第15話 日本国内地、東京海面効果翼機発着場

 年末年始ということで手続きは遅れに遅れたが、かつてレイラニの担当医であり母の友人であった衣笠医師が手伝ってくれたこともあり、母の死亡後のレイラニの手に余っていた各種手続きは帰省している間に済ませることができた。

 一月初週のうちに勇凪はガンジスから本土へと戻っていた。ガンジス千葉間の定期便を出している東京海面効果翼機発着場に降り立った勇凪の手には手荷物だけで、同行者はいない。


「少し、考えさせて。漁協のお仕事もあるし……そう簡単には決められないから」

 一緒に暮らさないか、という勇凪の申し出に対するレイラニの返答は、やや否定的なものであった。

 昔なら、一も二も無く飛びついてきただろう。文字通り、勇凪の身体に抱き付いて。

 今も本質的にはそれは変わらないにしげも、少し落ち着いた。理性的になった。何より、自分の仕事ができた。

 勇凪とは違う。


 あるいは己のほうがガンジスに住むと言うべきだっただろうか、と発着場からのシャトルバスに乗り込んで窓の外の海面を眺めながら思い返す。

(そもそも、特に考えての提案ではなかった)

 勇凪がガンジスに行くとか、レイラニが本土に来るだとか、そういったことを特に決定せずに「一緒に暮らそう」と言ったのだが、レイラニは己が本土に行くものだと、つまり勇凪のほうから自分の家に来いと言っているのだと解釈したのだ。彼女は勇凪が研究者になるために必死で努力しており、それはいまの大学に在籍していなければならないと考えているのだから、当然だろう。


 はたして実際のところはどうだろうか、と考えてみると、物理的に大学に所在していることは確かにメリットがある。わかりやすいところだと、教授ら指導教員と会話がしやすいだとか、計算機が使えるだとかだが、もう少し判り難いところだと、たとえば電子ジャーナルの利用がある。

 学術論文は雑誌に投稿されて掲載される。現在でも紙媒体で印刷を行っている雑誌はあるが、それは記念品のようなものか、でなければ電子媒体の長期保存性の低さを考慮に入れて図書館に保存しておくためのものだ。殆どは電子媒体で、となればネット環境さえあればどこにいても容易にダウンロードできる、と考えることができそうだが、実際はそうではない。論文が雑誌に掲載されるものである以上、雑誌を購読しなければいけない。

 大学の場合だと、論文を纏めてダウンロード可能にしている会社から権利を買い取ることで、学内サーバーを経由すれば自由に論文がダウンロードできる。だが外部からは無理だ。例外はあまり認められないだろう。

 そう、論文だ。


 勇凪はバスの窓を指で叩いた。

 学生にとって、研究者にとって、論文ほど重要なものはない。論文を投稿し、受理されれば、それが経歴になる。職歴と同じくらい、いや、それよりももっと重要な経歴だ。

 もちろんただ書いて掲載されれば良いというわけではない。同じ一本の論文でも、重みが違う。論文の評価はおおむね掲載紙と引用数によって評価される。つまり、良い雑誌に載っていればそれだけで評価されるし、その論文が他の研究者によって引用されればやはり評価は上がる。

 勇凪はこれまでに二本論文を書いているが、どちらもそう評価が高い雑誌ではないし、引用も聞いたことが無い。つまり、論文を出してはいるものの、評価されてはいないということだ。

(やはり向いていなかっただろうか)

 手を頭の後ろに回して枕を作り、椅子に深く腰掛ける。


 勇凪は現在博士課程の二年生。留年したわけでもないのに、既に大学に八年近く在籍している。研究者という道。踏み外すことは容易で、しかし踏み外した先には何も無い道を勇凪は進んでいる。だがそれは間違いだったかもしれない。

 いまならまだ引き返せる。

 そんな文言が頭を掠める。だがそれが事実かどうかさえも怪しい。


(ぼくは普通の仕事で働けるんだろうか?)

