第8話 日本国特区ガンジス諸島、本島港湾部

 レイラニはブーメランという遊び道具を手に入れたが、だからといっていつでも勇凪の後ろをついてくる癖が収まったわけではなかった。夜寝るときは別だとしても、たいてい朝起きると勇凪と同じベッドで眠っている。学校に通うようにはなったが、何かあると授業中だろうが休み時間だろうが問わずに勇凪のクラスにやって来るし、一度泣くそのまま離れない。勇凪が友人とサッカーをしているときは、さすがに参加はしないが、ずっと近くで見ている。ぼんやりしているので、危ない。たまに蹴った球が当たりそうになるのに、動きが鈍いので避けない。避けようとしても当たる。心配で、早く帰らなくてはいけなくなる。早く帰ると帰るで、友人に囃し立てられる。家にいても、常に隣にべったりと張り付いていて離れない。


 唱子が教えてくれたブーメランは、遊び道具として役には立ったし、投げているときはレイラニが勇凪から離れてくれる唯一のときだった。放課後や学校が休みの日にガンジス記念公園まで連れて行くと、余程気に入ったのか、投げ始めると延々と投げ続ける。投げることやキャッチすることが良い運動になっているらしく、未だに片足を引き摺るのは抜けなかったが、その歩みもだいぶ良くなってきた。

「さなちゃん、どこ? 見てる?」

 延々投げ続けるとはいっても、勇凪が見えなくなるとすぐに悲しそうな顔になるので、彼女が見えるすぐ近くにいなければならない。近くにいる以上、ブーメランから目を離すと危険なので、しぜんとその軌道を追うことになる。くるくると、ブーメランが回転しながら旋回する。


 レイラニのブーメランの腕前は短い期間で段違いに向上した。だがブーメランは空気をかき分けて飛ぶものだ。わずかな空気の揺らぎでも、その飛行には影響を与えるのだろう。どれだけ腕前が上がっても、人間が感じられるのは自分の周りの薄皮一枚、小さな小さな空間でしかない。であれば、毎度毎度狙い通りに投擲できるわけがない。

 いまもレイラニは、完璧に予想はできないがためにブーメランをキャッチしそこなった。ブーメランそのものは地面に落ちたが、掴み損なったときに指を打ったらしい。慌てて駆け寄ってレイラニの手を見てみると、薬指の爪の先が白く濁っていた。しかし血も出ておらず、指も青くもなっていない。

「骨、折れてない?」

 レイラニは涙目になっていたが、勇凪は安堵の息を吐いた。

「爪だけだよ。そろそろ帰る?」

 こくんと頷いて、レイラニはブーメランを拾うと、勇凪と手を繋いだ。


 勇凪は——勇凪は、レイラニのことが、嫌いではなかった。

 彼女は急に勇凪の家にやって来た。これまでまったく接触のない人間であり、しかも異性だった。常にべっとりと勇凪に付きまとっていて、離れようとしなかった。

 だがレイラニは素直だったし、ひとりで何もできないわけではなかった。勇凪や母から手伝いを乞われればそれに従ったし、勇凪が近くにさえいれば勤勉だった。真面目で優しくて、可愛らしい少女だった。

 レイラニとの時間が気に入らないのは、彼女自身の性格や行動とはまったく関係ない理由からだった。レイラニの顔を見るたびに、彼女が足を引きずって歩くたびに、勇凪は彼女を最初に見つけたときのことが忘れられない。彼女を一度見捨てかけて、そのせいで彼女の身体に後遺症が残ってしまったことを。その罪を、いつか問われるかもしれないということを。


 本島のガンジス記念公園の芝に覆われた小高い丘を下り、港のほうへと向かう。休日の今日は本島へ出かける前に、母からお使いを頼まれていた。手を繋いだまま、港の市場で買い物をしていく。

「仲が良いね」

 買ったものを受け取るときに、店員からそんなことを言われた。若い女性だった。勇凪は気恥ずかしくなって、レイラニの手を離した。

 次の商店に移ったときに言われた。母がよく利用する店の、馴染みの店員に。

「今日はひとりかい? 珍しいね」

 振り返った。

 レイラニがいなかった。


 息が一瞬止まる。目が見開かれて眩しく感じる。全身から汗が吹き出て、髪が、服が、肌に張り付く。レイラニはまだ幼いだけではなく、言葉が不慣れなうえ足が悪い。取り返しのつかないことが起きているかもしれない。

「レイラニ? ……レイラニ!?」

 叫べばすぐに返事があると思った。なぜならば、いつもすぐ近くにいるからだ。呼ばなくても来るからだ。

 だがいつも近くにいるはずの少女の返答はなかった。


 夕暮れ刻、日用品の買い物に来た島民と観光客とでごった返した市場は真っ直ぐに歩くことができないほどに混雑していて、子どもの勇凪では遠くを見通すこともできない。それでも必死で人の波間を掻い潜り、足や尻に押されながら、勇凪はレイラニの姿を探した。レイラニの名を呼んだ。逸れたときは乗ってきたボートに戻ってくるように言ってあったが、彼女の姿はなかった。

