第4尾【願いごと、星に祈りを】
夢咲第二保育園、——まるで深い森の中で野生の熊と対峙し睨み合うかのような、鋭くも、けれども愛らしい瞳である一点を見つめるのは結愛。
彼女の目線の先には一枚の紙切れ。
結愛を含む園児全員に配られた紙切れは本日、七月七日の七夕行事に合わせて配られた五色の短冊。
永井明日花、——結愛の属する年長組の担任の一人である明日花は全員に短冊を配り終えたのを確認し、曇り空を晴らすかのような笑顔で声を張り上げる。
「はーい、みんな短冊はもらえたかな〜? はい、さっきも言ったように、この短冊に〜皆んなのお願い事を考えて書いてね〜」
子供達は元気に返事をする。当然子供達も目も眩むような笑顔、梅雨で曇りがちな天気をものともしない。そんな中、一人無言で短冊と睨み合う黒髪幼女はジト目を部屋の外に向ける。
その間も明日花はドヤ顔で説明を続ける訳だが、
「みんな七夕のおはなし、知ってるかな〜? 七夕というのはね、一言で言ってレジェンドオブロマンチック! 天の川を隔てて会うことが出来なくなっちゃった織姫さまと彦星さまが年に一度だけ会え——」
園児達、呆然。
妙にテンションの高い明日花の声も耳に入らない結愛はじっと短冊を眺めている。
七夕、——年に一度、織姫と彦星が面会を許される日として認知された日本の夏の定番行事の一つ。短冊に願い事を書き留めて笹の葉に吊るし、星に祈るというのが一般的だ。
夢咲第二保育園では毎年七夕に願い事を書き、その短冊を小さな笹の葉に吊るし持ち帰るのだ。
二十八歳独身、彼氏絶賛募集中の明日花の渾身七夕ラブストーリーに耳を傾ける園児は殆どいない。
皆、思い思いに願い事を書き始めている。しかし、結愛の短冊はいまだに白紙だ。
それに気付いた明日花は彼女の元へ歩み寄る。
「結愛ちゃんは、願い事決まった〜?」
「……願い、ごと……」
「何でもいいんだよ〜、結愛ちゃんの好きなことを書いていいんだよ?」
「……でも、きっとかないっこないのです」
「そ、そんなことないと思うな〜? ね、何をお願いしようとしてるの?」
「別に、センセにはかんけーないのです」
頑なに願い事を書こうとしない結愛。明日花は少し考えもう一度結愛を諭す。
「つれない結愛ちゃんも可愛いけれど、ほら、皆んな書いてるよ? 結愛ちゃんの気持ちを書いてあげれば、きっと届くよ。だから、書いちゃえ書いちゃえ!」
「……届く……それは本当です?」
「先生は嘘つかないよ?」
「エモフレに誓うのです……?」
「エ、エモフレに、ち、誓うぅ……!」
明日花は額に冷や汗を垂らしながら、真っ直ぐ結愛の瞳を見つめた。何処までも深く真っ黒でありながら、それでいて綺麗に光を映し込む鏡のような瞳に息を飲む。
「わかったのです……書くのです」
「うん、結愛ちゃんえらい!」
「く、くすぐったいのです」
明日花は結愛の黒髪を、まるで割れ物に触れるように優しく撫でギュッと小さな身体を抱き寄せた。
結愛は少し抵抗したが、横を向いて視線を落としされるがまま抱かれた。結愛の柔らかな感触を堪能した明日花は満足げな表情で彼女を解放した。
「……結愛はぬいぐるみじゃないのですよ。センセ、あっち行ってくださいです。見られたくないのです」
「はぁ〜い、そんなツンデレ結愛ちゃんも可愛いな〜」
「茶化さないでください、それに、結愛はツンデレじゃないです」
「へ〜、茶化す、とか、難しい言葉知ってるんだね〜! いやいや、結愛ちゃんはツンデレだよ〜?」
「むぅ……デレた覚えはないのです……」
ツンデレという言葉はエモフレを通じて認知済みであり、その他の言葉は涼夜の書く児童用小説で憶えた言葉。彼女は一般的な園児より、言葉を熟知している。あくまで、保育園児としてだが。
「その膨れた顔も、かぁ——」
「……センセ……怒るのですよ?」
「あ、あはは〜、ごめんね〜。ちゃんと書いてお家に飾るんだよ〜」
「……あ、センセ。たんざく、もう一枚ほしいのです」
「ん? おおっ? 欲が湧いてきたのかな〜? いいよ〜、はい」
明日花はもう一枚短冊を手渡し他の子供達の元へ去った。結愛は再び薄いピンク色の短冊を睨み付ける。左手のクレヨンが小さく震える。
誰にも見られていない事を何度も何度も確認した彼女は意を決して短冊に文字を綴った。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
午後五時半、涼夜の手を引く結愛のもう片方の手には願い事の書かれた小さな笹の葉。
「何をお願いしたんですか?」
「内緒です」と、即答。
