第10話 約束

「マニは先に帰ってて。僕はいつもどおりエウラの手伝いをしてから帰るよ。野菜は僕が運んでいくからさ」とアフサは続ける。


「……うん。そうか。……うん。そうするよ」



 これは自分のおごりだったのだろう――友を試すような自らの言動を、マニは恥じていた。杖を持って立ち上がり、よちよちと歩みを進める。なんだかいつもよりもうまく歩けない。


「マニ? 大丈夫か? やっぱり一緒に帰ろうか」


「いい!」


 助けの手を差し伸べたアフサの手を振り払い、マニは歩き続ける。


「マニ! 返事待ってるよ! 一緒にアレクサンドリア行こうね!」


 後ろからエウラリアの明るい声が聞こえる。気を遣わせてしまっている。それに対して――心の優しい友人二人に対して、自分はなんて心が狭い人間なのだろう。マニは、自分の感情を思うようにコントロールすることができず戸惑っていた。そういう意味では帰路が独りというのはありがたい。少し整理する時間が必要だった。そして冷静になって、自分がこれからどうしたいのかを考えていく必要がある。


 けれど、不幸というものは不思議と重なっていくものだ。


 マニは視界の隅っこで、自分たちと同じ白い衣装を身にまとった人影をみかけた。ゾロアスター教の信者とは少し違う――つまり自分たち〈白装束〉の仲間の人影だ。というかおそらく、その人影はパーティクだった。きっと最近の自分たちの行動を不審に思った〈父〉が差し向けたのだろう。彼はマニよりも一足先に〈やし園〉へと戻り、〝このこと〟を〈父〉に報告するはずだ。


〝このこと〟とは無論、女性との接触に他ならない。〈父〉はそれを許さないだろう。自分はしばらく幽閉される。それは果たして一週間か、一ヶ月か――


 しかし、今ならまだ間に合った。このまま〈やし園〉に戻らなければエウラと離れることもない。彼女の笑顔を思い出しながらほぼ衝動的に振り返ったマニだったが、先ほどの野菜売り場から離れるアフサとエウラの背中は、どこか楽しそうだった。まるで世界がその二人で完結しているかのようだ。


 置き去りにされた子供のように立ち尽くすマニ。けれどしばらくして、その少年は自身の運命を受け入れたかのようにわずかな笑みを浮かべ、よちよち時間をかけて〈やし園〉へと戻った。



「というわけで、おれは一人になってしまったんだ」マニは野菜を売りながら、隣に座っているシャープールにそう言った。「三ヶ月の謹慎きんしんの末にね」


「だからしばらくいなかったんだ」退屈そうな金髪の少年は膝を抱え、マニが野菜を売る様子を見守っている。「おかげでこの村には何度も足を運んだし、でも全然キミとは会えないし、ようやく会えたと思ったらしばらく写本はおあずけときた。僕は非常に悲しいよ」


「おれも悲しい。たぶんあれは初恋だったし、これは失恋になる」


「……あれ。ユダヤ教ナザレ派、特にキミたち〈白装束〉は禁欲主義じゃなかったっけ? 男限定の村を作ってるくらいなのに」


「そのくらい自由にさせてほしいって思うけどね」


「なるほど。ユダヤ教マニ派はわりと寛容な教義を持つんだね」


「ナザレ派の正しい解釈だよ」


「だとしたらそれはもはやユダヤ教じゃない」


「じゃあキリスト教だ」


「いや。マニ教だね」


 前に似たやり取りをアフサとした気がする。自分の考えを口にしただけですぐに宗教にされてしまうこの地域の風習、なんとかならないものだろうか――


 マニは大きなため息を吐いた。



 エウラリアもアフサも、すでに旅立ってしまっていた。


 三ヶ月前のあの日、最近のマニとアフサの動きに不信を抱いた〈父〉がパーティクに二人のあとをけさせて、けがれそのものである女との深い交友を確認した。そして予想通り、マニが村に到着して即座に〈父〉から説教を受け、そのまま三ヶ月、マニは許可のない外出は禁じられ、洗礼はより過酷なものとなった。アフサは同じ日の陽が暮れる頃に帰ってきたが、不思議とマニほどとがめられることはなかった――むしろ、なぜかマニに対して〈父〉は厳罰を課していた。それでもマニは粛々しゅくしゅくとそれを受け入れ、厳しい洗礼の日々にはげんだ。


