せめて異世界では普通になりたかった

四片紫

第1章 普通じゃない人たち

01 異世界のおっさん


 昔々、異世界より英雄が現われた。その青年は人ならざる力を持ち、人々を苦しめていた魔物を次々と倒していった。その活劇に人々は歓喜し、青年を『神の子』と呼んで崇め奉った。


 人々の祈りと願いを一身に受けた青年は、魔物の巣窟に足を踏み入れる。そこにいたのは語るもおぞましい、異形の親玉。青年は果敢にもその怪物に挑みかかり、命を賭して、見事退治してみせた。こうして人々は平和と安寧を手に入れたのだった。


 めでたしめでたし。で、終わるはずの物語だった。



◆◆◆◆◆



 白昼夢という奴だろうか。田中碧たなかあおいはぼんやりとそんなことを考えていた。だらん、と垂れ下がった両手に血が溜まり始めて少し重たく感じる。何が何だかわからないまま、突如として逆さまになった世界をぼーっと見つめていた。


 何度か瞬きをした後、足元を見上げる。左足首のあたりに縄が巻き付いている。視線で辿っていけば、それは背の高い木の太い枝に括りつけられていた。恐らく動物用の罠といったところだろう。


 変だな、と碧は思った。碧の家の周りは田んぼや林だらけでタヌキやイタチが出たなんて話はよく聞く。だが、さっきまではコンクリートに舗装された道を歩いていたはずだ。最寄り駅から家へ帰る途中のはずだった。


 そう言えば、景色も一変している。そう気づいた瞬間に、パーカーがずり落ちてきて視界を覆った。片手で軽く裾を押さえ、改めて辺りを見回した。人通りの少ない田舎道が、木々の生い茂る森の中になっている。よくわからない夢だな、と。浮かんできた考えは多分、現実逃避だ。そう思える程度には頭の中が冷えてきていた。


 知らない場所、見たこともない景色。そもそも寝た記憶もなかった。持っていた鞄もなくなってしまっている。完全に身一つでよくわからない場所に放り出されてしまったようだ。


 これは――これは、相当ヤバいのではないだろうか。


 込み上げてきた緊張やら焦燥やらを唾とともに呑み込み、再び見下ろした地面はそれなりに遠い。頭から落ちればただでは済まないだろう。碧は取り敢えず上体を起こそうと腹筋に力を込める。


 ――がさり。不意に背後で大きめの音が鳴った。がさがさと草を掻き分けるような音がだんだん近づいてくる。不思議体験の次はホラー? 勘弁してよ。そう思いながらも軋む首を回して、ゆっくりと振り返った。


「…………」


 振り返った先にあったのは股間でした。いや、ちゃんと包まれていたけれども。ちょっと揺れれば鼻先がご挨拶してしまうような距離に人が立っていたのだ。


「……あー……その、大丈夫か?」


 降ってきた言葉はこちらを気遣うもので、碧は内心安堵した。そうこうしている内に、股間が少しだけ遠のく。持ち主が一歩引いたらしい。そのまま膝が折られ、視界の中をものの見事な腹筋と胸筋が通り過ぎていった。そうして今度は人の顔が鼻先まで降りてきた。


 ファンタジーゲームの登場人物のような、壮年の男だった。大振りのアクアマリンのような瞳と、丁寧に撫でつけられたロマンスグレー。頬を走る傷跡と薄い無精髭が男の顔に野性的な風貌を付け足していた。全開のコートからはがっしりとした体躯が晒されている。褐色の肌は太陽のような蛇のようなタトゥーで飾られていた。引き締まった肢体が収まるズボンの腰ベルトには大振りの剣が下げられていた。


「や、ゴメンね。今下ろしてあげるからさ」


「お、ぁ、はい……お願いします……」


 男が再び立ち上がったので碧は素早く前を向いた。ややあって180°回転していた世界が元に戻る。碧はへたりこんだまま、頭を振った。


「大丈夫か?」


 言葉と共に目の前に手が差し出され、おずおずとそれを握る。見た目に違わない力で引っ張り上げられ、碧はたたらを踏みながら立ち上がった。


「えっと、ありがとうございます」


「いいって、いいって。元々こりゃ、おっさんが仕掛けた罠だからなぁ」


「お、わ」


 ぐしゃぐしゃと頭を撫でられ、碧は困惑した。最後にぽんぽんと軽く頭を叩いて、大きな手は離れていった。


「まさか人間がかかるとは思わなかったよ。ほんとゴメンね……怪我ない?」


 男の視線が頭のてっぺんから爪先へと往復して、顔の辺りでぴたりと止まる。碧はふるふると首を横に振る。男は安心したように胸を撫で下ろした。次いで首が傾いで頭上に疑問符が浮かぶ。


「ここらじゃ見ない顔だけど、迷子?」


「……みたい、です」


 碧はパーカーの裾をぎゅ、と握った。視線が自然と地面に落ちる。う~ん、と男の思案する声が降ってくる。


「立ち話もアレだし、おっさん家おいで。お詫びといっちゃなんだけど、お茶も出すからさ」


「ぁ……はい」


 少し迷ったが、ここは好意に甘えることにした。ここがどこかもわからないのだ。一人で歩き回るのは正直怖かった。


「足元気をつけてねー」


 碧はそう言って背を向けた男の後を小走りで追った。広い背中だ。コートを羽織っていても分厚い筋肉が浮いて見えている。日本人ではないのだろうな、と碧はぼんやり考えていた。そこでふと、あることに気づいた。


「あ、あの……」


「んー?」


 男は首だけ振り返って碧を見る。


「今更ですけど、その……お名前は?」


 男の身体が一瞬強張るのがわかった。どうしてかわからないが、まずいことを聞いてしまったのだろう。気づいた碧は質問を撤回しようと口を開いた。が、それよりも早く、男がへらりと笑った。


「おっさんはおっさんだよ……そう言う君は?」


 不明瞭な答えと、オウム返しの問。碧は少し迷ったが、素直に自分の名を告げた。


「ふーん、アオイね。うん、覚えた」


 それきり男は前を向いてしまったので、碧も口をつぐんだ。それから数分とかからずに森は開け、木々に遮られていた日差しがまともに差し込んでくる。碧は手をかざして目を細めた。


 光に慣れた目に入ったのは、赤レンガの屋根の小さな一軒家だ。近くには畑と井戸がある。少し向こうには小屋が2つほど連なっていた。小屋の辺りからは何かの鳴き声が聞こえてくる。ペットか家畜の小屋なのだろう。


「ほい、おっさんのお城にようこそ」


「……失礼、します」


 おどける男の目尻に皺が刻まれる。恭しく開けられたドアをくぐり、碧は部屋の中を見渡した。正面にある大きな窓が一際目を引く。その窓の傍に背の高いテーブルと椅子が2脚置かれていた。部屋の真ん中にはこれまた大きなソファが置いてある。ソファの対面の壁には本棚があり、中には雑誌や分厚い本などが詰め込まれていた。


 椅子の一つを勧められ、碧は大人しく腰を下ろした。男は簡易キッチンで湯を沸かし始めている。簡易キッチンの傍らには大きな戸棚があり、男はそこから 2種類のカップとティーポットを取り出した。


「寂しい部屋でしょ、独り身だかんね」


 部屋を見回す視線に気づいたのか、男がからからと笑う。やがてマグカップとコーヒーカップを手に振り返った。


「ほい、どーぞ」


 言いながら碧の向かいに腰を下ろした。マグカップを碧の手元へと押しやり、自分はコーヒーカップを傾ける。碧もそれを見つつ、マグカップに口をつけた。温かくていい匂いだ。緊張や強張りが溶けていくような気がする。


「ところでさ」


 こつりとカップがテーブルに戻される。碧もマグカップをゆっくりと置いた。


「ここがどの辺かはわかる?」


「……いえ」


 わからないと言うよりは、答えたくなかった。明確に口にしたくなかったのだ。そっかぁ、と呟いた男は窓の外へ目をやった。つられて碧もそちらを向く。差し込んでいた光が、不意に途絶えた。碧は空を見上げる。そうして、太陽を覆い隠していたのが雲ではないと知る。


「……」


「うわー……あそこまででっかいのは久々に見るねぇ」


 言葉を失った碧をよそに男は窓の外を眺めてのんびりと言った。視線の先にはトカゲに似た鱗に覆われた生き物がいる。トカゲには本来無い筈のパーツ――コウモリの様な翼を、悠々と羽ばたかせて空を飛んでいた。


 碧は無意識に開いていた口を閉じ、唇を噛み締めた。ぐるぐると思考がかき回されているような気がした。


「どした? 怖いの?」


「……」


 碧は声を出せないまま、こくりと頷いた。男が手を伸ばしてくる。くしゃくしゃとまた頭を撫でられ、深く俯く。


「アイツらは基本大人しいから大丈夫だよ。おっさんもそれなりに腕は立つしね」


 見よ、この筋肉! と男は袖をまくって盛り上がった上腕二頭筋を見せつけてくる。厳つい顔と身体に似合わない口調と仕草に、碧は思わず笑みを零した。すると男も嬉しそうに笑う。そうしておもむろに立ち上がると、本棚から一冊の冊子を取り出して開いた。ガイドブックか何かのようだ。折りたたまれていたページを開き、机の上に広げる。


 それは、見慣れた世界地図とは似ても似つかない形をしていた。男が一際大きな大陸を指差す。


「ここはミズガルド大陸の南側、領土的にはノア王国の管轄内ね……大体、この辺りかな」


 男の太い指がトントンと大陸を横断する山脈の辺りを叩く。ノア王国――当然、聞いたことのない国だった。カップを握り締めた手に、無意識に力がこもる。


「君が元居た場所からすれば、ここはいわゆる『異世界』ってやつだ」


 急に胃が重たくなったような気がした。指先が冷たくなっていくせいで、カップが妙に熱く感じる。顔も血の気が引いているのだろう。


「な、んで……」


 震える唇に合わせて声が途切れる。思わず顔を上げた碧の視線を捉えて、男は柔らかく微笑んだ。


「いやね? おっさん、遠くから見ちゃったのよ……君が落ちてくるとこ」


 言葉が出てこない。男は再びコーヒーカップに口をつけた。


「後、印があったからさ」


「印……?」


 男がコートのポケットからハンカチを取り出す。机の上に置かれたそれにはワンポイントで犬の足跡を模した赤い模様が刺繍されている。


「これと同じ紋様が君の腰骨らへんにあったんだ」


 碧は慌ててパーカーを捲り上げた。そこには男のハンカチと全く同じ鮮やかな赤い紋様が浮かび上がっている。思わず手でこすったが消えることはなかった。


「タトゥーとかいれてた?」


 身に覚えなど全くない。碧は静かに首を横に振る。だろうね、と男は小さく笑った。


「戸惑うのも無理ないだろうね、前もそうだったからさ」


「前……?」


「20数年くらい前かな、ノア王国のど真ん中に落ちてきたのよ」


 当時は大騒ぎだったよ、と男は少し苦い顔で語った。空から突然降ってきたものだから、天使様だの神の子だのと、一躍時の人となったそうだ。


「まぁ、本当のところこれといって特別な事も何もない、ただの人間だったんだけどねぇ」


 そうだろうな、と碧は思う。碧自身も特に身体に変化も異常もないのだ。元々ただの高校生、何だったら貧弱な部類だ。特別な力などあるはずもなかった。


「それでも、『異世界からやってきた』ってのがステータスになっちゃったのね。何か特別な力があるはずだー、なんて信じ込んだノアの王様やら国民やらに駆り立てられて化け物退治に出掛けて――消息不明」


 背中を氷でなぞられたように鳥肌が立った。男は憂うように視線を落とすと、小さくため息を吐いた。


「向かった先が危険地帯なもんだから、誰にも探せない。しかも足取りが途絶えたのとほぼ同時に、化け物は姿を見せなくなった」


「それは……」


 想像を言葉に出来ず、碧は口を閉じた。が、何を言おうとしたのか分かったのだろう。きっと誰でもそう思う。男はこくりと頷いた。


「刺し違えたんだろうって、皆信じてる。命を賭して、打ち取ったんだろうって。でも、誰も知らない」


 本当のところは、誰も。碧は再びマグカップの水面に視線を落とした。いつの間にか湯気は途絶えていた。


「そんな前例があるからね。君が異世界から来たのがってバレたら、まず間違いなくあの時みたいに祭り上げられると思うのよ」


 男の目は遠い。その時のことを思い出しているのだろうか。


「あの時のノアの熱狂ぶりには正直引いたよね」


 だってどっからどう見てもフッツ―の子供だったんだよ、と男は続ける。特にガタイが良いわけでもない。特別な力なんてあるはずもない。この世界の子供と何の違いもない、普通の子供だった。そんな子供に王国の期待を託して――否、背負わせて、死地に追いやったのだ。


「……おっさんは理解できなかったよ」


 男は目を伏せた。悲しそうに、悔しそうに表情が歪む。一度大きく息を吐くと、コーヒーカップを傾けて飲み干した。こつん、とカップを置く音がやけに大きく聞こえた。


「おっさん、君が同じ目に合うのは忍びないのよね」


 男はぽりぽりと頬を掻いて続ける。


「見ず知らずの人間信じるのは難しいかも知んないけど、さ。どうせ行く宛もないよね?」


 碧はこくりと頷いた。


「しばらくここでおっさんと暮らしてみない?」


 へら、と男が笑う。含みのない、優しい笑みだ。緊張が溶けて目尻から流れ落ちていく。伸びてきた指先がそれを優しく拭っていった。


「よろしく、お願いします……」


 こうして、不思議な男と碧の同居生活が幕を上げた。

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