第11尾【会いたい、会いたい】


 ——高遠結愛に最大のピンチ到来。


「……うぅ」


 小さな身体を震わせ大きなジト目に涙を浮かべる。

 辺りを見回すが真っ暗で何も見えない。目を凝らす結愛の視界にぼんやりと浮かぶのは、ギョロッと飛び出した眼で大口を開ける砂にまみれた兎。隣には舌の欠けた二本足で立つ蛙。


「……はぅっ、う……」


 掠れた声は闇に溶けて消える。小さな身体がぶるっと震え、遂に内股で座り込む結愛。

 その背後に気配、気配、ヒトの気配——

 結愛は咄嗟に振り返る。


「い、いい、嫌ぁぁぁぁーーーー!」


 決壊——


 ⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎


 時を遡る事、六時間——


「だ、大丈夫に決まっているのです。お泊まり保育くらい平気です! 子供じゃないんですから!」

「結愛ちゃんは子供ですよ、断じて」


 頬を薄桃色に染めた結愛が腰に両手を当てる。涼夜の過保護な心配に反論しているのだ。お泊まり保育、——夢咲第二保育園では、毎年夏、年長組のみでお泊まり保育を実施する訳だが。


 結愛は普段の態度からは想像し難い程に臆病なところがある。特に幽霊オバケ、心霊現象等の類には滅法弱い。涼夜はその辺りを案じている。


「結愛はもうねんちょー組です、ひ、ひとりでお手洗いくらい、い、いけるのです! バカにしないでほしいのです」

「そうですか、わかりました。大人な結愛ちゃんなら大丈夫ですね」

「むぅ」


 結愛は膨れてしまった。


「キュウ、結愛ちゃんの鞄にお着替え入れてくれましたか?」

「キュッキュキューン!」


 キュウは大袈裟に親指を立てて胸を張る。

 程なくして出発の時刻はやって来た。キュウに留守を頼み二人は家を出た。涼夜が右手を伸ばす。結愛はその手を小さな左手で握り返した。


 ⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎


 いつもの商店街を歩く事数分、小さな駄菓子屋の前を通り過ぎ、数人の男とすれ違う。猫に挨拶をしながら上機嫌で歩く結愛を見て、下校中の女子高生達がキャッキャと騒ぐ。手を振られた結愛は、大きなジト目を瞬かせる。


 程なくして保育園に到着。

 園庭には先に来ていたであろう園児達の姿。兎の滑り台と蛙のトンネル、小さな鉄棒、砂場、各々好き放題に遊び散らしていて非常に騒がしい。

 その中の女児一人が結愛に手を振り誘う。結愛は涼夜を見上げる。涼夜は小さく頷く。


「行っておいで。荷物は私が持って行きますから」

「べ、別に、行きたいとかじゃないのです……」

「加奈ちゃんは結愛ちゃんと遊びたいんだって。さ、行って来なさい」

「し、仕方ないのです。リョウヤ君、荷物はお願いするのです」


 結愛は頬を染めて言うと、友達の呼ぶ方へと駆けて行った。言葉とは裏腹に、楽しそうに笑う姿を見て安心した涼夜は、職員室から駆け寄ってくる双丘に軽く会釈をした。


「た、高遠さん、こんばんは。結愛ちゃんの荷物、私が預かりましょうか?」

「あ、いえいえ、意外と重いので私がそこまで運びますよ」

「えへへ、高遠さんならそう言うと思ってました」


 ⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎


 その数時間後、——空は闇に包まれ園内の照明も消灯、夜がやって来た。

 皆が寝静まる中、一人目を覚ましたのは結愛。その表情に落ち着きがない。部屋をキョロキョロと見回し小さな声で「センセ?」と溢すが返事がない。


「……ゆ、結愛はおとなです……子供じゃない……子供じゃないの……ですぅ……」


 内股で立ち上がるパジャマ姿の幼女は、隣で眠るお友達を起こさぬよう、静かに、忍び足で部屋から出る。目的地は部屋から出て左側、——詳しくは左へ進み廊下の突き当たりで更に左に曲がった位置。

 距離にして数十メートル。五歳児の脚でも数十秒で辿り着く距離である。


 しかしその数十メートル、結愛には千里を往く程に感じられた。視界を遮る闇、木の床が軋む音、暗闇で薄ら笑いを浮かべる兎と蛙、臆病な結愛にはどう見えているのか。

 震えながら、身体を小さく丸め歩く。

 ギシ、と床が鳴く、と、同時にふわりと風が吹き木々が囁いた。


「はぅぁぁ……うぅ……」


 その背後に気配、気配、ヒトの気配——

 結愛は咄嗟に振り返る。


 黒い影!


