第6話 日本国特区ガンジス諸島、ガンジス諸島探検記念公園

「どこぶつけたの? 背中に? ここ? 触っても痛くないよね? じゃあ大丈夫かな。お、泣いてない。偉いなぁ。お兄ちゃんだなぁ………」

 矢継ぎ早に声をかけてくる女性は年上ではあったが、かといって勇凪の母親ほど大人であるようには見えなかった。高校生か、大学生か、それくらいの年齢だろう。たぶん。ガンジス諸島では、あまり見ない年齢なので、たぶん。すらりとした細身だ。ノースリーブのブラウスから伸びる細い腕は白く、であればこの辺りの人間ではありえない。観光客だ。


「きみら、さっきブーメラン投げたの見てたけど、投げ方違うよ。あれだとさっきみたいになって危ない」

 と言うからには——「ブーメランの達人?」

「えっ、うん……ああ、わりとまぁ、そういうかんじのひとかな」女性はいつの間にかブーメランを拾っていた。「えっと、まぁ……投げるときはもうちょっと気を付けたほうがいいよ」

「気をつけるって?」

「向きとか。さっきも言ったけど、投げ方とか。見た目、しっかりしたブーメランだけど……投げ方が悪いとちゃんと戻ってこないし、何より危ないからね」女性は手の上のブーメランを一瞥する。「スノーウインドって書いてあるね。雪風だ。このブーメランの名前。どこで買ったの?」

「港の出店。投げ方知らないんだけど、どうすればいいの?」

「縦に投げるんだよ。きみはさっき横にして投げていたけど、正しくは翼を縦にしてね。こう」女性はブーメランを摘むように縦に持ち、手首を動かして何度か振ってみせてから勇凪に手渡してきた。「正確には、縦よりちょっと傾けてね」

「なんで?」

「さて、なんででしょう?」

「ヘリコプターだから?」

 投擲したブーメランが回転している間に考えていたことを話してみる。

「お、いいね。そうだね。ブーメランの胴体は翼だから、横に投げると回転しながら上に持ち上がる力があるわけだ。さっきみたいにね。縦に投げてやると、これが横に動く力になる。揚力はブーメラン飛ばすのに大事な要素のひとつではあるね。それだけだと手元には戻ってはこないけど、ほかに——」

「一度に言われてもわかんないな」

「そうだね」と女性は笑った。それから、また手首を振ってみせる。「まぁ、投げてみな。今度は縦に……縦だけど垂直よりはちょっと傾けてね」


 勇凪は女性から視線を外し、レイラニを一瞥する。彼女の瞳には未だ涙が溜まっていて、視線が虚ろだ。たぶん、ブーメランが怖かったのだ。戻ってくる硬い塊が怖かったのだ。くるくると、落ちてくるのが怖かったのだ。

 勇凪はレイラニを抱きかかえて女性の陰に隠した。

「さなちゃん?」

出てこないようにと肩を叩く。勝手に障害物代わりに使われても女性は怒らなかった。動かないようにとレイラニの手を握ってくれたが、知らない人間に手を掴まれるということが逆にレイラニの不安を煽ったらしかった。

「さなちゃん?」

 投げるから見ているようにと促し、距離を取る。

 投げたブーメランはくるくると縦に回転しながら緩やかに上昇をしていく。縦の回転は徐々に傾きを水平に移行させながら……軌道が変わっていく。上昇をしたときと同じように、緩やかに下降しながら円を描くようにして戻って、戻ってきて——勇凪の目の前に落ちた。


「すごい!」

 勇凪が何か言う前にレイラニが反応した。女性の手を振り解き、覚束ない足取りで駆けてきて勇凪の手を握る。すごい、すごいね……さなちゃん、すごいね。レイラニは表現する言葉が思いつかないのか、すごいすごいと繰り返しながら歓喜を表現した。足が悪くなかったら、飛び跳ねていたことだろう。

 投げてみせたのは正しかったのだろうか、とブーメランを拾い上げながら勇凪は考えた。今回は目の前に落ちたが、先ほどは背中に当たった。次は顔かもしれない。目かも。正しく投げれば危うくない程度に投げられるというのは、投げ方を変えで軌道が明らかに変わったことでわかったが、レイラニは正しく投げられるものだろうか。足だけでなく、目も悪くなったら可哀想だ。


「曲がりがちょっと足りなかったかな。調整したほうがいいかもね」

 女がにこにこと微笑みながら近づいてきたので、勇凪は思考をブーメランに対する危惧ではなく、それを投げることそのものへと思考を移した。投げた。戻ってきた。手元に戻ってくるには、ああ、確かに少しばかり距離が足りなかった………調整?