 普通の仕事、という言い方で簡単に括れるものではないが、研究者以外の仕事に就けるだろうか? 大学の学部時代四年間は喫茶店で、修士の二年間は新聞の天気欄を作るアルバイトをしたことがある。どちらも相応に経験になり、楽しかった。が、それはあくまで責任の無いアルバイトとしての立場だ。定職ではなかった。定職なら、ああも続いただろうか?

 たとえばこのシャトルバスの運転手はどうだろうか。

 朝は何時頃出勤するのだろう? 時刻表では、確か八時台が最初だ。ということは遅くとも七時台に出勤していなければ間に合うまい。通勤時間を考慮すれば、いまより少し早起きする必要があるだろう。基本業務は運転だろうが、運転の腕前はどれくらい要するのだろうか。シャトルバスの運転は通常車と比べて大変だろうか。

 いや、そんなことはどうでもいい。


「ありがとうございました」

 シャトルバスを降りる際に声をかけられた。振り返ろうとしたときには既にバスの昇降口を降りようとしていて、後ろの客が降りようとしていたために運転手の顔は見えなかった。

 発着場から駅へ。駅から発着場へ。毎日同じ時間に同じ道を通っている。規則正しく。自分はそうなれただろうか?


 電車を乗り継いで大学の近くの駅まで戻ると、勇凪は駅から自宅アパートへと戻らず、大学へと向かった。平日ではあるものの、未だ冬季休業中であったが、理学棟三階の三部屋割り当てられた研究室には明かりが灯っていた。 

「おつかれさまです。あ、明けましておめでとうございます」

 鍵の開いている研究室に入れば、敬礼のように手を立てて来たものがあった。勇凪の所属する研究室の後輩、檜森ひもりだった。コーヒーカップを片手に持ったその姿は、珍しくパンツスーツの出でたちで、いつものラフな服装とはまるきり違っていたため、新鮮ではあった。

「就活?」

「まだ冬休みだってのに、厭になっちゃいますよね。昼間に企業説明会があって、いまちょうど戻ってきたんです。いやぁ、面倒臭いですね、就活。この制度、いつになったら改善されるんだろ。ほんともうね、『本日は貴重なお時間を割いていただきありがとうございました』とか言うんですよ。大学名とか名乗っちゃうんですよ。最初に人事のひとが、大学名とか言わなくていいですよ、って言っているのに」


 檜森は口がよく回るうえ、表情がよく変わるので、他愛も無い話でも聞いているのは心地良い。口を動かしながらも手は休まず、飲みますか、とコーヒーの入ったポットを差し出してくる。

「星見さんは、いまさっき実家から帰ってきたってかんじですか?」

「いまさっき、そのまま駅から直で来た」

 勇凪は己の机の上に置きっぱなしにしていたコップを手に取った。黒いのは茶渋というか、コーヒーの渋だが、珈琲が残った状態で前年末から正月明けまでの間ずっと使われていなかったため、底に塊が残り、ひびが走っていた。念入りに洗って汚れを落とす。


「あ、そうなんですか? 荷物少ないっすね。男の子は」檜森はポットから勇凪のコップにコーヒーを注ぎ、空いた手で丸を作った。「あ、これは? これ」

「なに、丸? お金?」

「お土産ですよ、お土産。お金でもいいですけど」

「なんでお土産が丸なの?」

「饅頭とか。星見さん、実家ってガンジス島なんですよね? お土産って何があるんですか?」

「いや……魚?」

「干物ですか」

「いや、土産はガンジスでは買ってないよ。駅で萩の月は買ってきたけど」

「おぉ、良いですね!」

 檜森は研究室のお茶飲み用の楕円テーブルをぱんぱんと叩いた。開けろということらしい。


 コーヒーと菓子で急造のお茶会となった。研究室では珍しくない光景だ。檜森は菓子の数を数えながら「全て消してしまえばこの萩の月の存在は他の誰にも気づかれないままですよね」などと言っている。