「い、いい、嫌ぁぁぁぁーーーー!」

「きゃっ、ゆ、結愛ちゃん!?」

「ぁぁぁぁ……ぁ、え、と……ぁ……」


 結愛は床にへたり込み、女の子座りで気配の主を見上げ、途端に羞恥の表情を浮かべる。床に出来た水たまりの上に咲いた可憐な花が萎れて啜り泣く。


「結愛ちゃん、こわかったの? 泣かなくていいよ、先生が来たからね? あらら、ほら、お着替えしよう?」

「あめ……ここだけ、あめ……ふったから」

「うんうん、ゲリラ豪雨に襲われてたんだね」


 気配の主は担任の明日花だった。明日花は羞恥心に苛まれ顔を真っ赤にして泣く結愛に手を差し伸べる。結愛は横を向いて頬を膨らませた。

 明日花はやれやれと口元を緩め、岩の如く重くなった結愛の小さな身体を抱き上げた。したたるモノが明日花の服を汚したが気にも留めず正面から。結愛は目を丸くして弱々しく抵抗の意を示したが、観念したように両手を彼女の首に回す。


「き、汚いのです……」

「汚くなんてないよ?」

「……だって、お——」

「汚くない。汚くなんて、ないよ。結愛ちゃんは綺麗だよ〜」


 明日花の胸に結愛の頬が埋まる。


 職員用のシャワールームで身体を洗う。明日花は自分の服が濡れても気にしなかった。


「誰にも言わないから安心して? 勿論、高遠さん、にもバレないようにすぐに洗濯してあげる。先生にまっかせて!」

「……綿棒ないのです」


 明日花はつり目がちな瞳を瞬かせる。


「あ、面目ない、だね。ふふっ、可愛いな〜」

「い、いまのはちょっと間違えただけでっ……」

「いいんだよ、間違えても、いいんだよ? 結愛ちゃんはまだまだ子供だから」

「子供じゃないのです……」

「子供でいいんだよ。大人になる事を急がなくてもいい、結愛ちゃ——」


「——それじゃ、駄目なのですっ!」


 張り上げた声は、シャワーの音に溶けて消えた。結愛は言葉を飲んだ明日花を見上げる。


「——結愛が……結愛のせいで、ママが死んじゃったからっ……だからっ……ゆ、ぁが……ゆあがリョウヤ君を元気にしないとっ、い、いげないからっ……だからおと……な、に……結愛がしっかりしないといけないからっ……!? だから……?」


 裸の彼女を柔らかな母性が包み込み、その声も嗚咽も全てを飲み込んだ。

 先より強く抵抗するが、明日花は彼女を離さなかった。強く、つよく抱き寄せた。

 沈黙がシャワーで流れていく。頭からお湯をかぶりながら小さな大人が落ち着くまで抱いた。


 暫く抱きしめると結愛が落ち着きを取り戻した。身体を拭き着替えた結愛の目尻が真っ赤に腫れている。向き合った明日花もまた然り。

 明日花は結愛の手を握る。結愛は俯きながらそっと握り返した。


「……ママに……あいたいよぅ……センセ……」

「うん、うん。当たり前だよ……大好きなママなんだから、会いたくて当然だよ……」

「でも……」

「涼夜君の前で、言えないんだね。いいよ。先生は……結愛ちゃんのママじゃないけれど、今は……今だけはママと思って泣いてもいいよ、ほら、おいで? 結愛ちゃん」


 更けゆく夜に結愛の泣き声が小さく響く。

 やがてそれは止み、天使は眠りについた。小さな、大人な天使を抱き上げ布団に寝かせた明日花は再びシャワールームへ向かった。


 水量を最大まで上げる。


「……私……最低だった……ぅ……わたし……バカだよっ……なれる訳ないよ……なれる訳、ないよ……なのに、なんで私っ……涼夜、くん、を……あの人のこと……」


 ——好きになっちゃったの


 ⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎


 翌朝、彼女の目尻が真っ赤に腫れていた事は言うまでもないだろう。


 時は八月、これからが夏本番。彼女のエモフレスケジュール帳は白紙、——否、バツだらけとなった。


「永井先生? どったの? 目、真っ赤じゃない?」


 声をかけたのは先輩の先生。明日花は大袈裟に笑顔を作る。


「あはは〜、色々ありまして。そうだ、今日家行っていいですか? お酒呑みましょ、お酒!」

「え、ま、まぁいいけど……大丈夫?」

「あぅ……あまり大丈夫じゃないかも……」

「ぷっ、永井先生? 情けない顔をしない。わかった、付き合ってあげるから」


 先輩先生は明日花の頭を優しく撫でた。


 彼女の恋は、そっと、人知れず、幕を閉じた。

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