第19話 チェコ共和国プラハ、ヴァーツラフ・ハヴェル・プラハ国際空港

「さなちゃん!」

 北極基地での活動を終えた翌日。チェコ、プラハ国際空港のロビーで聞こえてきた声に、勇凪は大きな溜め息を吐いた。


 事前にフライトを確認しておいたから、空港で待っている間にレイラニが無事に日本からの飛行機に搭乗できたことは確認できていた。チェックインはきちんとできるだろうか、荷物を預ける場所はわかるだろうか、持ち込み禁止なものは理解しているだろうか、搭乗手続きは理解しているだろうかと不安ばかりだった勇凪だったが、レイラニは何事もなくすべてをこなしてしまった。こなさないでくれたほうがありがたかった。なにせ、飛行機の搭乗に失敗してくれればレイラニという重荷を抱えなくていいからだ。初めての外国に好奇心と不安で胸を膨らませているレイラニに付き合う必要がなくなるからだ。

 だがレイラニは来てしまった——ロビーの長椅子から立ち上がって声の方向を振り向いた勇凪はしかし、プラハで想定した苦労が頭から吹っ飛ぶのを感じた。


 プラハが東京よりも寒いということで、レイラニはコートを新調していたが、それ以外の点は、深く長い黒髪も、海のような碧い目も、後遺症のために引きずる足もそのままだった。手で杖をつき、もう片方の手は一週間という滞在期間に対して十分な大きさのスーツケースを引きずっていた。つまり、いつものレイラニだ。服装や持ち物は少々違っていても、外見は変わらない。

 違うのはその行為だ。


「あれがさなちゃんですよ、わたしのおにいちゃんです」

 子どもの頃、レイラニは勇凪を見つけると跳びついてきた——片足が悪くて跳べも走れもしないから、実際は早足程度がせいぜいで、たいていは転んでしまうのだけれど。成長してからは、さすがに転ぶことはなくなったが、見つけると寄ってくるのは変わらない。たとえそれまで喧嘩をしていても、それを忘れたように寄ってきて微笑みかける。

 だがいま、その微笑みが向けられている相手は勇凪ではなかった。


「ん? あれ……」

 という呟きは、レイラニに合わせて歩く男から発せられたものだった。声を聞かずとも黒髪に顔立ちを見れば日本人とわかる眼鏡の男だ。黒髪にやや白髪が混じってはいるが、そう年老いているようには見えない。

「たぶん久しぶりだと思うんだけど………」

 と、相対した男が発する言葉と眼鏡、そして白髪を見て、勇凪はその男を思い出した。

「えっと、AGUで……」

「ああ、そうそう」と男は笑顔になった。「同じホテルに泊まってたよね」


 よくもまぁ、何年も前に一度だけ会った男のことを覚えているものだ、と勇凪は嘆息せずにはいられなかった。一昨年の十二月、まだ学生だった頃にアメリカ、サンフランシスコの学会に行ったときにホテルの朝食会場で出会った男だ。たしか、筑波かどこかの研究員だと言っていたか。

 それで、その研究員がなぜレイラニと一緒にいるのか。

八尾やおさんにね、空港でどこに行けばいいのかわからなかったときに助けてもらったの。あと、飛行機の中だとかでも、いろいろ」

 と問うまえにレイラニが説明してきた。

「お友だちだったの? えっと、さなちゃんと同じで、研究者のひとなんだって。学会に行くって言ってたから、さなちゃんと同じだと思うんだけど………」

 お友だちというほどに親しくはないどころか、八尾という名前さえ知らなかった間柄である。勇凪も名乗り、現在の所属も説明した。


「まえはD2(博士課程の二年)だって言ってたっけ。三年で卒業して研究所なら順調だね」

 という見下すような物言いが、勇凪には気に入らなかった。

「三年で卒業して」というのは三年で博士課程を修了できない博士学生が多いことからの言い方だろう。たとえば日本最高学府であるT大の一部の研究室では基本的に三年で修了できないと聞く。学生が不出来なのではなく、審査が厳しいのだ。勇凪は三年で博士号を取ったが、それは逆にハードルが低かったためではなかろうかという気もする。


 空港からプラハ市街までは同じ地下鉄を乗り継ぎ、市街で別れる。勇凪とレイラニが宿泊するホテルは地下鉄駅から出てすぐのところだった。

「さなちゃん、明日から暇?」

 とホテル内で別れるまえに、屈託なくレイラニが尋ねてきた。

 暇といえば暇だ。北極基地から直接プラハに来たため、学会開催期間から少し余裕ができてしまった。明日一日は何も予定がない日で、おかげでその日は出張手当もつかなかったりするのだが、何もすることがない手持ち無沙汰な時間ではなく、自由な余暇というものは基地帰りの勇凪にはありがたかった。何もなければ、喫茶店で珈琲でも飲みながらゆっくりしよう、などと考えていた——もちろんレイラニがいればそれは達成できないのはわかっていたが。