「調整って?」

「こう、ぐっと捻るのさ」女性は手首を腹の前で捻ってみせる。「木製だからね。そうすると癖がついて曲がりやすくなる。逆に真っ直ぐにしてやれば、回転が弱くなる。ああ、折れるほどに捻ってはいけないよ。あと気を付けたいのは風かな。戻ってくるであろう方向が風向きになるようにしたほうがいいよ」

「おねえさん、ブーメランのプロ?」

「それ、さっきも訊かなかったっけ?」女性はくすくすと笑って、唱子しょうこと名乗った。「ただの大学院生だよ。きみたちは、地元の子?」

「うん」

「そっちのちびちゃんは? 妹ちゃん?」

 レイラニは女——唱子の視線から逃れるように勇凪の陰に隠れてしまった。未だ母にさえ慣れないのだ。勇凪以外の相手には、たいていこうだ。

「うん、レイラニっていうんだ」

「そう、可愛らしいね。こういう格好、パレオっていうんだっけ、南国ってかんじがするなぁ。似合ってる。きみは?」

「勇凪」

「そう。勇凪ちゃん、あの、わたしレイラニちゃんに怖がられてる? なんかやっちゃった?」

「レイラニは人見知りだから、誰にでもそうだよ。それより」と勇凪はゆっくりとブーメランを投げる動作をしてみた。「さっき投げたとき、まっすぐ戻ってこないで、なんか左のほうから戻ってきたんだけど……」

「うん。そういうもんだよ。だいたい円を描いて戻ってくるんだからさ。まっすぐぐーっと行ってくるって回転またぐーっと飛んで戻ってくるなんての、漫画だけだよ」

「なんか使いにくそうだね。ブーメランって武器なんでしょ? 広いところでしか使えないような……」

「いや、ブーメランは武器じゃないよ」

「あれ、カンガルー倒すのに使うんじゃないの?」

「んー、なんかそれは間違いみたいだよ。普通は鳥を追い立てるのに使うみたい。まぁ、野生動物相手にそんな軽いブーメランじゃ倒すのは無理だよね。かといって重いやつだと戻ってきたとき、取り損なったら自分が死にそうだし。投げてぶつける武器みたいなやつは、カーリだったかな、なんかそういう名前だったと思う。それは投げても戻ってこないけど」

「ブーメランじゃないじゃん」

「うん。ブーメランは、だから武器じゃないんだよ。鳥を追い立てたりする狩りの補助か……でなければ祭具かな。えっと、祭具って、お祭りとかお祈りの道具のことね」


「ふぅん……」ブーメランがいったいどういったものなのか、興味はないでもなかったが、それよりもブーメランを投げることそのもののほうがより興味があった。先ほどはブーメランは目の前で力なく落ちてしまった。キャッチできるようになりたい。「また投げてみてもいい?」

「そりゃ、きみのだからね」と唱子は笑った。「まぁでも、訊いたのは善いことだね。投げるとき、周りには気をつけてね。特に回転方向の……右利きなら左側だね」

 またレイラニを唱子のもとへと避難させてから、ふたりが己の右後ろにいることを確認してから投げる。今度もブーメランは、徐々に己の態勢を水平へと傾けながら、左側へと緩やかな回転をしながら左側後方から戻ってきて、戻ってきて……接近してきたブーメランをキャッチしようとした勇凪は爪に痛みを覚えた。ブーメランはキャッチしそこなって、人工芝の上に落ちた。

「さなちゃん!」

「あ、痛かった? 大丈夫?」

 レイラニと唱子から心配そうな声がかけられた。勇凪は己の右手を確認した。痛みを感じるのは中指の先だ。衝撃で爪の先端が白くなっていた。折れてはいない。その爪と指にレイラニが柔らかい指を絡ませて、何度もその腹が触った。


「痛かったねぇ。爪が折れてないで善かった」と唱子が手を伸ばしてきて、勇凪の髪をくしゃくしゃと撫でた。「きみ、泣かないね。偉いな……キャッチの仕方、ちょっと良くなかったね」

「良くなかった?」

「まぁ、ブーメランは武器じゃないっていっても投げて使うものなんだから、痛いこともあるよ。厭になって——」

「厭になってないから、投げ方だけじゃなくて取り方も教えて欲しい……教えてくれる? くれますか?」

 唱子は口元に手を当て、隠すように喉を鳴らして笑った。「子どもがそんなふうに畏らなくて善いよ。いま、待ち合わせての相手を待っているところなんだ。だから暇なんだけど……ここ、記念公園で合ってるよね? ガンジス諸島探検記念公園だったかな」

「ガンジスで記念公園はここだけだよ」

「あそう。そりゃ良かった。じゃあいまはこれ以上ないほど暇だね。貸してみ。ちょっと投げてみせるから」

 唱子はブーメランを受け取った。スノーウィンドだとか書かれているというブーメランを。


「さっき、ちゃんと周りを確認したのは善かったね——確認。構えて、腕と手首の力で投げる」投げる。勇凪に比べると、そのフォームはより脱力して自然なものに見えた。ブーメランがまずは真っ直ぐ飛んでいく。「飛んだね。で、投げたら目を離さない。目を離さなければ危ないことはないから」ブーメランが徐々に旋回しながら戻ってくる。唱子はそれに合わせてゆっくりと前に歩き出した。「風が弱いと、投げたところには戻ってこない。ちょっと前に来るんだね。まぁ、どの辺りに戻って来るかは慣れればわかるよ。で、大事なのは——」戻ってくる。ゆっくりと。速度を落としながら。「速度が落ちてから取る」白い両手が伸びて、上下からブーメランを挟み込むように掴んだ。回転はしてはいるものの、ほとんど静止したブーメランを。その回転さえも押さえ込まれて止まり、代わりに唱子自身が一回転した。ブラウスの裾がふわりと持ち上がり、落ちた。「両手でね。最初は」