 そうして一ヶ月ほど経ったある深夜のことだ。


「マニ。行ってくる」


 マニが眠る建物の壁一枚へだてた屋外からアフサはそう告げて、その日の朝にはもう姿をくらませたらしい。アレクサンドリアへ旅立ったのだろう。


 謹慎がとけてようやくエウラの村へとやってきたマニだったが、当然ながらカリトンの家は固く戸締りがされていて、人が住んでいる様子はなかった。そして偶然にも、そこでシャープールと再会したのだ。



 二人はたくさんの話をした。


 太陽が真上に来て、傾いて、そのオレンジ色の球体が太く歪んで大地の果てに沈もうとしている。野菜はすでに完売していたが、マニとシャープールは話し続けていた。


 自分の身の上話。王の在り方。神は実在するのか。なぜ人は生きているのか。人を形作っているものとはなにか。夜空の奥底にある星のこと。宇宙の正体。いつからこの世界は存在しているのか。これからどうなっていくのか。時間とはなにか。記憶や感情とは。哀しみについて。そして人はなぜ、人を愛し人を憎むのか――


 様々な哲学や天文学などについて、二人は語り合った。


「ねぇマニ。僕は時々こう思うことがあるんだ。すなわち、本当はこの世界に悪い人なんかだれもいないんじゃないか――ってね」


「うん。おれもその考えに賛成。でも、シャープールはどうして思った?」


「それがうまく言語化できないんだよ。直感かな」


「嘘つきも強盗も、人殺しも自殺者も、皇帝カラカラもパルティア王も?」


「うん。本当の意味では悪人ではないと思う。仕方なかったんだ。でもなんで自分がそう思うのかがわからずにいる。……マニはどう思う?」


「この村の人はどうしてわざわざおれから高値で野菜を買っていくのだと思う?」とマニは逆に問いかけた。


「見栄を張りたいから、じゃないかな」


「おれもそう思う。でも、それをすることでその人にはどんな良い事があるんだろう?」


「うーん。救われるんじゃないか? 自分の行動による影響を自分以外に示すことができる。自分は無価値じゃないんだって確かめることができる」


「自分の価値が確認できると、どんな良い事があるんだろう?」


「安心する?」


「つまり野菜を買うことの表立った意味は〝見栄を張りたい〟だけど、それに隠された真なる意味は〝人と関わって安心したい〟だとわかったね」


「そうか!」


「嘘つきや人殺しや悪政についても同じだと思う。〝それでどんな良い事があるのか〟で突き詰めていくと、人は絶対に良い理由に行きつくんだ。悪いのは表立った行動であって、心のうちにある理由じゃない。どんな醜い陰謀にもそこには必ず良い意味が込められているんだよ。シャープールはちゃんと人のそこを見ることができているんだね」


「マニ! やっぱり君は君の教えを世界に広めた方がいい!」


「正当なナザレ派ならみんな知ってることだよ」


「いや、僕もナザレ派の教義については勉強しているけど、今の言い回しはマニがはじめてだ。イエスの教えは〝人は罪深い〟だろ? そしてナザレ派とは、イエスがすべての人の罪を代わりに背負い処刑されたからこそ、イエスに祈れば彼が自分たちの罪や間違いを代わりに背負ってくれて、そして自分たちはゆるされるというものだ。つまり、またチャンスをもらえるんだよ。だからこそナザレ派はイエスへの感謝や日頃からの謙虚さを欠かせない――他人に向けて傲慢に罪をなすりつけるわけにはいかないからね。


 人は常に自分を律して、常に正しいことを意識して生きなければならない――でも、それでも人は時に思わぬ罪や間違いを犯してしまう。故に〝人は罪深い〟し、だからこそナザレ派はイエスに祈るのさ。一方のマニは、少し違うことを言っている」


