第29話 日本国特区ガンジス諸島、港湾部

「さなちゃん、あれはお祭り?」

 港に近づくと、空港よりも活気が出てくる。それもそのはずで、チャーター便以外は海面効果翼機の限られた便数しか小規模なガンジス空港には、店が手荷物検査場を抜けた先にある小さな喫茶店兼土産屋しかない。ガンジス諸島では船便が主な交通・輸送手段であれば、港のほうが大規模になり、人の出入りも多くなる。


 勇凪がヨットの停泊のためにいつも利用している区画は港の西側だ。本土からの大型船が入ってくるような場所ではなく、地元の漁船や島巡り観光用のフェリー、その他島民の船が泊まっているような場所なので、港の中でもっとも人が多い。人の出入りが多いと取引の場が形成され、しぜんと店が立つようになる。店の種類は種々様々で、観光客向けの出店もあるが、その日に海で採れたものを売っていたりもする。それらを見て、アオラニは祭りだと思ったらしい。

 実際のところ、港湾広場では椅子を組み合わせてその上に登ってさらにジャグリングをやったり、音楽会が開かれていたり、空手の演武をやっていたりといった出し物をしている者もいるくらいなので、祭りだと思えば楽しめる程度に娯楽がある。


 そう説明してやると、「さなちゃん、寄っていきたくないですか?」と来る。

 寄っていくも何も通り道なのだが「あんまり離れないように」という条件付きで承諾する。

 店に近づくと、予想通りアオラはきょろきょろちょろちょろとし始めた。視線が一箇所に定まっておらずいろんな方向に行こうとするうえ、観光シーズンも手伝って人が多いので、逸れる前に手を繋ぐ。それでもアオラは構わずぐいぐいと進もうとするので、こうなると犬の散歩に近い。中型犬くらいの体重はある。

 魚、フルーツ、衣装、家電、細工物。出店で何か見かけないものを見るたびに、質問責めにされる。幼いとき、レイラニを連れて港に来たときもこんなふうだったと思い出す。


「さなちゃん、これ、これ」

 と出店のひとつの前でアオラがしゃがみこむ。日陰を作った茣蓙の上に雑多な品を並べただけの店で、並べてあるものを見る限りでは土産物屋のようだ。レイラニが指差しているのは、その中のひとつだった。

「これって、ブーメランでしょ? ママの遺品の中にもあったよ」

 アオラが二歳になるまえに、レイラニは死んだ。物心つく以前だ。きっと母親のことは覚えてはいまい。

 それでもアオラは完全に母親のことを知らないわけではないし、母親と完全に関係が断たれたわけではない。遺品がある。写真がある。でなくても、アオラは容姿がレイラニに似ている。父の八尾が言わないとしても、祖父母や周囲の人間が言うかもしれない。


 アオラは母親のことをどう思っているのだろう。


 いや、違う。


 勇凪が気になっているのはそんなことではない。アオラが勇凪のことを、母親の死の原因になっている男のことをどう思っているか、ということだ。レイラニが事故に遭ったのは、勇凪のところに見舞いにいく途中だったということは知っているのだろうか。


「さなちゃん、これってほんとにちゃんと戻ってくるの?」

 アオラの声で、現実に引き戻される。

 手にとっている木製のブーメランにはきちんと反りが入っていて、おそらくは戻ってくるだろうと思わせるだけの見た目だった。少なくともそういった努力はするだろう。表面には黒で動物の外形が、白と臙脂色と蒲公英色で模様が描かれている。動物は、鳥だろうか。

「戻ってくるよ、よく飛ぶよ」

 と茣蓙の上に座っていた店主らしき男が言ったが、アオラは怖がってか、すぐさま立ち上がってさっと勇凪の後ろに隠れてしまった。奔放な性格のわりに、人見知りだ。

 改めて店主の男に向き直る。相手が座っているため、見下ろす格好になる。老人だ。日焼けした肌に、真っ白の髪。約三十年前にも、似たような風体の人物からブーメランを買ったような覚えがある。まさか当人ではないだろうが、顔までは覚えていないため、断言はできない。


「いくらですか」

「千円、いや、百円」

 値段を聞いて、アオラが後ろから勇凪のアロハシャツの裾を引っ張った。買ってという意味か、いらないということか、はたまたもっと値切れるのではないかという提案か。

 どれかわからなかったが、勇凪はブーメランを買った。

 老人の出店を離れると、アオラはようやく背後から横に回ってくれた。ブーメランを渡してやると、嬉しそうに素振りをした。

「人がいるところで投げないでね。最初はひとりでも投げないように」

「大丈夫」

 何が大丈夫なのかはよくわからないが、この人混みの中で急に投げ出したりすることはなさそうだ。


「さなちゃん、そこのラーメン食べたくないですか?」

 次にブーメランを持ったアオラが近づいていったのは、屋台形式の食事処だった。昼餉時であり、人の多い港であれば、屋根もなく酒用ケースを積んだだけのテーブルにパイプ椅子という客席は埋まっていた。