「いや、大丈夫——」

「さなちゃん、もしかして疲れてる?」

 首を傾げられて、勇凪は言葉に詰まった。疲れているか、と問われれば疲れているが、べつだん肉体的にはそこまで疲労しているわけではない。夜に観測装置や物資の片付け・梱包作業などはあったものの、多少腕が疲れたくらいであり、昼間は暇だったからだ。精神的には疲弊はしていたが。

「もし休みたいんだったら、休んでてもいいよ。学会もあるんだし」

「でも、レイラニひとりじゃ危ないだろう?」

 ここはガンジスでも東京でもないのだ。外国だから危ない、というよりは、彼女の訪れたことのない見知らぬ場所であれば迷子になることを心配していた。方向音痴はマップナビゲーションではどうにもならない。

「ううん、大丈夫だよ。八尾さんが案内してくれるって言ってたから」

 は、と問い返したのを勇凪は覚えている。


 翌日である。待ち合わせをしたという時間、勇凪たちが泊まっているホテルに八尾は時間に違わずやってきた。彼がロビーの入り口に見えると、レイラニは杖をついて早足に歩み寄っていく。

「おはよう」

 と八尾はレイラニの次に勇凪に向けて手を挙げた。

「レイラニさんと一緒にその辺回ってくるけど、一緒に来る?」

「いや……」

 否定の言葉が口をついて出て来た。

「さなちゃんは昨日まで北極にいたので、今日はお休みだそうです」

「それはおつかれさま。北極ね。基地はラベンとかいうんだっけ? ぼくは行ったことはないなぁ」

 と八尾が言うのを聞いて、少なくともこいつの行ったことのない場所に自分は行ったことがあるのだな、とどうでも良いことを考えてしまった。なんの優位性にもなっていない。


「えっと、レイラニのことは大丈夫ですか?」

「まぁプラハには一回来たことがあるから、いちおう交通機関とかは大丈夫だと思うけど……」

 となぜか煮え切らない態度の八尾に「よろしくお願いしますね」とレイラニが深々と頭を下げた。

 そのまま出かけていくのかと思いきや、レイラニはトイレに行っておきたいというのでその場を離れた。レイラニがいなくなると八尾とふたりだけになるわけで、この年上で同じ研究者で相応に実績があるはずなのにどこか人懐こいこの男とその場凌ぎの会話をしなければならないと思うと気が重いな、などと思っていた勇凪であったが、向こうから声をかけてきた。


「星見くん、きみ、妹さんのことは心配じゃないの?」

「は?」

 声を発してから、目上の人物に対してこの物言いはいささか失礼ではなかろうかと自分の返答に思わないではなかったが、しかしこの場合は相手のほうがよくわからないことを言っているので問題はなかろう、と結論づける。

「いや、昨日知り合ったばかりの男と妹さんが一緒に出かけるんだよ?」

「はぁ」

「心配じゃないの?」

「二年前に一度会いましたが」

「いやでも、素性は知れないだろうに」

「昨日の夜に調べて、ちゃんと間違ったことは言ってないということは確かめましたよ」

 八尾の身元がしっかりしているというのは彼の所属している研究所のウェブページで確かめた。研究者というのは性格に難がある人間が多いように思われがちだが、基本的にどの職種でも難がある人間はいるし、そうではない者もいる。実際どうなのかは、触れてみないとわからないが。


「そりゃ、素性を偽ってはいないってだけで……」

 八尾の言葉は、いまいち煮え切らない。何が言いたいのか。

 そうこうしているうちにレイラニが戻って来た。何を話していたんですか、などと無邪気に訊いてくる。

「いや………」

 と八尾は何か言おうとして、少し逡巡する素振りを見せ、それから言った。

「レイラニさんとふたりきりだと緊張するので、星見くんも一緒に来てはどうかと思って、誘っていました」

 本音を言われてしまうと、なるほどと納得してしまうと同時にどうしてやろうかと悩んでしまった。レイラニはくすくすと笑っているが、勇凪は笑う気にはならない。八尾が真面目なのがわかるからだ。


 結局勇凪は、そのままロビーで出かけていくふたりの背中を見送った。そして少し時間を空けてから勇凪もホテルの外に出た。街をぶらつき、喫茶店に入りながらふたりのことを考えた。

 いろいろと考え事をしていたせいか、後日の学会発表は散々だった。帰路の飛行機で、勇凪はだいたいの時間を眠って過ごした。

 レイラニが八尾と結婚したのは、その半年後のことだった。

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