32. 螺旋の先に

 大まかに周囲を見渡した後、美童はランプをテオに預け、荷物の中に手を突っ込むと、唐突に中から白いうさぎの縫いぐるみを取り出した。真っ白い布地に黒いボタンの目、鼻は薄桃色をした、本物のうさぎというよりかは、大きくデフォルメされたキャラクターのようなデザインだ。


 クールな成人男性の荷物の中から「白い」「うさぎの」「縫いぐるみ」という愛らしいアイテムが出てくるのは妙にコミカルな感じがして、思わず反応に困ってしまう。


 笑えばいいのか、「かわいいですね」と率直な感想を述べればいいのか、はたまた別のリアクションを用意するべきなのか……数ある選択肢から正解を選びかねていると、美童は至って真面目な顔で説明する。


「半径五百メートル圏内、かつ屋内での探し物に特化している。ようやくこいつが使えるところまでやってきたぞ」


 美童はぬいぐるみの耳元で「Anima=Mensアニマ メーンス」と呪文を吹き込むと、外套をたくし上げながらそっとしゃがみ込んで足元に置く。


 項垂れるようにして座りこんだぬいぐるみは、しばらくの間じっとしていたかと思うと、突如びくりと首をもたげ、覚束ない動きでゆっくりと立ち上がり、己に魂を吹き込んだ主人をつぶらなボタンの瞳で見上げる。さながら、「何なりとご命じください」といううやうやしさで。


「本を探してくれ。ファンフリート家の魔力の総集本だ」


 うさぎのぬいぐるみは耳の長い重たそうな頭でこくりと一つ頷くと、ボールが跳ねるように、正面に伸びる廊下から城の奥へ消えてゆく。


「追うよ」


「はい」


 美童はテオの肩に軽く手を添えて、早足でうさぎを追いかける。

 廊下は窓もなく、もちろん電気などは通っていないので、一寸先すらも曖昧な黒暗々が広がっている。ランプの光だけが頼りの時間がいくらも続いた。


 床の隅々まで行き渡った絨毯の中から半透明の白い手が伸びてきてテオたちの足首を掴もうとしたり、壁にかかった誰とも知れぬ肖像画の目がぎょろぎょろと動く。そんな古のホラーハウスそこのけのリアリティで、数年か、数百年ぶりかの来客に歓迎の意を示す魔に属する住人たちのお出迎えに、テオはぺこぺこ頭を下げながら進んだ。


 ……そうして、ランプの灯りの縁を跳ね回る白い塊を追いかけていると、隣を歩く美童が不意に口を開く。


「もう一度訊いてもいい?」


「はい?」


 話の脈絡が伺えず、テオは間抜けに返した。


「君は本を手に入れたら、どうしたい」


 テオは保留にしていた答えを突然に要求され、口の中で暫し沈黙を噛みしめる。

 美童にされたものと同じ問を己に課す。以外にも答えはすぐにはじき出された。たった一つ、迷いのないその答えは――


「ぼくが本を継承したいです」


 内に秘めた想いを口にするのをかたくなに躊躇ためらっていた少年は、今この瞬間に初めて嘘偽りのない本心を語った。クラレンスにも語ったことのない、暗い胸の奥底で僅かに息づいていた本心を。


          ・

          ・

          ・


高い天井に蟠る闇の中からいくつものぎらついた双眸がこちらを見下ろして、


「美童だ」

「ケルシュの美童がいる」


 という囁き声を交わす。当の美童は素知らぬ顔で先を急いでいるが、人の住む地ではあまり近くで下級の魔族を見る機会もないので、テオは物珍しさ故に視線を奪われてしまう。


 確かに敵意はないようだが、こういった下級の魔物というのは、廃れた路地裏なんかに身を潜ませて、心に隙のある人間を唆すと言われる。


 永遠の夜に抱かれた世界には、そこかしこに闇がうずくまっている。その闇を隠れ蓑にして、よからぬことを企んだ悪魔が人間を破滅へと導くのだ。心が醜いと、ベッドの下に住む悪魔がお前を暗闇に引き摺り込むぞ! ……といった具合で、マグノリアの人間は幼いころに大人たちから散々脅されて育つ。


