空色の創作ノート「空くんが泣いちゃう理由って?」

刈田狼藉

第1話:空くんの日常

 その男子生徒を見たのは、放課後のクラスの教室だった。

 教室の中には五月のさわやかな、しかし少しだけ肌寒い夕暮れの、その赤い光が静かに充満していた。

 その男子生徒は、泣いていた。

 それも激しく泣いていた。


 その生徒の名前を、僕は知っていた。

 受け持ちのクラスの、空くん、……柊木 (ひいらぎ) 空 (そら) くんだ。

 中学一年生の男子生徒で、身体は小さくて、おとなしく、体育と数学が苦手で、でも国語と社会が得意な、完全に文系の男子だ。そう、どちらかと言えば目立たない、控え目なパーソナリティーの生徒だ。


 僕は西村圭一、大学四年の教育実習生だ。

 中学高校の国語科の教員免状取得のため、二週間続く教育実習の、今日はちょうど第二週目の月曜日だった。授業の準備に追われ、寝不足で頭が少しだけ痛い。

 部活の指導、といっても科学部というほとんど遊んでるだけみたいなクラブ活動だけど、それが終わって、職員室に戻る途中だった。

 教室の前まで来て泣き声がして、不思議に思った僕は足音を忍ばせて、開いたままの教室の扉から、ゆっくりと、音がしないように、中を覗いて見たのだ。


 空くんは、教室の一番前の、一番窓際の席に座り、机にひじを突き、両手で頭を抱えて、静かに泣いていた。

 喘ぐように大きく開いた口は苦しそうに震え、切迫した呼吸がその感情の激しさを物語った。

 声を殺しながら泣いているのだが、その掠れたような声は、誰もいない教室に、静かに、しかし悲痛に響いた。


 深夜に帰宅し、遅い風呂と食事を済ませた。

 自室で明日の授業の資料に目を通し、疲れて窓の外に視線を投げると、柊木空くんの、泣いている、その横顔を思い浮かべた。

 つむった目から際限なくあふれる涙は、ちょっと驚くくらいで、それは目の端から次々と膨らんで頬を伝い、とがったあごの先から、机の上に滴り、小さな水溜りを作っていた。

 息が出来ないみたいに、大きく開かれて嗚咽に喘ぐ口元から、その唇の端から唾液が流れ落ち、僕は、……、って、ちょっと待て。

 どうしたんだ、何を考えてる?

 ヤバすぎる、早く寝よう。

 疲れてるんだ、たぶん。


 何か悩みがあるのだろうか?

 勉強のこととか、

 家庭の事情とか、

 からだの変化とか、

 友達のこととか、

 恋の悩みかも知れない、

 それともイジメに遭っているとか、……。


 勉強については、確かに体育と数学は苦手だが、悩むほどひどい成績じゃない。それに国語と社会の成績は抜群にいいというそのギャップから言って、勉強のことで悩むような、そういうタイプ子じゃないように思う。


 家庭の事情、これは教育実習生の僕なんかに分かるような話でもないが、おっとりした性格や人当たり、男の子にしてはキレイな髪、ある程度手入れされている感じの学生服、等などから、しっかりした家庭の、やさしいお母さんの存在を感じずにはいられない。


 からだの変化、これについてはちょっと、……。いや、だがしかし、第二次性徴期における特徴的な外見上の、或いはフィジカルな変化は、空くんにはまだ起こっていないように感じる。これは空くんのことを、例えば十人が見れば十人とも、同じことを言うと断言できる。何と言うか、学生服を着ていなければ、ほぼ小学生にしか見えない、そんな子供っぽい外見なのだ。背も小さいし、ほっぺたも柔らかそうだし。関係ないか……、


 友達、人間関係はどうだろう。あまり積極的に人と関わる場面は、空くんに関しては見たことは無いが、孤立しているようにも見えない。特にクラスの女子生徒からはよく声を掛けられ、何かというと構ってもらっているように見える。一部の女子生徒達からの、ある種の「人気」のようなものを感じる。


「恋の悩み」……、いちおう中学生だし、それはあるかも知れない。しかし、あんなに激しく泣かなければならないほどのレベルにまで、そこまでの悩みが深くなることは、年齢的に、まだ無いんじゃないだろうか。甘いかな、認識不足?世代間格差?


