49. 少年たちの勇気

「ぐ、うう……」


 歯の隙間から漏れるような呻き声を上げながら、ファーレは青白い手で胸元を押さえてその場に頽れた。


 空気が一変する。

 時折、月を覆い隠していた分厚い雲は既に遠くへ流れ去り、氷の粒が寄り集まってできた絹のような薄雲うすぐもを羽織った天体の王は、鮮やかな月暈つきがさを周囲に振りまきながら、地上の攻防戦の決着に静寂という神秘的な鬨の声を上げた。


――テオが


 美童が深い笑みと共に熱い息を吐き出す。呪文に乗って吐き出される白が濃さを増す。

 さあ、戻ってこいクラレンス。その体は君のものだろう?


 その時、どこまでも藍色のすそを広げた夜半の空に向かって突如ファーレが甲高い絶叫を放った。かと思うと、墓場を徘徊する幽鬼ゆうきのようにふらふらと立ち上がり、滅多矢鱈めったやたらに魔力の塊を放出し始めた。けれどそれは悪足掻き以上の何物でもなく、行き場の定まらぬ球体は砂の大地を抉り、辺りに砂柱をいくつも築くばかりだ。


「まだ暴れる元気があるのかよ」


 軽く息を切らしながらキティは舌を打った。今の今に至るまで、ファーレの意識から美童の存在を隠すのに、ド派手な大立ち回りを演じていたのだ。共に広大な地上を駆け回っていたティーグルは、ふらつくどころか息一つ乱していない。


 キティは傍をかすめる攻撃を最小限の反動で済むように相殺させながら、時が過ぎるのを待つことしかできないのがもどかしかった。


 もうすぐだ。もうすぐのはずだ。状況は変わってきている。こちらが有利だ。

 自分を励ます言葉の波とは裏腹に、脳裏をかすめる焦燥感の存在にも気付いていた。

 あとどれくらい持ちこたえればいい。捨て身の魔法攻撃をいくら交わせばいい。

 急き立てられる心とは裏腹に、体感時間は通常の十分の一。冴えわたった五感が自分の周りの時間だけを酷くゆっくり流しているように思えてならなかった。

 ……と、そんな雑念に囚われていると、


「うおっ!?」


 たった今までキティがいたところに、弾丸のようなスピードで魔力の塊が通り過ぎていった。背後でドォン、と大きな音がして、地響きを伴いながら深く大地を穿つ。寸でのところで避けることが出来たが、深く沈み込む砂に爪先を取られ、胸から前に倒れこんだ。間髪入れずにそこに突撃してきた攻撃がもろに脇腹に衝突し、後方にいた美童のところまで一気に吹っ飛ばされる。


「うわ!?」


 不意を突かれる形となった美童は受け身を取る暇もなく、ぶつかってきたキティに思いきり押し倒される。


 器用に呪文を唱えたまま、いてえな、という非難の声をその目に宿しながら、美童はキティを乱暴にどかす。仕方ねえだろ、と反論した死の魔法使いの表情が、さっと凍り付く。息を切らしながら立ち上がろうとした膝が、たちまち頽れてしまった。


 その時、彼の襟元から覗いた首筋から顔に向かって這い上るように捻くれたつるの模様が焼けた肌を覆った。元々そこに彫られていた刺青とは別の模様だ。

 美童の眉間に深く皺が寄る。

 本人はその変化に気付いていないようだったが、それを見たティーグルもグレーがかった双眸に、動揺の色を走らせた。


「な、なんだ、これ、は……」


 いつもの力強い声が出ず、声帯が情けなく震えた。

 ついには全身から力が抜け、うなだれるように首が下を向く。「ち、から、が……」


 声からも気力が抜けてゆく。

 ファーレの魔法だ。先程喰らった一撃だろう。ただの塊だと思われた球体は、接触者の体内からエネルギーを吸い取る効果を発揮するようだ。キティの全身に絡みついた蔓の模様が鼓動するように赤黒く光り、一つ脈打つたびに多くの体力を吸い取られてゆく。


「ッ……立てない」


『主、しっかりなさいませ』


 早口で促すティーグルの口調に焦りが滲んでいる。無防備状態で精神世界の影を開いている美童と、体力を吸い取られ立つこともままならないキティ。それに加え、理性の崩壊したファーレの捨て身の悪あがきがどうにも厄介だ。一気に防御の手薄になったこちら側の戦況はたちどころに不利に傾く。

 そうこうしている内に、ファーレが次の一撃を放つモーションに入る。


『主!』


 ティーグルが身動きの取れない二人の前に立ちはだかる。

 止せ! ……とキティが制止しようとしたその瞬間、焦燥に色立った美童の顔に小さく笑みが浮かんだ。


「いや、キティ、もう大丈夫そうだ……」


 同時に、ファーレの手から渾身の一撃が放たれた。……が、次の瞬間、その一投はティーグルの豊かな毛並みを風圧で乱しただけで消滅した。咄嗟に目を伏せたキティが再び顔を上げるとそこには、光が弾けるようにして消え去ったファーレの攻撃の欠片と、新たな人物の姿が――周囲に淡い光を纏ったテオの背中があった。


「テオ!」美童が安堵したように声を漏らす。古の言葉を唱え続けた喉は掠れに掠れ果て、乾いた咳が止まらなくなるほどだった。呪文を唱えるのを中止したところで精神世界の影は封じられ、歯を見せて笑った顔にはだいぶ余裕が戻ってきている。


 ファーレは蹲って胸元を掻きむしりながら、喉を絞められているような錆びた苦鳴を叫び散らかしている。


 異様な光景だった。麗しい美少年の狂気に囚われたような様が、現実世界から乖離した映像の中の出来事のように思わせる。

 クラレンスがファーレから肉体の主導権を奪い返そうとしているのだ。


「やめろ……引っ込んでいろ……」


 ファーレが毒を吐き捨てるような声で言う。


「うるさい……お前が出ていけ、薄汚い悪魔め」クラレンスの声がファーレの意識に割り込む。


「眠っていろ、怯えていろ……」


「嫌だ、嫌だ……!」


「黙れ、この体は俺のものだ」


「うう、ううう……!」


 クラレンスが小さく呻くと、その瞳からぱたぱたと涙が滴り落ちる。


「――て行け……」


 掠れた声が、もう一度叫ぶ。


「出て行け、出て行け、出て行け、出て行け、出て行けよ! ぼくの身体から出て行けええええええええ!」


 強固な意志の宿った激しい絶叫が上空に響き渡ったその刹那、クラレンスの肉体から実体を持たないファーレがものすごい勢いではじき出された。

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