 こうしてみると、この城は魔物や妖鬼たちにとってさぞ居心地がいいのか、廃墟とは名ばかりの大所帯だ。


 魔物たちの囁き声など歯牙にもかけない美童の、


「え、この階段を登るのか」


 という鼻白んだ声で我に返ったテオが目線を正面に戻すと、目の前に現れた螺旋階段をうさぎが跳ね上がり始めた。


 横幅が広く、渦を巻くようにして上へと続く螺旋は終わりが見えず、捻じくれて小さくなった段差はやがて闇の中へ消えていった。


 美童は階段の前で一瞬だけげんなりしたように肩を落とすと、これから始まる長い長いに意を決したように、大きく一歩踏み出す。


 ブーツの底をリズミカルに鳴らしながら、吸い込まれるような暗闇を目指して早数分。

 同じ場所を永遠に回り続ける感覚は終わりの見えぬ修行以上の何物でもない。


 できる限りの運動を避け、仕事は基本デスクワーク。苦手なものは何ですか、と訊かれれば間髪入れずに「体を動かすこと」と回答する美童は、早いうちから息を切らしはじめ、長い髪を心底鬱陶しそうに背中へ払いのける。


 同じ苦行を、僅かに上気した頬に期待の色を重ねた表情で踏破とうはするテオに、美童は若さという有限の財産が己の内から確実に失われつつあることを実感しないではいられなかった。


 いよいよ足が上がりづらくなってきたそのとき、無様を承知で休憩を申し出ようとしたところ、ついに階段の終わりが見えてきた。喉まで出かかった弱音を飲み込んで、最後の力を振り絞る。


 そうして最後の一段を上り終え、両膝に手をついて肩で息をしていると、軽く息を弾ませたテオが何かに気が付いたらしく、「あっ」と声を上げる。


 今までの苦行で強いられた疲労など屁でもないといった様子で、正面の開け放たれた一室に向かって掛け出すテオに、「待て、テオ!」と重い足を引き摺って後を追いかける。


 部屋の中には力なく横たわるぬいぐるみと、足の長い丸テーブル、そしてその上に《本》がぽつんと置いてあった。


 テオは急いた様子でぬいぐるみを拾い上げ、テーブルの上に視線を釘付けにしながら、呆然と呟く。


「あった……」


 豪華な装丁のハードカバー。分厚い頁の所々に挟まれたメモの切れ端、年季の入った栞紐。

 いつも父の書斎の机の上に置かれていた。――大陸の端くんだり足を運んで探し求めていたものが、ついに目の前に。


 早まった鼓動に急かされるように本を手に取った……その時――


「駄目だ、テオ!」


 美童の激しい声が飛んで来るや否や、場の雰囲気が一瞬にして変化した。


「え?」


 振り返った先に美童の姿はなく、今しがた登ってきた階段だけが何処から差し込んだ冷たい月明りに照らされているばかりだった。


「あ、れ……?」


 不安になってまろび出た声は虚空に漂った末に、ふっと消える。返ってくるのは鮮烈な静けさだけだ。


 テオは早まった行動に走ったことに激しい後悔を覚える。心細い胸にぬいぐるみと本を抱きしめて立ち尽くしていると、不意に廊下から人の気配がして部屋を飛び出す。


「び、びどうさん……?」


 左手側に伸びた廊下から誰かがゆっくりと歩いてくる。美童が遅れてやってきたのだと安堵しかけたが、暗がりを歩いていた足音の正体を青ざめた月光が映し出したのは、期待の人物ではなかった。


「シシシッ、よく来たな坊や。ようこそだ、俺の世界へ」

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