18. Into the past

 非日常の匂い。いくつかの見舞いの品。差し込む斜陽。一つの丸椅子。一つの寝台。

 病室に来るまでに刹華と羽月が交わした会話は、いつもよりもぎこちない挨拶と刹華の腕が大丈夫であるかという話だけだった。

「本当に、ありがとう」

 話を切り出したのは、羽月の方だった。その言葉にいつも通りの対応をしようと意識する刹華だったが、そのいつも通りを思い出せなかった。

「……大したことじゃねえよ。骨折程度、適当に治るだろ」

 これがいつも通りなのか不安になりながらも、刹華は恐る恐る強がってみせる。

「そうじゃなくて」

 しかし、羽月は強めの語調で、刹華の言葉を否定した。

「……そうじゃなくて、火神さんのこと」

 羽月が恐る恐る口にした火神という名前に、刹華の表情が強張る。

「……ありがとうね、庇ってくれて。なんとなくそんな気はしてたんだよ……火神、無実だったんだよね」

 何と返すべきか刹華は少しだけ迷ったが、

「……ああ」

 やがて諦めたように肯定した。

「刹華、隠し事が下手なんだよ。読み合いみたいなギャンブルに向いてないから、やっちゃダメだよ。絶対に大損するから」

「……そうだな」

 そんなことをする気もない。金も、意思も、もしかすると未来も。

「ごめん……こんなことに巻き込んじゃって……私、いつもこんなのばっかりで……」

「……お前は何も悪くない。謝るなよ」

 悪いのは運だ。そう考えたい。しかし、心の何処かで誰かが囁く。「お前達が追い詰めた。お前達が殺した」と。

 こんな傷、どうしょうもない。

「私もそう思いたいよ。でも、分からなくなるんだ……私が火神さんを捕まえるって言わなければ、こんなことにはならなかったんじゃないかって。弟のことを諦めていれば……」

「言うなよ……そんなこと」

 刹華が咎めたその言葉に、羽月はごめんと、短く謝った。

「……それに、火神の言動であたしが冤罪だって思っただけだ。あいつが嘘をついてた可能性だって……」

「同じだよ。根拠はないけど……多分、刹華は間違ってない。こんな場面で刹華を信じてるなんて、言いたくなかったよ……」

「……馬鹿じゃねえのか。あたしなんか、信じるんじゃねえよ」

 あまりにも皮肉な結末。泥水のようなそれが、傷口に染み込んでくる。

「……弟の手術の日が決まったんだ。なのに……これでやっと目が覚めるかもしれないのに……素直に喜べなくて……」

 羽月の悲痛な表情が、どうしょうもない傷を抉り続ける。

「……刹華、私達はいけないことをしたのかな……多分、私達は法律で裁かれることはないと思う。でも、それが悪いことだという保証は何処にも無いから……分からなくなっちゃって……」

「悪いことな訳ねえだろ……弟を、助けたかったんだろ」

 刹華は、自分でもよく分からないことを口にしていた。そんな理由にもならない理由で納得する筈もない事くらい、分かり切っていた。羽月も。刹華自身も。

「……そうだよね。ごめんね愚痴っちゃって。いつも変なところで迷惑かけちゃって、本当に……」

 羽月の表情が、全ての答えだった。

「……ごめん」

 この場所でどんなに時間をかけても、二人の傷が癒える気はしなかった。




 退院の日は二週間後に訪れた。完治はしたものの、検査の結果に妙な値が出ていた為、医師からもう少し調べさせて欲しいとの申し出があったが、刹華は断って病院を後にした。

 七月半ば、そろそろ学生は夏休み期間に入るという頃。冗談のように晴れ渡った空と、迷惑にもそこから強かに降り注ぐ日差し。エアコンの効いた屋内から外へ出てきた刹華には、なかなか過酷な環境のようである。彼女の心情と同様に。

 歩いて寮まで帰る道程は、刹華にとって大した距離ではない。ただ、容赦なく降り注ぐ日差しが刹華の黒髪を熱し、あちらこちらから流れ出る汗がただ不快だった。手に持った紙袋の取っ手が帰りまで保つかというのも不安だった。

 使われることの多い大通りを、ぼんやりと歩く。今日が日曜日ということもあり、群衆を鬱陶しく感じてしまう。ただ、笑いながら歩いているだけなのに、人はこんなにも鬱陶しかっただろうかと考えてしまう。性格が悪いなと、自虐の言葉を心に生み落とした時だった。通りの向こう側に、見知った顔を見つけた。ネットに刹華の写真をばら撒いた女子中学生が、四つ角の対角で信号待ちをしていた。歩車分離式なので、互いに止まったまま、気がつくと刹華はその姿を見つめていた。

