34. イーヴィルの試練【テオ】

 よく来たな、ファンフリートの坊や。


 目の前の異様な男は確かにそう言った。眩しいほどの白貌はくぼうに虚ろの化粧けわいを塗り広げ、ニコニコと愛想のいい割には、他者に己の本心を悟らせない用心深さが垣間見える。

 赤みの強い髪の隙間から顔を出した尖った耳は、彼がではなく、魔に属する者であると言葉の外で語った。


 テオは今日体験した旅の中でほんの少し度胸がついたらしく、やけに落ち着いた出で立ちで「はい」と頷いた。殺人鬼や巨大サソリとの死闘の後では、まともに言葉が通じるだけでもありがたかった。……怖くないわけではないけれど。


「あなたは誰ですか?」


「イーヴィル。固有名詞じゃない。俺に名はないからな。猫ちゃん、魚ちゃん、みたいなものだと思って笑ってくれ」


 彼は――イーヴィルは喉を反らしてカラカラと笑うと、表情が硬いままのテオを見て「怖がるなよ。別にあんたを傷つけてやろうとか、そんなつもりは一切ないんだから。ただ、そうだな……場合によっては少しだけ嫌な思いはするかもしれない」


「え……」


 一歩退いたテオは、乾いた喉を潤そうと、無い唾を無理矢理に嚥下させる。


「何をするつもりですか」


「ハハハハ……」


 彼は含んだように笑うと、不安げな少年の問いには答えず、テオが瞬きをした次の瞬間には、はじめからそこにいなかったかのように姿を消していた。


「え、嘘、待ってください!」


 慌てて後を追いかけようにも、姿がないのだからどうすることもできない。

 テオは心細くなって、今にも泣き出しそうになりながら辺りに視線を走らせた。


 あの得体のしれない魔族でも、いないよりかはいてくれた方が孤独を紛らわすことが出来ようものだが。


 いや、それより美童はどこへ行ったのだろう。


「美童さあん!」


 いつの間にか周囲には緞帳どんちょうが下り、一筋の光もない世界が果てしなく広がっている。眼前に近付けた自分の掌さえ見えないほどの深い闇は、己の存在の有無さえ曖昧にさせた。


 文目もわかぬ暗闇に足が竦む。安易に足を踏み出してそこに地面がなかった時のことを想像して、その場から一歩たりとも動けなかった。


 どうしよう。このままここでじっとしているのも不安。勇気を出して辺りを散策する度胸はない。


 手の中にあったはずの本はいつの間にか存在ごと掻き消え、動かなくなったうさぎの縫いぐるみだけがぐったりと腕の中で項垂れていた。


 自分が手に取った本は本物ではなかったらしい。でもそうならば、なぜうさぎはあの場にいたのだろう。イーヴィルのまやかしに欺かれてしまったのだろうか。


 途方に暮れて深々とため息を吐いたその時、前方に薄ぼんやりと白い光が現れた。その光は、天空から差し込む神秘的な光芒こうぼうのように地上へ向かって落ちている。

 ほっとしたのもつかの間、ようやく得られた視界の先で、想像もしていなかった人物が並んで立っているのを見て、テオは思わず呟いた。


「フィン兄さんとヤン兄さん……?」


 二つ上の双子の兄たちだった。

 二人は俯きがちな顔を徐に上げると、へらへらと嘲笑を張り付けて声高に言う。


『テオには無理でしょ』

『言えてる。絶対できっこないよ』


 ……!

 テオの胸を、ヒビが入るような痛みが走った。

 このセリフには聞き覚えがあった。……幾度となく浴びせられた罵倒の数々の中で、この言葉が特にテオの自尊心を深く傷つけてきたのだから。


 目の前の兄らは、テオの存在など気付いてすらいない様子で、腹を抱えながらげらげら笑っている。


 ふと、テオの脳裏に蘇る、悲しい記憶。

 あれはいつのことだっただろうか――今から一年くらい前、学校で催される年に一度のお祭りで、子どもたちを集って舞を披露する演目があった。それは毎年、学校の一番目に付くところに設置された掲示板に張り出された。成人前の子どもであることのみを条件とし、他校の子どもたちとの交流を目的とした人気の演目だった。


 生来の性格故、テオは自主的に祭りに参加するつもりはなかったが、ある日、クラスメイトに「一緒に参加しよう」と声をかけられた。


 どきっとした。人前に出るのが苦手なぼくにできるわけがないという緊張と、学年一の秀才と謳われるクラス委員長に誘ってもらえた嬉しさ。


 もちろん自信なんてなかったけれど、みんなといい思い出が作れるかもしれないという希望に、胸がカッと熱を持つ。


 自分一人では参加しようなんて思わなかった。現に毎年、この時期になるとテオは掲示板の前に群がる他の生徒たちの後ろを、妙に冷めた気持ちで素通りするだけで、祭り自体にも参加してこなかった。

