクティブ・ディフェンスに打って出た。何かと言えば誠人君を呼びつけて家庭内のイベントに参加させたのだ。

 見た目としては、娘の彼氏を歓待する理解のあるパパかもしれない。だが、当然沙織も誠人君も気が付いていたことだろう……娘が抜け出しても、彼氏の身柄を押さえていれば密会なんて出来やしない。

 夕食に呼んで笑顔で圧迫。横に座らせて一緒に映画を見る。酒を出しては同席を強要。挙句疲労困憊するまで出張先や仕事の話を語り続けて延々返答が必要な会話を続ける……これ、部下にやったら間違いなくパワハラ事案だわ。

 あの様子では誠人君は部屋に帰ってもぶっ倒れて寝ているだろうし、俊雄さんが彼を解放した頃には夜も更けている。娘が「ちょっとコンビニに」なんて外出できる時間じゃない。たとえ出かけようとしても、ニコニコ笑いながらパパがボディガードでついてくる。


 沙織が涙目で唸る。

「お父さんったら信じられないよ……誠人お兄ちゃんが帰省するまでずっと張り付いているんだもの! なんであんなに元気なの!? 私、誠人お兄ちゃんがいる間にお父さんが寝たの見てないよ!」

 誰よりも早く起き、誰よりも遅く寝て、わずかの仮眠も物音でパッと目が覚める。娘と害虫おとこの接触がないかを二十四時間自ら見張る姿は、いっそ父親の鑑と言えるかもしれない。

「あたしも俊雄さんがあそこまでこじらせるとは思わなかったわぁ」

「お父さん、誠人お兄ちゃんが晴れ着姿の私を襲わないようにって赴任先に帰る予定まで伸ばしたんだよ!? 信じられない」

 新年二日に戻るはずが、急に四日までいると言い出した時は詩織も驚いた。仕事は大丈夫なのかと聞けば、

「気合で何とかする!」

 と力強い返答が……クリスマス中の頑張るマンぶりを見れば、本当に何とかしそうだった。


 しょげている娘が、机にのノ字を書きながらボソボソ言っている。

「あーあ……クリスマスがダメだったって言ったらエっちゃんが教えてくれた方法を試してみたかったのに」

「悦子ちゃん、なんだって?」

 娘がガバッと起きた。

「姫初めって言ってね、晴れ着で誘うと彼氏の食い付きが三割増しで良いんだって! 新年だけの期間限定の特別感があるんだって!」

 目をキラキラさせている娘は、友達に聞いた話がどういう意味なんだか多分よく判っていない。詩織はちょっと頭痛を感じながら娘に現実を教えた。

「あのね、沙織。そいつはお母さん、ちょっと賛成できないな」

「なんで?」

「着物で始めちゃったとして……あんた、終わった後の着付けはどうするの? 男はそこから先、何も考えていないぞ」

 黙った娘はしばし視線に宙を泳がせ……。

「お母さん……」

「そんな現場に親を呼ぶな」

 シュンとする娘に、詩織は更に言い聞かせる。

「あとね、晴れ着って汚すと専門のクリーニングに出さないとならないから。特殊な汚れが付いた理由、店の人はすぐわかるからね? それと男ってその辺りに理解ないから、剥くだけ剥いて着物を踏みつけたりするからね。小物なんかポンポン投げ捨てられて無くなったり壊れたりしても、高価なものだなんて感覚ないから弁償してくれないよ?」

 生々しい話に慄いている娘の鼻先に、詩織は指を突きつけた。

「晴れ着で姫初めなんて、現実にやったら愛しい彼氏に殺意沸くからね? 誠人君とこの先も仲良く行きたいんなら、余計なことはしない方が無難だぞ」

「わ、わかりました……」

 コクコク頷いて小さくなっている娘が、ふと顔を上げた。

「お母さん」

「なに?」

「そんなに詳しいって……」

「だから俊雄さんはいまだにあたしに頭が上がらないわけさ」




 しかし、なんだな。

 詩織はすでに冷えている燗酒を猪口に注ぎながら、娘の彼氏? に不満を感じた。

 誠人君も沙織が欲しいなら、もうちょっと努力をしてもいいのではないだろうか。俊雄さんの予想を超えるようなアイデアで沙織を連れだすとか。

 あの親バカぶりを誇る俊雄さんを相手にするなら、今のうちに一発食らわしておかないと義理の息子になった後が大変だぞ?


