きゅうびのキュウちゃん

カピバラ

第1尾【ひとまず、警察を呼びましょうか】


 夕立、——降りしきる初夏の通り雨に打たれながら、高遠涼夜たかとうりょうやは走る。

 アスファルトに出来た即席の小さな湖を靴裏が蹴ると、弾けた水滴が街灯の光を反射する。


 この辺りを縄張りとする茶トラ猫とすれ違う。

 傘もささず佇む日に焼けた男とすれ違う。


 上下部屋着姿で彼が向かった先は、

 ——夢咲第二保育園。

 ここ、夢咲町ゆめさきちょうの数少ない保育園の一つ。比較的新しくまだ綺麗な園内にはしかし、子供の姿は見えず森閑としている。


 我が子を迎えに来た保護者の姿も、騒ぐ園児も見当たらない。——それもそのはず、時刻は黄昏時を過ぎ、午後十九時も半ばを折り返している。

 初夏とはいえ辺りはすでに薄暗く、当然、園児達は帰宅している時間であり、従って園内に子供達の姿はなく、当然だが保護者もいない。


 静まり返る園庭の水溜りに目もくれず横断し、灯りのついた部屋へ駆け込む。


「ゆ、結愛ゆあちゃん……!」


 慌ただしく駆け込んだ涼夜の声に、子供向けアニメ『獲物フレンズ』を一人で視聴しながら瞳を煌めかせる黒髪の幼女が振り返った。柔らかそうな頬が小さく揺れる。

 幼女は小さくため息をついて口を尖らせた。部屋の隅には若い保母さんの姿もある。


「申し訳ありません結愛ちゃん……し、締め切りが近くて昨晩も徹夜だったのもあり、す、少しばかり——」

「——少しばかり、眠ってしまった、というわけですね? リョウヤ君?」

「……その通りです……」


 涼夜は一緒にいた保母さん、——永井ながい明日花あすかに会釈をし、バツが悪そうに濡れた頭を掻く。落ちた水滴が床を濡らす。

 明日花は小さく微笑み乾いたタオルを涼夜に手渡した。涼夜はタオルを受け取り、濡れた頭を素早く拭いた。目にかかるくらいに長い前髪。その前髪から眼球を護るかのように蛍光灯の光を映す黒縁眼鏡。そのレンズが臙脂色えんじいろの制服姿の結愛を捉えた。

 

結愛ゆあはお腹がすきました」

「そ、そうですね、結愛ちゃん。それでは永井先生、遅くなり大変申し訳ありませんでした。以後、気をつけますので」


 涼夜は結愛の鞄を片手に頭を下げた。明日花は首を横に振り笑顔で言った。


「いえいえ、お気になさらず」

「そ、それではまた明日、よろしくお願いし——」

「——高遠さん? 明日は日曜日ですよ?」


 涼夜の眼鏡が傾く。

「し、失礼しました。また来週、よろしくお願いします」

「はい、お任せ下さい。あ、高遠さん? お仕事が忙しいのはわかりますが、休日は結愛ちゃんとの時間も作ってあげて下さいね? なんなら、私が遊びに行きましょうか〜?」

「またまた、ご冗談を」


 二人の会話をじっと聞いていた結愛は目を伏せ頬を膨らませた。涼夜は振り返り結愛の小さな手を取る。結愛は肩をピクリと反応させ、ふと彼を見上げたが、すぐに前を向いて彼の手を逆に引いた。