「イジメ」、よく知りもしないのに即断は禁物だが、たぶん無いし、もし多少それっぽいことがあったとしても、それと昨日泣いていたこととは、まったく関係が無いと思う。これは絶対だ。百パーセント無い。


 涙に揺れる大きな瞳を、感情の高まりに耐えかねてギュッとつむる。

 意外なくらいの量の涙が一度に、まだらに血色の浮いた白い頬を滑り落ちる。

 再び目蓋を開いた時の、うまく言えない、その憩うような、淡い瞳の色。

 机に寝かせた両腕に、柔らかそうな頬の下半分をうずめて、泣き疲れて少しぼんやりしている、そんな雰囲気。

 その瞳に宿る色彩の中に、微笑み、とまでは行かない、しかし自分の中に巻き起こっている何かを、内緒で、少しだけ楽しんでいるかのような、そんな匂いが感じられたのだ。

 イジメじゃない、そういうことじゃない。


 それから、空くんが泣いているところを、僕はたびたび目撃することになった。


 授業中、教室に吹き込んだ五月の風と一緒に、窓から二羽の蝶が舞い込んできた。

 黄色と白の蝶で、互いに向き合い、くるくると回りながら、教室の中を暫し回遊する。

 空くんは、頬杖をついて、その二羽の行方を、子供らしい好奇心で目をまあるくして追っていたが、やがて入ってきた時と同じように、風と共に、青い空に吸い込まれていくように出て行くと、その空の青さを大きな瞳いっぱいに映して、空くんはすうっと、一筋の涙を流した。

 あっ、と思った。僕は、……

 あっ、と思ったのだろう。

 空くんは慌てて頬を手のひらで拭い、白い指で目のまわりをゴシゴシと強くこすった。


 空くんがよく泣いちゃうことは、クラスでも結構有名な、周知の事実であるらしく、僕が担当する国語の授業の前、休み時間に、クラスの女の子数人が空くんの席までやってきて、机の上に水色の、大きなタオルを置いた。

「なに?」

 小さな声で、空くんが女の子たちに訊く。

「空、また泣いちゃうじゃん、持ってたほうがいいよ、っていうか、自分で用意しなよ」

 ちょっと元気のいい女の子が言う。

「なんで?」

 女子に話しかけられた男子、というよりは、お姉さんに話しかけられた小さな弟、といった雰囲気で、透きとおる瞳を向け、首を横に傾げながら空くんが訊き返す。

 すると、赤いふちの、大きな眼鏡をかけた、背の小さな女の子、雪野こずえちゃんが、

「次の、西村せんせえの授業、小説なんだけど、すごく、かなしいお話だから、……」

 そう言っているこずえちゃんが、すでに半分泣きそうな顔になっている。

 僕は驚いた。

 何にって?

 まず、極度の泣き虫である空くんのために、クラスの有志の女の子達が授業の内容を、いつもかどうかは知らないが、事前に調べていて、なおかつタオルまで用意する、という点。

(思わず笑みがこみ上げてくる。だって、可愛すぎ!あまりにも)

 それから、僕が授業で扱おうとしている教材が、「夏の葬列」という、太平洋戦争末期が舞台となっている、とても悲しい出来事を描いた物語であると知っている点だった。この中で、それを知っていたのは、きっと雪野さんなんだろう。内容を知らなければ、半泣きになんかならない。


「夏の葬列」の授業中、最初の作品の朗読の後の、その後の授業時間のほとんどを、水色のタオルの上に突っ伏して、まったく声を出さずに、微動だにせず泣く空くんの様子を見ながら、さすがに、

 おかしな子だな、……

 とは思いつつ、しかし僕は一つの決意をした。

 なんでこんなにもすぐに泣いてしまうほど感情が敏感なのか?

 それに昨日、そもそも放課後の教室で一人で泣いていた理由は何なのか?

 僕なりに、追及してみようと思ったのだ。


 涙に濡れた目のまわりを赤く染め、机に寝かせた腕の、その白い袖に表情を隠しながら、何か、微かに楽しんでいるような、或いは、何かに酔って、少しうっとりしているような、あの瞳の色の意味を、知りたかった。


「藤沢さん、ちょっといい?」

 職員室で、同じく教育実習生の、藤沢香奈枝 (かなえ) 先生に、僕は声を掛けた。雪野こずえちゃんの所属するクラブ活動「文芸部」を受け持っているからだった。

 藤沢香奈枝先生は、英語科なのだが、実は村上春樹の大ファンで、その影響から海外文学作品の翻訳に興味を持ち、大学の英文科に進んだという変り種だ。なので、文学部文学科日本文学専攻で、太宰治で卒論を書く予定の僕とは何となく話が合い、顔を合わせると「ダブル村上」について、短くではあるが意見の交換をしたりした。

 長い髪を、頭の後ろで可愛く結び、眼鏡をかけた容貌は知性的なイメージで、しかも全体としては細くてスレンダーな印象なのに、胸はやや大きめで、彼女のいない僕としてはドキドキしてしまう訳だが、しかし今の僕の関心の中心は、涙に暮れる少年、十二歳の空くんにあった。……って、書いてみて自分でビックリした、ガチでヤバイ。


「そうなんだ、柊木くんが、泣いてたの、……」

 今日の授業の前の、雪野こずえちゃんのエピソードをから語り起し、昨日の放課後、空くんが教室で泣いていた、というところまで言及した。

「泣き虫っていうのはクラブの子達から聞いてたけど、でも私もまだ一週間しか、……」

「えっ、クラブの子達、って?」

 不審に思って訊き返した。

「柊木くん、文芸部だよ、知らなかった?」

 意外な真実、……でもないか。

 あまりしゃべらず、いつも小さく口を閉じ、思いを胸の中に宿し、或いは瞳の中に映している、そんな感じの空くんにぴったりのクラブ活動に思えた。

「柊木くんが、ひとりで、確かに気になるね、……」

 あれ?