『と、あたしは思うわけさ。手加減されてる今の内から俊雄さんとやりあえないようじゃ、この先あんたどうするよ?』

「管理人さん、そんなことを言うためにわざわざ帰省中の俺に電話してきたんですか」

『おうよ』

 平然ととんちんかんな指導をしてくる管理人さんに……通じないであろうことは承知の上で、俺は怒りに任せて電話へ向けて怒鳴った。

「やっとの思いでこぎつけたクリスマスの約束を、開始直後に潰してくれたあんたらに言われたくないわ!」

『俊雄さんが帰ってくるってのは沙織に聞いていたんでしょうが。あの程度の危険予測ぐらいちゃんとしなさいよ。んだからさぁ……』

 やっぱり管理人さんには俺の怒りは通じなかった。



   ◆



 買い物に行っていた父が上機嫌で戻ってきた。というか……帰省するまで誠人お兄ちゃんが父の妨害に手も足も出なかったので、それからずっと機嫌がいい。

 ……代わりにこっちは最悪の気分だ。

 沙織が恨めしそうに睨んでいても、原因がわかっているだけに父は全然狼狽えてくれなかった。他の事なら沙織が不機嫌になればなだめようとオロオロするのに……。

 晩酌のビールを並べながら、父が母に「そう言えば」と切り出した。

「今はまだ本決まりではないんだが、今年の春から帰って来れそうだよ」

 父の単身赴任はもう三年に及ぶ。そろそろあと何年か継続するか、後任と変わるかという話になっていたみたいだ。けど……。

 母も目をぱちくりさせて、枝豆を食べる手を止めた。

「そうなの? この前話した時は心配だから居残るかって言ってたのに」

「ああ、プロジェクトも心配には心配なんだが、俺一人で進めている仕事でもないからな。それに、こっちに詩織と沙織だけ残して行っているのも心残りだったし」

 そう言って父は一口ビールを飲むと、朗らかに続けた。

「それに、向こうの仕事は順調に進んでいるが……こちらで沙織のが心配になってきたしな! 俺もほったらかし過ぎたと反省しているんだ」

 一瞬母の目が遠くを見たのが印象的だった……。


「って、お父さんが言い出したの! どうしよう……春になったら鉄壁ガードだよ! 誠人さんのところへ行くどころか、学校の行き帰りさえお父さんに送迎されるかもしれない」

『話には聞いていたけど、サオリンのパパは娘愛がすげえなあ……』

 電話の向こうのエッちゃんが、感心したというか呆れた声でため息をつく。

「ほんと、どうしよう……」

 あのなかなか思い切ってくれない誠人お兄ちゃんでは、お父さんのガードをくぐることは……絶望的だ。

 もしやこのままお兄ちゃんの大学四年間が過ぎてしまうのでは……ちょっと、気が遠くなる。

『……これは、サオリンが思い切るしかないかもしれんぞ』

 さっきから電話の向こうで唸っていたエっちゃんが、急に重々しく言い出した。

「と言うと?」

『この先、何かイベントごとが無いかい? サオリンのでもいいし、マコチンのでもいいし』

「えーと……」

 ちょっと考えたが……確かに、もうすぐ大事なのが一つ。

「二月に入る前に、誠人さんの誕生日が」

『お、いいね! それちょうどいいよ!』

 エっちゃんが電話の向こうで手を叩いた。

『サオリン、覚悟を決めろ!』

「……はい?」

 エっちゃんは何が言いたいのだろう?

『いいかサオリン、このままじゃお父さんが春に帰ってくる前までに、マコチンがもう一度勇気を出すのは難しいと思う』

「うん」

『だからサオリン……おまえがマコチンの誕生日に勇気を出せ! お父さんが帰ってきた時には手遅れになるようにな!』

「!」


 沙織は、待つのを止めることにした。



   ◆



「沙織ちゃん、なんだって?」

 そう聞く智史の胡坐の中に座りながら、悦子はスマホをしまった。

「聞くだけ無駄な愚痴だった」

「その言い方、ひどいよ……」

「そうでもないよー」

 悦子は智史にもたれかかりながら、にんまりと笑って見せた。

「あのどんくさい子が、やっと飛ぶ気になったみたい」

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