 祭りは自由参加であったし、舞台に立って何かを披露するのも、たいていが有志の催し物である。


 テオはこれを転機だととらえた。人前に立つ不安ももちろんあったが、自分でもうんざりするほどの控えめすぎる性格を直すいい機会かもしれないという自信に、たちまち舞い上がる。


 それでもすぐに「うん」と返事をするのは少し不安だったので、明日までに決めてくると答えを保留にして、その日は帰宅した。


 この時点でテオの心の中では明日、友にイエスと答えることは決まっていたのだが、家に帰って長兄のクラレンスに訊ねてみたかった。僕が舞台に立てるのか、と。きっと兄は自分のことのように喜んでくれて「当たり前だよ。頑張りな」と背中を押してくれるに違いない。


 まだ自分で物事を決めるのは不安だった。けど、行動したいと思った。その勇気をクラレンスに認めてもらいたかった。


「ただいま」


 ……と、リビングのソファでだらだらと頂き物のクッキーをぱくついていたフィンとヤンが「挨拶おかえり」も早々に「なんでそんなに嬉しそうなの」と白けた顔で問う。


 帰宅早々に嫌なコンビに絡まれちゃったなと顔を引きつらせ「そ、そうかな」と視線を逸らす。


「何かいいことでもあったの」


 同じ顔をした兄らが声を揃えて言うので「実は」と、今年の祭りのステージに誘われたことを話す。いつもは捻くれたことばかり言ってる二人も、シャイな弟の勇気を認めて感心してくれるのではなかろうか――そんな期待を、フィンは無惨にも打ち砕いた。


「いや、テオには無理でしょ」


「言えてる。絶対できっこないよ」


 嘲笑と共に冷たく吐き捨てられた二つのセリフ。

 テオは奈落の底へ突き落されたような衝撃に、はっと我に返った。


 ――ぼくは、何を浮かれていたのだろう……。


 。まさしくその言葉通り、自分はさして交流もない学友におだてられて舞い上がっていたのだと気が付く。


 きっと声をかけてくれた彼も、いつも一人でいるテオを同情して声をかけたのだ。同情か。そうだとしたら、声をかけるだけかけておいて、そのあとは知らんふり? 物覚えの悪いぼくが舞いに四苦八苦する様を見てがっかりする?


 ……そうだ。自分が人前に立って何かをするだなんて無謀にもほどがあるというもの。

 一体自分は何を期待していたんだろう。持ちあげられて気分がよくなっていたのだ。ああ、滑稽こっけいだ。己を過信して。


 落ちるときは一瞬だ。さっきまであんなに楽しかったのに、今はこんなにも胸が苦しくて、涙が出そうだった。


「そ、そうだよね……」


 気が付けばそんなことを口にしていた。同時にとてつもない羞恥心が熱となって頬を、耳を染めた。


「やめときなよ。絶対後悔するからさ」


 ――後悔。それは


「うん……」


 テオは荷物を置きにとぼとぼと自室へ向かった。

 兄さんらの言う通りだ。慣れないことはするもんじゃない。。本番で上手く立ち回れなくて恥をかいて、参加しなきゃよかったと思うに決まっている。


 自室のドアを開けると、閉じ込められていた冷気がテオの顔を叩いた。

 参考書が詰まったリュックを床の上に下ろすと、全身がふわっと浮くように軽くなる。


 ――駄目だ、駄目だ。僕は人より出来ないんだからしっかり地に足つけて生きよう。目立たず、恥をかかず、静かに生きてゆこう。フィン兄さんたちに感謝しなくちゃ。恥をかく前に忠告してくれたのだから。


 ……。


 自分を納得させようといろいろな言葉をかき集めても、一度感じた惨めさはそう簡単に払拭できよう筈もなかった。


 悔しくて涙があふれる。

 何が後悔だ。テオはいつも後悔をしていた。失敗をしてではなく、勇気を出して挑戦してこなかったことを。それらを、全てが終わってから激しく後悔してきた。


 何度も何度も、同じ後悔あやまちを繰り返しては、不可逆な過去の自分に向かって罵倒した。

 それでも、どうしても彼は新たなことに一歩踏み出せないでいた。臆病者、なんて自分のことを嘲笑ってみたりもする。


 翌日、テオはせっかく誘ってくれた学友に「ごめん。やっぱりぼく、自信ないや」と断りの返事をした。

 彼は少しがっかりしたように微笑し、「こっちこそごめんね」と、謝る必要など微塵もないはずなのに、そう言って許してくれた。

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