「おれがお土産買ったっていう事実も気付かれないままになっちゃうんだけど」

「でも半分食べられますよ?」

 と言いながらも二つだけ取り分け、残りを仕舞うのだから言葉が浮ついているだけで律儀な娘である。


「星見さん、帰省は久しぶりなんでしたっけ?」

「久しぶりに帰って油断したから、風邪ひいたよ。三日くらいずっと寝込んでた。ここ何年も風邪なんて引いてなかったんだけど」

「あぁ……そういうのってありますよね。家族が居ると思うと、緊張の糸が切れちゃうんですよね。まぁ、いいじゃないですか。たまに帰ったときくらい、看病させてあげると親御さんも喜ぶんじゃないですか」

 母が死んだということは後輩には言っていない。知っているのは教授くらいなもので、勇凪が帰省前に伝えた。言わないでくれ、とは言ってないが、広めてくれとも頼んではいない。どちらにせよ伝えたのはアメリカから帰ってきたばかりの年末時期であり、現在はまだ年始だ。檜森が聞く機会も無かっただろう。


「檜森さんは、就職できそうなの?」

 と勇凪は話題を変えた。

「なかなかにデリケートな話題をぶっこんできますね……。まだわかりませんよぉ」

「ドクターに進めば?」

 勇凪が言うと、檜森は手に持っていたカップをテーブルの上に置き、それから大仰な仕草で顔の前で手を振った。無言で。

「あ、そう」

「いやぁ……だって大変そうじゃないですか」

「優秀だったら大変じゃないよ」

「じゃあ絶望的ですね。大人しく就職しますわ」

 などと言うが、彼女は優秀だ。勇凪よりよほど。


「希望職種とかあるの?」

「いやまぁ、無いんですけどね……。この歳になってようやく理解したんですけど、工学部って引く手数多じゃないですか。教授が話付けてくれて、飲み会出れば就職決まるって話もあるし。で、理学部にしても、生物とか化学は、そういう化学系のところで需要があるし、物理もコンピュータとか扱うところで使えるし、数学だって銀行とか経済関係とかで活かせますよね? 地球物理ってなんも役に立たないんですけど、どうすればいいですかね?」

「理論物理も役に立たないと思う。あと地学」

「地学は測量とかそっち方面で需要があるんじゃないですか? ってことは、理論物理と地球物理だけが理学部のお荷物か」

「理論物理の基礎研究は工学系に応用されるから役立たないでもないと思う」

「あっ、天文も駄目ですよね。アレ、金食い虫で何の役にも立たないし。へっへっへ、仲間がいたぜ」

「天文は役に立たないのが当たり前だからなぁ……国から金が出る事業だし、わりと人気あるよ。なんか感動するし。前に企業説明会で惑星探査衛星の関連企業がムービー流してたけど、ぜんぜん関係無い分野なのに拍手したくなった」

「敵のことは褒めないでください……。地球物理はどこに就職先があるんですかね?」

「多いのはSIerとか。システムエンジニアね」

「コンピュータと睨めっこするのは研究だけで勘弁ですわ………」


 白衣を着てフラスコを振り、中の薬剤を爆発させて髪の毛がアフロになるだけが研究ではない。勇凪たちの研究分野では、檜森の言うようにコンピュータを相手にしていることが多い。データ解析のためにはコンピュータ言語は扱わなくてはならず、発表用のスライドは不可欠で、論文執筆にしても口述筆記よりもキーボードを使うほうが早くて確実だ。だからモニタを見つめ続ける。


「星見さんはどうですか、就職できそうですか?」

 と就職難のことを指摘された意趣返しにか、檜森がそんなことを訊いてくる。博士課程の二年生の勇凪にとっても、これからは就職活動をせねばならない時期だ。もっとも、ドクターの就職活動はマスター以前のそれとは違う。

「さぁ、どうなるかなぁ………」

 勇凪は言葉を濁して返答したが、その回答はまさしく心の裡を表していた。どうなるのか、さっぱりわかったものではない。

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