アン ハッピー バレンタインデー

 今日僕は、いつも通り、バイト先のメイド喫茶に行った。

 店の扉を開けて、その中に入る。


「おはようございま……」


 店の扉のすぐ近くに仁王立ちになっていた髭面のオッサンに驚き、挨拶を最後まで出来なかった。


 年のころなら40代前半、ボディビルダーみたいな体格で、かなりでかいこのオッサンは、何を隠そうメイド喫茶の店長だ。


 普段の仕事は、食材の運搬や、ヤな客を追い返すと言った、肉体労働専門。

 要するに、パワフルオンリーの筋肉バカだ。


 バカなのはいいが、せめてエプロンを脱いで頂きたい。


「よく来てくれた! ルナくん、君は今日、いつもの仕事をしなくていいぞ!」

「はい? 店長……僕は首ですか?」

「いや違う。君には違う仕事をしてもらおうと思って……」

「『メイド服を着ろ』とか言うつもりですか?」

「………………」


 図星なのかな?


「大丈夫! 君は可愛い! だから……」

「セクハラですか?」

「男同士じゃ、セクハラじゃないだろ?」


 知るかンな事。


「なんだ? その冷たい目は?」

「僕、帰ります」

「ルナちゃん、まって」


 僕に話しかけて来たのは、バイト仲間で、この店一の美少女『陽菜はるな』だ。


 一応言っておくが、彼女よりも、泉さんの方が可愛いと思っている。

 本当だからね!


「何?」

「なんか、俺の時よりも、愛想が良くないか?」


 店長がなにかほざいているが無視していいだろう。


「お願い! 本当に困っているの!」

「どうして?」

「今日はバレンタインデーでしょ? だから、この店でも、お客さんたちにチョコを配ることにしたの」

「僕にチョコを作って欲しい、と?」

「チョコはもう作ってあるんだよ。でも、メイドさんが足りなくて……」


 ん?

 なんかこの流れ、僕が女装するみたいになってる気がする。


「ルナちゃんには、メイド服を着て欲しいの」

「やっぱり、帰ります」

「待って! 本当に困ってるの」


 陽菜ちゃんが捨てられた子猫のような目で僕を見つめる。


 ………………………………。


「メイドさんが足りないって言ってたけど、今日は何人来てるの?」

「私と店長と、君だけ」

「え? 何でこんなに少ないの?」

「『今日はバレンタインデーだから、彼にチョコあげるんだ!』とか言って、皆バイトを休んじゃったの」


 みんな休んじゃったのか……。


「はぁ……。もし僕が一緒に接客したとしても、調理とかは誰がするの?」

「そこは大丈夫。昨日買ったチョコとかがあるから」

「それでも、二人で接客とか、テーブルの片付けとかするの大変じゃないかな?」

「ルナくん。一人忘れているよ」


「もう一人来るのですか?」

「もう来ているよ。そう、俺も接客を手伝おう!」


 メイド服を着て『お帰りなさいませ。ご主人様♡』とか言うムキムキのオッサン店長を想像してしまい、吐きそうになった。


「店長は、絶対に客の前に出ないでください。店が潰れます」

「ハイ……」


 バイトの女の子に怒られて、しょんぼりするムキムキ店長って一体……?


「じゃ、着替えよっか」

「あのお、執事服じゃダメ?」

「ダ・メ♡」


 僕は、無理矢理メイド服に着替えさせられて、ご丁寧に化粧までさせられた。


「終わったよ」


 陽菜ちゃんに鏡の前に立たされた。


 僕は――けっこう可愛かった。

 かつらをいるし、化粧もから、一目見ただけじゃ、僕が男だとは分からないだろう。


「おお、似合っているじゃないか」

「そうですか?

 僕は、自分の大切なものを失くした気がします」

「元気出して! 本当に、可愛いから」


 陽菜ちゃん、それ、逆効果だよ……


「もうすぐ開店時間だよ!」

「…………うん……」


 僕のテンションは、どこまでも、どこまでも低かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る