 頬はほんのりピンク色に染まる。


「べ、別に気にしなくていいのですよ。エモフレは面白いし、クーラーもガンガンに効いていてお家より快適ですから。さ、行きますよ、リョウヤ君」


 膨れっ面のまま黄色い長靴を履いた結愛は、眼鏡の位置を調整する涼夜の手を強く引いた。


 ⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎


 雨はあがった。しかし、降った雨が蒸発し、かなり蒸し暑い。日の長い七月とはいえ、さすがに辺りは暗い。

 地面の水溜りを黄色い長靴で踏む結愛の姿を街灯が照らし涼夜の黒縁眼鏡に映り込む。

 彼の少し前で無邪気に水溜りを踏んでいた結愛はふと振り返った。


「リョウヤ君。明日はお休みですし、結愛はあのお店に行きたいのです」

「かぴばら屋ですか。たまには悪くありませんが、しかし締め切——」

「い、き、た、い、の、で、す!」


 彼女を街灯というスポットライトが再び照らす。笑顔とは程遠い、威圧の類いの眼差し。

 彼女は両手を後ろで組み、一歩、また一歩と涼夜に歩み寄り目の前まで来ると、その大きなジト目でじ〜っと見上げた。

 ——上目遣いだ。


「だめ、ですか?」


 涼夜の黒縁眼鏡が傾いた。


「……わかりました。でも、ひとまず家に帰って着替えてからにしましょう。服も濡れてしまいましたし。それでいいですか?」

「……っ! ……し、仕方ないですね、それでいいのですよ?」


 笑わないが、それでも嬉しそうな結愛を見て頭を掻く涼夜。どうやら彼は、彼女のおねだりにめっぽう弱い様子だ。

 年長組の五歳児とは思えないほど綺麗に整った顔立ちの所為か、——それとも。


 それはさておき、——かぴばら屋とは、二人の住むマンションから徒歩で数分の位置にある個人のお好み焼き屋のことである。

 支度を済ませた二人はさびれた商店街を抜けて人気ひとけのない路地裏に入る。すると淡い光を放つ赤提灯が視界に入ってきた。

 いかにも隠れ家なこの店こそ、鉄板焼きかぴばら屋である。二人は暖簾を潜り入店した。


「らっしゃい」


 ぶっきらぼうな声が出迎える。

 結愛はその声を無視してカウンターの席に座る。涼夜はそんな結愛を追うようにして隣に腰掛けた。

 店主が水を出すと、結愛は慣れた口調で淡々と注文する。かぴばら焼きを一枚、海鮮オムそばを一つ、そしてオレンジジュースを注文した。


「結愛ちゃん、とんぺい焼きは食べないのですか? いつも頼むのに」

「……別に」


 注文したオレンジジュースが結愛の前に差し出された。結愛は無言で手を伸ばしたが、一旦その手を引っ込める。


「そうですか、ダイエット中ですか」

「……デリカシーがありませんね、リョウヤ君は。そんなことじゃ女の子にモテませんよ」

「……これは失礼しました。ただ、女の子にモテたいとは、……思いませんね」


 二人の間に沈黙がはしる。結愛はオレンジジュースを手に取り一口飲むと頬を緩め、五歳児とは思えない流し目で涼夜の横顔を拝む。

 すると、沈黙を切るように店主が焼き立てのかぴばら焼きを差し出した。


「結愛のほうこそデリカシーがありませんでしたね、ごめんなさい、リョウヤ君」

「構いませんよ、結愛ちゃんはまだ子供ですからそんなことを気にしなくていいのです。さ、冷めないうちに食べましょう」

「子供じゃないのです。いただきます」

「断じて子供です。いただきます」


 涼夜はかぴばら焼き、——所謂ミックス焼きを小さめに切り分け結愛の皿によそった。結愛は無言でそれを受け取り、念願のかぴばら焼きを堪能するのであった。


 ⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎


 帰り道、辺りはすっかり暗くなっている。

 結愛は涼夜の手を引いて少し前を歩く。先ほどの通り雨で出来た水溜りを避けながら商店街に入ると、ふと足を止めた結愛は涼夜に振り返る。


「わがままを聞いてくれて、ありがとうです、リョウヤ君」


 表情は変わらない。彼女は、——笑わない。


 しかし、涼夜に感謝は告げた。涼夜は腰を低くして結愛と目線を合わせた。


「結愛ちゃんはまだ子供です。わがままくらい、言ってもいいのですよ?」


 結愛は横を向いてしまう。そして無言で涼夜の手を引く。まるで子供の手を引く母親のように。


 ⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎


 程なくして引きずられてきた涼夜と、引きずってきた結愛は自宅マンションに到着。

 五階建ての五階、五◯一号室の玄関の扉を開ける。静かな廊下に、キュゥゥ、と金属音が響く。


「キュゥ〜ウゥゥ!」


 否、それは金属音ではなく、鳴き声と言った方がしっくりくる訳で、


「キュキュッ、キュウ!」


 あたかも自宅に客を招き入れるかのような仕草のソレを一言で言い表すならば、


「ケモミミ……少女……」

 涼夜の黒縁眼鏡が傾くのとほぼ同時に、

「エモフレ……」

 大きなジト目を丸くした結愛も思わずそう口にした。不法侵入者は白い髪に同じく白い獣の耳をつけ、更に白いワンピースの下から九つの白い尻尾をぶら下げた女だった訳で、条件反射的に涼夜は行動に出た。


「ひとまず、警察を呼びましょうか」


 スマホを取り出した涼夜を見た不法侵入者コスプレ変態は、大きな翡翠色の瞳を瞬かせた。



 

 

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