6話 腕時計は壊れない

 父の闘病生活は長かったのか、短かったのか、少なくとも俺にはあっという間だった。父にとっては長く辛い戦いの日々だったかもしれない。それはもう確かめようがない。始業式があった日、それに終止符が打たれたからだ。


 父の病気が発覚して、入院することになったその日まで、あの時計はずっと父の腕にあった。幼い俺の手を引くその腕にも、中学の卒業式で俺の肩を抱いたその腕にも、この時計はあった。


 頻繁に検査が行われる都合から、入院した父は時計を外してしまった。今ではそれでよかったと思っている。あの逞しかった腕が、徐々に枯れ枝のように細くなっていくのを、時計なんて付けていたら否応無く意識してしまっただろうから。


 あれは春休みのことだ。見舞いにきた俺に父は言った。


「机の引き出しに入っている時計な、悠太にやるよ」


 それは唐突だった。父はもう覚悟を決めていたのかもしれない。


「いいの? お気に入りの時計だろ」


「ああ、俺の青春の塊みたいなもんだ。だいぶ無茶もしたけど、あの時計だけは壊れなかったな」


 それは皮肉にも聞こえた。父の体は無残にも壊れ始めていたからだ。それから父は俺をベッドのそばに呼び寄せた。


「悠太も高校生だもんな。まさに青春する歳だな。たくさん遊んで、勉強しろよ。それから、誰かを好きになったりするのかもな」


「年寄りみたいなこと言うなよ、それにあんなボロい時計いらないって」


「そうか?」


「そうだよ。俺は新しいの買うから、あれは親父が付けてろよ」


 俺は絶対にあの時計をもらう気はなかった。それが父に先がないことを認めることになると思ったからだ。


「あれは悠太に付けてもらいたかったんだがな。まだ動くのに勿体無いなぁ」


 父はそれきり黙って何も言わなかった。時計の話を出したのもそれが最後だった。





 篠原は俺の話を、なんの文句も言わず、余計な言葉を挟もうともせず、黙って聞いていた。


「一週間も休んだのは、いろいろあったからだ。葬儀に、身辺整理に……本当にいろいろと」


「そう」


 篠原は冷めてしまった自分のコーヒに目を落とした。彼女は結局一度も口を付けなかった。


「まあ、よくある話だ。どこにでも転がっているつまらない話だよ」


「そうかもね」


 篠原は自分の腕に巻いた時計を見遣った。これで、もう終わりなんだろうな。今日という特別な時間もあっという間に過ぎ去って、篠原にとって俺はまた単なる教室の背景に変わってしまうはずだ。それでいい、それでよかった。青春なんてご大層なものは俺には似合わない。ちょうど彼女の白い細腕にそんなごつい時計が似合わないのと同じように。


「今日はなかなか楽しかった。じゃあな」


 俺は椅子から立ち上がって、その場から立ち去ろうとする。しかし、篠原は俺の腕を掴んでそれを引き止めた。顔を伏せていて、その表情は知れない。


「あんたは辛くないの、そんな時計付けてて」


「辛い?」


「だって、思い出すでしょう。お父さんのこと」


「親父のこと思い出すのは、別に辛くないさ。嫌な思い出ばかりじゃないからな。それに……」


 篠原は顔をあげた。どういうわけか俺を見つめる瞳が真っ赤な色に変わっている。おかしいな、これは涙を誘うような話じゃなかったんだが。


「この時計はバカみたいに頑丈でな、外したくても簡単には壊れてはくれないんだ」


 たぶん、親子の関係もまったく同じで、ダサくてもかっこ悪くても、そう簡単には壊れはしない。壊れてくれない。


「私のもおんなじ?」


 篠原は自分の時計を指して言った。


「ああ、わざと壊そうとしたって、なかなか難儀するはずだ」


「壊れないなら、使うしかないね」


 今度は篠原が立ち上がった。腕で目を拭うと、今度は晴れやかな笑顔を見せる。彼女ならきっと女優にだってなれそうだった。


「私もおんなじ時計付けるから、もうダサいなんて二度と言われなくなるよ」


「ダサいって言ったのはお前だろう」


「お前って言うな、バカ。じゃあ、また明日ね」


 また明日、篠原は確かにそう言った。ああ、そうか、俺たちは隣の席だった。これから毎日、嫌でも顔を合わせるんだ。


 もしかしたら今日の礼くらいは言えるかもしれない。

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