「おおー」

 拍手をしたのはレイラニだった。目を輝かせ、口を半ば開いている。先ほど勇凪が投げたときよりも、明らかに感動している。「さなちゃんよりすごい」などと言わなくてもいいことを言っている。掌を打ち合わせる音にも気持ちが篭っていた——嬉しそうに唱子が近付こうとすると、いつものようにさっと勇凪の後ろに隠れてしまったが。


「えぇ……。まぁ、こんなかんじだね。わかったかな?」

 手渡してきたブーメランを受け取りながら、「速度が落ちてなかったら?」と訊く。

「さっきのがそうだったね。避けるのがいいと思うよ。あ、背中向けて逃げないでね。見てれば軌道はわかるから、見ながら避ける。そうするとまた反転して戻ってくるから、そのときにキャッチするのがいいね。もしなんかトラブルがあって、たとえば避けたら後ろの人に当たるとかだったら——まぁそういうことにならないように投げるまえに確認するのが大事なんだけど、グーで叩き落とすのが良いと思うよ。上から殴り落とすと回転方向にぶつけるのに比べるとぜんぜん痛くない」

 教えてもらったとおりに安全確認をし、教えてもらったとおりに投げる。教えてもらったとおりに叩き落す必要はなく、教えてもらったとおりに両手でキャッチできた。

「すごい」

 レイラニが抱きついてきた。引き剥がす。


「一発で成功するとは思わなかったなぁ」と唱子も手を叩いて笑顔だった。「妹ちゃんにも投げさせてあげたら?」

「えっ………」

 勇凪が返答に困ったのは、自分がもっとブーメランを投げたかったからではない。レイラニが投げて怪我をしはしないかと不安だったからだ。もともとは足の悪いレイラニでも遊べるかもと思って買ったわけだが、自分で受けてみてその危険さがわかった。未だ三回しか投げてはいないものの、おおよそその危険についてはいまは理解していて、だから勇凪は危険がないように投げることはできるし、いざとなれば逃げることもできるが、足の悪く頭の回転が悪いレイラニの場合、どちらもできるかどうかが心配だった。

 正直にそのことを唱子に告げると「じゃあキャッチはきみがやったほうがいいかもね」と言われた。確かにそれなら安全かもしれない。少なくともレイラニにとっては。

「レイラニちゃん、どう? わかる?」

 優しく唱子が問いかけたが、レイラニはびくりと震えてすぐに勇凪の陰に隠れてしまう。いつものことではあるのだが、それでもレイラニのこうした態度には溜め息が出てしまう。改めて勇凪が説明してやった。

「なげていいの?」

「投げたらどうするかわかってる?」

「目をはなさない」

「で、おれの背中に隠れるんだよ」

「うん」


 唱子が離れたのを確認してから、勇凪はブーメランを手渡す。自分はレイラニから二歩だけ下がり、すぐに彼女のそばへ駆け寄れるようにする。レイラニは不安そうにしばらくブーメランを眺めていたが、やおらその短い手を振って投擲した——ほとんど腕の力だけで。回転方向は間違っていなかった。ほとんど縦に、僅かに傾けて投げた。だからゆっくり、ゆっくりと曲がりながら……ブーメランは十メートルほど離れた位置に落ちた。

「いま、もどってきてた?」

 ろくろく戻ってきてはいない、と言いそうになったが、レイラニにしてみれば、自分でもちゃんと投げられて、キャッチするほどの距離は飛行しなかったものの、曲げることができたと思っているのだろう。考えようによっては、手や背中を怪我しかけた勇凪よりも上出来かもしれない。「いや、まぁ、多少………」と言葉を濁す。


「投げるのがうまくいかなかったみたいだね」と唱子が近づいてきて言う。「軽いブーメランだから力はそれほど必要ないと思うけど、ちょっと投げ方がぎこちなかったかな。何回かやってれば良くなるかも——」

「唱子さん」

 急に投げかけられた勇凪でも、レイラニでも、唱子のものでもない背後から投げかけられてきた声は男のもので、聞き慣れぬ声質ではあったが、まったく聞き覚えがないものではなかった。振り返ると、公園の記念碑のある小高い丘を下りてやって来るのは背の高い、がっしりとした体格の男だった。

「こんにちは——勇凪くんとレイラニちゃん」

 おそらく唱子と待ち合わせていたのであろう男は、勇凪たちの存在に驚いたようではあったが、すぐに気を取り直したように挨拶をしてきた。そのときに勇凪たちの名前を呼んだことで、勇凪は彼が誰であるかを思い出した。思い出したが、名前が出てこなかった。いや、そもそも名前を聞いていなかったかもしれない。レイラニの救助のときに調書をとった海上保安隊の隊員だ。

「あれ、お友だちなの?」

 と唱子が言った。

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