「食べたいの?」

「さなちゃん、食べたくないですか?」

 自分から欲求を言いにくいのか、アオラは相手の意思を誘導しようとするかたちでお願いをすることが多い。あるいはそれは謙虚ということなのかもしれない。

「食べると、お昼食べられなくなるよ」

「ここでお昼にすればいいよ。ぼくも釣りするから、午後も魚採れるし。いっぱい釣れるし」

 実際のところ、午前中に釣った魚は生簀に入れてあるので、夕餉にしても問題はない。あまり我儘を聞いてしまうのもいかがなものかと思ったが、たまに会う親戚の伯父であれば、多少は甘くするのが正しい姿というものだろう。


 ちょうど席が空いたので注文をする。アオラは「ラーメン、ラーメン」と言っていたが、屋台の札にかかっているメニューを見る限り、ベトナム料理屋だった。ラーメンではなく、フォーだ。フォーと揚げ春巻きを注文すると、すぐに料理が出て来る。

「うどんみたいだね」

 席に着いて手を合わせたアオラが、フォーの平たい麺を箸で持ち上げてしげしげと眺める。

「フォーね」

「なにが?」

 アオラは左手の指を四本立てる。

「これ、ラーメンじゃなくて」

「じゃなくて、フォー?」

「そう」

「ふぅん………何が違うの?」

「小麦粉の麺じゃなくて、米粉麺」

「こめこめん」

 麺を啜りだすと、料理名などどうでもよくなる。日除けがないので、熱い。暑い。ガンジスの気候に慣れた勇凪でも、汗がだらだらと出てくる。


 アオラは屋台の味が気に入ったようだ。揚げ春巻きも。勇凪はといえば、入院していたときのことをふと思い出した。絶食していたときにテレビのインスタントのカップヌードルのコマーシャルでフォーが出ていたことがあったからだ。点滴のみの栄養補給が続いていたあのときは、心身ともに痛んでいて、これ以上の苦痛などありえないと思っていた。あのときは。

「そういえば、お父さんからの手紙は?」

 麺を啜っていたアオラニに問いかけると、手を止めて鞄を探った。

「はい」

 差し出された簡素な茶封筒の表には『星見勇凪さまへ』とだけある。裏は八尾の署名と封書の印だけ。勇凪は箸を置き、封を開けた。中身は装飾のない、罫線が入っただけの便箋が一枚だけ。手書きだ。一度ざっと目を通してから頭から読み直す。さらにもう一度再読してから、勇凪は胸ポケットに入れていた便箋とボールペンで返事を書き始めた。終わってから畳み直し、ポケットに仕舞う。


 食事を終えてから、満足したアオラを連れてヨットまで戻り、家の方向へ舵をとる。午後は観光に当てても良かったが、海を渡ってやってきたアオラが港ではしゃいだのも手伝って疲弊したようなので、一度休ませることにしたのだ。

「さなちゃん、お父さんからの手紙はなんて書いてあったの?」

 ヨットの後ろからの質問に対する返答は明瞭だ。アオラのことが書いてあっただけだ。すなわち、ここ一年は特に病気も怪我もなく健康であったことと、ガンジス諸島に滞在する数日の間よろしく頼むということ、それだけだ。

「それだけ?」

 それだけだ。

「そのくらいのこと、電話で話せばいいのに。あんまり書いている内容もないし、返事もすぐに書いちゃうし。お父さんとさなちゃんって変だよね」

 電話で話していないわけではない。アオラが来る前に、日取りや予定などは話している。ただ、それ以上のことは話さない。八尾と話しにくいというよりは、そういう習慣になっているというだけだ。

 八尾が恨みをぶつけてようとしてくるわけではない。勇凪のせいだと詰ろうとしているわけではない。

 それでも、直接会話をしようとすると、冷静ではいられない。お互いに、それは知っている。経験で。


 溢れ出るものを抑えることはできないが、そうならないように事前に対策することはできる。それが手紙だ。直接会話をするわけではないから、頭を冷やして言葉を紡げる。アオラは「すぐに返事を書いてしまう」というが、現時点で書いている返答はメモ書きのようなものだ。手紙の良いところは出すまでの間、いくらでも書き直しがきくということだ。手紙を出すまでの間、何度も書き直す。

 勇凪は失敗した。何もかも。勇凪が事故で怪我なんてしていなければ、レイラにはレイラニは死んではいなかった。今でもそう思っている。

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