 既に陽は赤く染まりつつあった。食品を売る店は閉店の準備をし始めていたが、勇凪はその中のひとつひとつに分け入って尋ねた。ひとりでいる女の子を見なかったかと。七、八歳くらいで、ガンジスの人間にしてはまだ肌が白い女の子なのだと。髪がふわふわしていて黒くて、目は海のように碧くて、同じように碧いパレオを着ている、とても可愛い女の子なのだと。


 見た、という情報もあったが、それは勇凪と手を繋いでいるときのレイラニで、いなくなってからの情報ではなかった。見つからぬままに時間が過ぎてゆく。暗くなってゆく。

 勇凪は人が少ないほうへ、少ないほうへと分け入っていく。レイラニは勇凪以外の人間を怖がる傾向にあったからだ。もし急にひとりになったとすれば、多すぎる人波を怖がって人の少ないほうへと進んだだろう。

 レイラニは、いた。

 見間違いようも無かった。薄暗くなっていても、彼女の白い肌は目立っていた。

 海際の倉庫の陰だ。幾ら彼女が人ごみを嫌っていたからといって、こんなところにまでひとりで来るはずがないのだ。誰かに連れてこられたに違いないのだ。それを示すように、レイラニの傍らにはアロハシャツの男の姿があった。太った、中年の男だ。男は己の腹までしか背丈の無いレイラニの前に跪き、彼女の頭を掴んで唇にキスをしていた。


 勇凪の身体は自然に動いた。海で漂流するレイラニを見つけたときのように見捨てたりはしなかった。

 跪いていることが幸いし、背が低くても横から殴りかかった勇凪の拳は男の目のところに当たった。男の顔は硬く、手が痛くなったが、男は叫んでレイラニから身体を離した。近くに落ちていた杖を掴んで、もう一発。

「逃げるぞ!」

 レイラニの手を掴み、勇凪は駆けだした。

 逃げても大人との歩幅が違えば、すぐに捕まる。たとえ相手が腹が出ていて太っていても、大人との体格差は歴然だ。でなくても、レイラニは片足を引きずっていて走るのが遅い。

 人の多いところに逃げるか、でなければ、と勇凪は伸びて来た手を避け、バランスを崩した男に横から体当たりをした。

 まるで壁にぶつかったかのように勇凪は跳ね飛ばされたが、男もただではすまなかった。まるで歌舞伎のように堤防でたたらを踏んで、ついには海に落ちてしまった。


 再度、レイラニの手を握り、ヨットへと駆けだす。いつあの男が海から這い上がってきて、追いついてくるかわかったものではない。

 風を読む余裕などなく、ヨットのモーターフィンを作動させて海に出る。

 一息吐いた勇凪は、ようやくレイラニの顔を正面から見ることができた。息が荒く、涙目だ。足を引き摺って走ったから、痛いのだろう。

「ごめんね、ごめんね」

 レイラニは何度も謝ってきた。


 悪いことをした、という思いがあるのだろう。自分のせいで、勇凪が危ない目に遭った、と。泣いているのは、厭なことをされた、という感覚もあるからかもしれない。しかし接吻されていたのがどういう意図によるものなのかは理解していないのだろう。いや、勇凪でも、よくわからない。ただ、汚らわしい行為だということと、嫌がるレイラニの唇を無理矢理奪ったのだということはわかる。

 自分のせいだと思った。自分が、レイラニをひとりにしたから。勇凪は母親から持たされていたハンカチでレイラニの唇を拭いてやった。

「どうしてあんなことをしていたんだ」

「さなちゃんがいなくなったあと、捜していたの。そうしたら……」

 皆まで言わずともわかる。アロハシャツの男は赤ら顔で、酒が入っている様子だった。レイラニほどではないが、ガンジスの人間にしては肌が白かったから、観光客かもしれない。酒と観光が気分を良くさせ、通りすがりのレイラニに手を出したくなったのだろう。勇凪を捜していたレイラニに適当なことを言って、倉庫の陰まで連れ込んだのだ。勇凪が駆けつけるのがあと少しでも遅かったら、どうなっていたかわからない。


「さなちゃんは、かっこいいね」

 夕焼けの海の上、勇凪に抱き付くレイラニが囁いた。

「お使いができるし、ヨットも乗れるし、それに、助けてくれたもん」

 勇凪はどう答えたらよいか判らなかったので、ただ、「さっきのことは、母さんには秘密だぞ。アネラのこと、心配するからな」とだけ伝えた。本当の理由は、レイラニが穢されたことそのものを母親にも誰にも伝えるのが厭だったからなのだが、素直に頷いてくれた。

 買い物をするだけにしては帰宅するのが遅くなってしまったが、母はその理由を、レイラニに港の市場を案内してやっていたからだと解釈したらしい。レイラニもレイラニで、勇凪に言われた通りに襲われたことは言わず、ただ夕餉の間中興奮気味に港の様子や勇凪のヨット操舵のことを語っていたので、母にレイラニから目を離したり、危険な状況に陥ったりしたことを咎められずに済んだ。


 翌日、朝になってテレビを見ていると、ガンジス諸島の港で男の水死体が揚がったというニュースが流れていた。水死体の持っていた所持品の顔写真の顔は、勇凪が昨夜海に突き落とした男の顔と同じだった。

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