大事に握られた笹の葉に揺れる短冊は何故か二重になっていて、外からは願い事が見えなくなっていた。涼夜がそれを見ようと手を伸ばすと即座に
涼夜が運ぶ結愛の鞄には先日買ったエモフレのキーホルダーが仲良く並ぶ。全部で百種類以上ある為コンプリートまでは程遠いが、結愛のお気に入りキャラである『喋るんキャット』はゲット出来たようだ。
『喋るんキャット』『お手洗いグマ』『もなカピバラ』——三つのキーホルダーは仲良く揺れながら身を寄せ合っている。まるで家族のように。
夜空では星達がかくれんぼ。梅雨もそろそろ明ける頃合い、曇り空は次第に晴れていく。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
五○一号室、——まもなく玄関前に到着した二人。
結愛の鞄を肩に背負い、帰り道に購入したコンビニ弁当の入った袋を片手に鍵を取り出すべく奮闘する涼夜。それを見て結愛はコンビニ袋を涼夜の手から取り上げる。涼夜が感謝の意を込め不器用な笑顔を向けたが、結愛は横を向いた。
両手がフリーになった涼夜は鍵を差し込み左に回したと同時に、同じく首を左に傾げた。
「あれ?」
「……リョウヤ君、戸締まりはきちんとしないと駄目です」
鍵が開いていたのだ。
訝しげな表情で扉を開けた涼夜の鼻先をくすぐる
「……え……ママ……?」
地面に笹の葉が落ちたと同時に、結愛は靴を脱ぎ捨てリビングへ駆けた。涼夜の呼び止める声も聞かずに。涼夜はすぐに後を追おうとしたが、閉まる扉に挟まれてしまいそうな笹の葉を拾った。
二重に重ねられた薄いピンク色の短冊に記された丁寧な文字を見た涼夜はすぐにリビングへ向き直る。今は結愛の安全の確保が優先される。涼夜は急ぎリビングへ。——そこに居たのは、
「……君は……」
「キ、キュウ……」
キッチンへ振り返ると、そこに彼女はいた。
何処からか取り出した少しサイズの小さなエプロンを白いワンピースの上から身に付け、九つの白い尻尾を申し訳なさそうに萎びかせた少女が。
彼女の傍らには味噌汁の鍋、具は乾燥ワカメのみとシンプルだが、そこから漂う香りはとても心地良い家庭の香り。しかし、涼夜の表情は険しかった。
何故なら、彼女の太もも辺りにしがみついた結愛の姿が見て取れたから。
結愛は立派な頬を膨らませ涼夜を睨む。
「……駄目です。えっと、キュウ、ここは私の家です。わかります?」
「……キュウ……」
尻尾は床に落ちそうなほど萎びく。それを見た結愛が彼女を庇うように両手を広げる。
「結愛ちゃん、危ないからこっちに——」
「嫌です! ここは結愛のお家でもあります!」
「それはそうですが、その人は勝手に——」
「結愛は嫌です! コンビニ弁当ばかり、飽きたのです……!」
涼夜は言葉を失った。
これ以上、何も言えなかった。育ち盛りの結愛に出来合いの惣菜や弁当しか食べさせていない事実を、そして切実に、それを嫌だと、自分の言葉で彼女が言い放ったのだから。
高遠涼夜、彼はそこそこ名のある作家だ。主に童話や小中学生向けの小説を書いている。締め切りに追われながら必死に結愛の世話をしてきたつもりだが、家事はおろか、料理などもってのほか。洗濯物の畳み方でさえ結愛に指摘される始末な訳で。
「キュウ、君はいったい……何者なのですか?」
涼夜の凍えるような冷たい声に、首を横に振るのはキュウ。
「答えられないのですか」
キュウは小さく頷く。
「なら、君はここに何をしに来たのです?」
キュウは味噌汁の鍋を見る。
尻尾がふわりと揺れた。
「料理をしに……来たのですか?」
「キュウ」
今度は大きく頷いた。はち切れんばかりのエプロンの胸元が跳ねる。
結愛は涼夜を見上げる。
「……リョウヤ君……ちゃんとお世話しますから……」
どうしてもリアルエモフレを手に入れたい結愛と黒縁眼鏡の優男が睨み合う。その姿に戸惑うキュウ。先に言葉を放ったのは涼夜だ。
「……ま、まずはエプロンを新調しましょうか……」
「え?」「キュキュン?」
「ですから、そのエプロンはサイズが合わないようですし……そして、結愛ちゃん」
「はい」
「何やら変わった人ですが、ヒトである以上は飼うのは駄目です」
「……あぅ……」
俯いた結愛に涼夜は言葉を付け足した。
「ですから、雇いましょう。ペットではなく、そうですね、家政婦として」
キュウの瞳が丸くなる。その隣で同じように目を丸くしたのは言うまでもなく結愛であり、涼夜は自分の馬鹿げた発言に頭を抱えるのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます