Song for you ―貴方がいたから―

天沢真琴

第1話 懐古







……ゆう……いち……悠一……



――遠くからとても懐かしい声がする。よく知っている、そのやさしい声。


 ゆっくり瞼を開くと、そこには眩い朝日を背に受けて加賀谷が立っていた。

 やさしい眼差しで俺を見つめている。


「……悠一、どうしたの!? 何泣いてるの!?」


「え……? あれ……?」


 仰向けで寝ている目じりの端から自分の意志とは関係なく、涙の粒がぽろぽろと零れている。


――なんでだろ。加賀谷を見たとたん酷く懐かしくて、切なくなって……。


「……大丈夫?」


 心配そうに加賀谷が覗き込む。氷川はベッドからゆっくり身体を起こし、辺りを見回して大きく息を吐いた。


「そっか、俺たち引越ししたんだっけ」


 プロデビュー後、氷川と加賀谷は事務所側が用意したマンションへと引っ越す事となり各々に部屋が与えられていた。無論事務所側はふたりの関係を知る由もなく、単なるルームシェアの関係だと思ったマネージャーが気を利かせて個別に部屋を用意してくれたのだが。同じマンションで同じ階、隣り合わせの部屋。

 昨夜、仕事からの帰り。加賀谷は氷川の部屋に寄ってすぐに自分の部屋へ帰るつもりだったのだが、疲れもあってそのまま氷川と一緒に眠ってしまい、一晩を過ごしてしまっていた。先に起きた加賀谷はすでに身支度を整えている。

 どちらの部屋に泊まってもいいよう、互いに最低限の着替えや日用品がそれぞれの部屋に置かれていた。


「悠一、大丈夫ならそろそろ起きないと……遅刻するよ?」


 困ったような笑顔で加賀谷がそっと手を伸ばした。ベッドの上に座っている氷川の頬をそっと撫で、指先で顎を軽く持ち上げる。腰を屈めてそっと唇を重ねようとした、その時だった。

 けたたましくドアフォンの呼び鈴が鳴り、モニターから聞き覚えのある声が響く。


「悠一! まだ寝てんのか!? 遅刻すんぞ!」


「ええっ!? キョウ!? なんで!?」


 ふたりの肩が同時にびくりと跳ね上がり、思わず顔を見合わせる。一週間前に皆川も同じマンションに越してきていたのだ。

 真野、千葉、薬師丸の三人はそれぞれ自分で好きに部屋を見つけて都内に越してきていた。

 最初は自分で部屋を探していた皆川だったが、氷川と加賀谷が事務所に世話をしてた貰った事をどこからか聞きつけてそれに便乗したのである。今朝はどうやら遅刻するだろうと踏んで氷川を呼びに来たらしい。


「ど、どうしよう!」


 手探りで枕もとの眼鏡を探し、慌ててかける。


「あ、僕が出るとマズイよね?」


 苦笑いをしながら加賀谷が言うと、氷川はぶんぶんと音が出るくらいに頷いてベッドから飛び降りた。

 バタバタと駆け出しキッチンの壁にあるインターホンに向かって叫ぶ。


「き、キョウ、今、起きたばっかだから、先に行ってて!」


 モニターにはいっぱいに皆川のアップの顔が映し出されている。

 氷川のその返事にインターホン越しに怪訝そうな声が聞こえてきた。


「ったく。加賀谷さんももういなかったし、悠一は案の定だし。分かったよ、先に事務所行ってるから。いいか、起こしたからな! 二度寝すんなよ!?」


 カメラに向かって指をさし念を押す皆川。ふいに踵を返しパタパタと走り去っていく。

 皆川が去り、ふたりはふぅと息を吐いた。

 未だにふたりの関係はメンバーの真野以外、誰にも知られていない。


「悠一、取り合えず僕、行った方がいいのかな? キョウには僕は既に事務所に向かった事になってるし……」


 苦笑しながら加賀谷が言うと、氷川は両手を高く挙げて大きく伸びをしながら答えた。


「うん、俺も直ぐに行くよ。遠慮しないで先に行ってて」


「うん、分かった」


 加賀谷はソファの上にあった自分のバックを手にして玄関へと向かう。その後ろを氷川がついていく。


「いい、遅刻しちゃダメだよ?」


 加賀谷が靴を履きながら促すと氷川は苦笑いをして頭を掻く。


「分かってるって」


「じゃ、先に行くね」


 立ち上がり振り返ると氷川の顎に指を掛け自分の方へと引き寄せる。


「んっ……」


 軽く唇が重なり合う。ほんのひと時。


「また、後でね」


 加賀谷はにっこり微笑むと、ドアを少し開いて周りの様子を確認してから出て行った。

 デビュー以来どこで誰が見ているか分からない、その視線の恐怖。常に他人の目を意識し、出来るだけ人目につかないよう、気を配っていた。

 それはふたりの関係を大切に守りたいと思う加賀谷の強い気持ちの現われでもあった。


 そんな加賀谷を見送ってひとり部屋で身支度を整える。

 ふと手を止めて氷川は目覚めた時の事を思い出していた。いつも耳にしている筈の加賀谷の声が、妙に懐かしく、切なくて。


「……でも、なんであんなに……懐かしく感じたんだろ」


 思わず胸に手を当てる。


――胸が……締め付けられるようだった。


 ぎゅっと胸に当てていた手を握る。

 その瞬間テーブルの上にあった携帯が音をたて、ラインの新着メッセージを告げる。


「あ、加賀谷からだ」


 携帯を手に取り、メッセージの内容を確認する。


『悠一、もう家を出た頃かな?』


「……いっけね、早く行かないと!」


 氷川は慌てて身支度を済ませると部屋を飛び出した。






 梅雨が明けた夏の日。

 その強い日差しの中、加賀谷や Clouds and wind (クラウドアンドウィンド) のメンバーの待つ事務所へと向かう。

 二週間前に発売されたデビューシングルも週間売り上げ初登場でランキング九位に入るという快挙を成し、これから益々忙しくなる事は目に見えている。

 デビューシングルのプロモーションで深夜帯の音楽番組に出演してから急に仕事が増え、今日も雑誌の取材が入っている。

 プロデビューして自分達の歌が世間に受け入れられた、その喜び。そしての期待に対する少しの不安。

 そんな思いを胸に、氷川は駅までの道のりを駆けていった。



 夏の風が氷川の頬を掠めて行く。

 夏の暑さが氷川の胸をも熱くしていく、そんな始まりの日だった。

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