「同じだよ」


「違うさ。はっきり言ってマニの方がわかりやすい。特にゾロアスター教の僕でもその考えを受け入れやすいという点が重要だ。というのも、さりげなく二元論――善と悪、光と闇、心と身体、理由と行動を扱ってくれているからね。でも、もしそれをマニ教として世間に広めていくとするなら、もっともっとわかりやすい言葉にしないといけないだろう。神話も作らなきゃね」


「広めないし、作らないよ」


「いや、キミは広めるし作るね。僕は人を見る目があるんだ」


 期待に目をきらきらと光らせるシャープールを見ていると、不思議とマニもそんな気にさせられるようになってくる。だから、マニは思わず目を逸らした。


 その顔を追いかけて「キミはこれからどうするつもり?」と、金髪にブルーの瞳の少年が覗き込む。


「あんまり考えてないかな」マニはまた逃げるように顔を持ち上げ、遠い空を眺めながら言った。「でも、もうこの村には来ないと思う」


「……そうか」シャープールはその言葉を受け取ると、少し考えてから立ち上がる。オレンジ色の街に長い影が伸びていく。「いつかクテシフォンにおいでよ。将来、しかるべき時にでも。そしてまた、今日みたいに一緒に話をしよう」


「然るべき時って?」


「お互いに〝話したいな〟って思った時」


 シャープールは口に出さなかったが、おそらくはこう言いたいのだ。〝自分が王になった時に〟そして〝マニの考えがより成熟したあかつきに〟と。


「うん。よろこんで」


「約束だよ、マニ」


 二人は軽く微笑み合って、手を振ってお別れをした。


「マニ。そろそろ帰るぞ」


「パーティク。居たんだ」


「〈父〉からお前のことを頼まれてる」


 建物の影から、髭と髪が真っすぐ伸びたやせ細った男が姿を現した。さしずめ、お目付け役だ。今日は女との接触もなく、若い男と難しい話をしていたので、なんら責められるような口実はないはずだった。唯一あるとすれば、〈やし園〉に戻った時にはすでに日が暮れていることくらいだろう。間違いなく、祈りの時間には間に合わない。パーティクと二人で、どこか道の途中で布切れを広げこうべを当てる時間を取らなければならないだろう。


「うん」と言って、マニは立ち上がった。シャープールの背はもう見えない。次に会うのは、おそらく数十年後だ。


 そう思って、マニは少しおもしろくて笑ってしまった。


(相手は王子だぞ? やがてこの国の王の王となる人だ。そんな人物と、また再会するだって?)


 ありえないとは思いながらも、彼の人柄もあってか、どうもまた会えそうな気がしてならなかった。今からその瞬間が楽しみだ。喜びのあまり頭が真っ白になってしまわないよう、その時のために手紙をしたためておこう。シャープールへの手紙シャープ―ラカンを、ゆっくり制作していくのだ。自分が考える世界について、宇宙について、神について、まずは彼に聞いて欲しい。科学の話はそれからだ。


 そして、エウラリアとアフサ。

 二人は元気にしているだろうか。もし彼らの旅が順調であれば、あと三ヶ月ほどで会うことができるはずだ。


 しかしもう、マニにそのつもりはなかった。仲むつまじい二人をみたとき、きっと自分はまた未熟さを露呈ろていしてしまうだろうからだ。そんな自分からは、今はまだ逃げていたかった。そして逃げるのであれば、代わりに修行が必要だ。マニはしばらく〈やし園〉での生活を続け、感情のコントロールができなくなってしまった時に感じた自らの未熟さと向き合おうと思った。


 祈りと洗礼と畑作業に明け暮れる、同じ日々の繰り返し。マニはそこになんとか自ら変化を与えようと、〈やし園〉の中で医学に没頭した。そしてすぐにその知識を自身の技術として習得していき、やがて〈白装束〉たちはしだいに彼のことを医者と呼び、頼るようになっていく。



 遅いとも早いともつかない月日が流れていく。

 十年の時が経った。

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