 ちょっと意外な反応だった。


 ――泣いてる理由なんて、どうして知りたいの?

 ――受け持ちのクラスの生徒だし、……

 ――担任の先生に報告したほうがいいんじゃない?それとも西村くん、ヤダ、ひょっとして、空くんのことが気になる、……とか?


 みたいな、うんざりするようなオカシナやり取りを想定していたのだ。


「悩んでるのかな?柊木くんに直接訊いて見ようか?……やっぱりダメかな?」

 しかし、藤沢かなえ先生は、僕のほうは一切見ずに、下を向いたまま自問した。

 思いつめたような影が、その表情に懸かる。

 そして頬には微かに血色が差し、眼鏡の向こう側の瞳が、薄い涙のヴェールに揺れている。

 あれあれ?

 暫時あって、僕は理解した。

 ミもフタも無いが、もう言ってしまう。

 空くんのことを「」気にしているのは、かなえ先生本人、つまり、

 かなえ先生は「ショタっ子好き」なのだ。断言できる。

 そしてことによると、この僕も、……


 かなえ先生とは、その日はそのまま別れた。

 お互いに睡眠時間もまともに取れないほど忙しかったし、それに僕たちは空くんのことを、あまりにも知らなさ過ぎた。

 彼が文芸部員なら、とりあえずはその作品を読むべきだ、という判断となり、しかし、まだ新入生である空くんの作品のストックが、五月十四日現在、恐らくは部室を家捜し(おーい!!)しても出てくるはずもなく、クラス担任(実習生だけど……)と部活顧問(実習生だけど……)という互いの立場を利用して(……え?)、何か知り得る情報があれば互いにリークし合う(職業倫理上の問題とかは?!)ことを約束して別れたのだ。

(括弧内は、今、すべてが済んで冷静になってこれを書いている僕の感想です)


 深夜、自室にて机に向う。

 明日の授業で使う配布資料(プリント)を作り直す必要が生じた為だった。

 詳細はあえて書かないが、自分の考えを何でも自由に書ける論文や批評文と違って、いろんな成長来歴や生活背景を持つ生徒一人ひとりに対して公的な教育者として配慮しなければならない「授業」というものの難しさを、少しだけ思い知った。

 キーボードを打つ手を休め、ひじを突いて痛む頭を両手で抱え、欠伸ともため息ともつかない呼吸いきを大きくひとつ吐く。

 疲れた目を閉じ、ポケットに入ったスマートフォンを手探りで捜し、引き出しからイヤホンを取り出してコネクターを挿すと、眠くてぼやける視界の中で音楽プレイヤーを立ち上げ、再び目を瞑る。


 ――スティングの「シェイプ・オブ・マイ・ハート」


 スリーフィンガー・ピッキングの、あの有名なフレーズが、そしてクラシック・ギターの物悲しい音色が、イヤホンから頭の中に流れ込んでくる。

 僕は音楽には、実はあまり興味がない。

 いつからか、音楽は僕にとって、BGM以上の何物でもなくなったいた。

 この「シェイプ・オブ・マイ・ハート」にしても、有名で印象的な映画音楽、という以上の評価は持ち合わせていない。


 感傷的で、とびきり美しいメロディーを、三十代だろうか、もうそんなに若くは無い男性が、掠れた声で、ボソボソと呟く、そんなイメージ。


 しかし楽曲の後半に差し掛かり、転調してハーモニカの独奏が甲高く鳴り響くと、ボソボソ呟いていたイメージは一変し、細くて高い、悲しい泣き声のイメージになった。

 胸が揺さぶられる、と表現すべきなのか、胸の内側が震えるような感覚がした。

 泣きそうになっていた。

 疲れた身体と、少々ヘコんだ心に、音楽が、なんだかヤケに響いた。というか応えた。

 そして、ハーモニカ・ソロが終わり、最初のキーの、元のメロディーに戻った時、僕は気付いた。


 ……男は、最初から泣いていたんだ、と。


 もう我慢できなかった。

 すべてが胸に迫ってきて、耐えられそうになかった。

 椅子の背にもたれ掛かり、顔を上に向け、手の甲を目の上に当てて、僕は泣いた。

 顎を上げ、唇をかみ締めて、こみ上げてくる嗚咽を噛み殺した。

 苦しい、そう思った。

 苦しい、そう声に出して、泣き叫びたかった。

 涙が、目尻から耳の横を流れて首筋を濡らした。


 発作が収まるように嗚咽が引いて行き、冷静になると、少しすっきりとした意識の中で、

 ……空くんが泣く時も、こういうふうなんだろうか?

 と考えた。

 パソコンに視線を戻し、キーボードを叩く。


「柊木 空 小説」そして、「検索」――























































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