 不意に、女子中学生と目が合う。彼女は刹華の姿に気がつくと、困惑した表情でほんの少し迷ったような仕草をし、刹華から遠ざかるように反対側へと逃げていった。自分の口から言葉のような何かが漏れそうになった刹華は、自分の中にあった感情に気がつく。

『別に、正義感があることは悪いことじゃない。特別な力があることだって、悪いことじゃない。その結果、自分が後悔しないようにきちんと考えて動くことが大事なんだろ』

 過去の自分の言葉が、心臓に突き刺さったような感覚を覚えた。目眩を感じる気がするのは、きっとこの暑さだけのせいではない。

「……合わせる顔がねえよな」

 彼女に逃げられたことに安堵した自分に、罪悪感がのしかかった。




 寮の前まで辿り着いた時、刹華は足を止めた。早く涼しい場所で落ち着きたいのは山々ではあったが、当然、刹華がそれを躊躇う理由がそこにある。

 羽月に、どんな顔で会えばいいのだろうか。

 二の足を踏み続ける自分に嫌気が差すが、それでもなかなか敷地内に踏み込めない。こんなことではきっと部屋の前ではもっと足が重たくなることだろうと、暗く淀んだ気持ちのまま刹華は敷地に踏み込もうとした。

「……おお、ナイスタイミングだな。喜べ。迎えに来てやったぞ」

 が、寮から出てきた人物に声をかけられ、刹華は踏み込むのをやめた。正確に言えば、体が硬直して動きが止まった。

「せ、先生?」

 刹華に先生と呼ばれた長身の女性は、刹華の裏返った声を聞きながら、寮の玄関から愉快そうに近づいてくる。

「最近忙しそうにしてると思ったら、入院したって聞いて笑ったぜ。何処に入院したのか忘れちまったから確認しに来たら、今日退院って言われて二回目の大爆笑。ま、そんなこんなよ。何処折ったんだ? 腕か? 脚か? 肋骨? 頭蓋骨?」

「いや、まあ……右腕ですけど」

 手が届く所まで歩いて来た女性は、珍しく敬語を使う刹華の腕を掴むと、Tシャツの袖から伸びるそれをしげしげと眺める。

「ほお……手術の跡まで治ってんのかよ。やっぱレッダーのポテンシャルすげーよな。もしかして、上半身と下半身が千切られても二人になって再生すんじゃねーの?」

「あたしをプラナリアみたいに言わないで下さいよ。多分普通に……」

 刹華は、続きを口にするのを少しだけ躊躇したが、

「……死にますよ」

 先生に気取られまいと、無理矢理言葉を繋げた。

「ま、流石にか。しかしプラナリアとかよく覚えてんな。名前聞くまで脳味噌から存在を抹消してたわ」

「前、先生が水族館に連れて行ってくれたじゃないですか。あの時、印象的だったから覚えてたんですよ」

「だっけ? よく覚えてねえけど、まあいいか。刹華、久々に遊びに行こうぜ。店開けるのは昼からだからよ。ボーリング行くぞ。奢ってやる」

 女性は刹華の腕を掴むと、そのまま無理矢理に引っ張ろうとする。

「ちょっ、ちょっと待ってください!ルームメイトに午前中には帰るって言ってるんですよ」

「あ? んなもん電話で遅くなるって一言言っときゃいいだろうが。電話貸すからボーリング場行きながら連絡しろよ。いいだろ?」

 刹華は短い間に色々なことを考えたが、精神的に弱っていたせいか、一時的に逃げる方を選んだ。

「……ケータイ、自分のがあるので大丈夫です」

 それと同時に、先生に携帯電話を持ったことを伝え損ねていたことを思い出した。




 篝坂安曇かがりざかあずみ。下手な男性に勝る長身、黒い長髪、強気な顔。人格に多少難があるものの、面倒見の良い姉御肌、というより兄貴肌。豪快な立ち振る舞いについて周囲から賛否両論ではあるが、賛否どちら側からも彼女への評価はおおむね「おかしい」に帰結する。誰がそう呼び始めたのかは分からないが、三田ヶ谷商店街最強の女などと呼ばれることもある。

 そして、刹華は彼女を先生と呼び、慕っていた。

「久々にボーリングしたけど、まあミスるよな。初めて負けるかと思ったぜ」

「……あれで負ける相手、プロボウラーくらいじゃないんですか」

 最初の一投だけGと書かれた安曇のスコアシートを見ながら、苦笑いをするしかない刹華。刹華も二百点を越えてはいたのだが、比べるまでもなく惨敗である。安曇の投球は、ガーターの後がスペア、その先は全てストライクだったのだから。

「ボウリングってのは、最後は精神が出る。だけどその前に、お前は力任せ過ぎるんだよ。もう少し肩の力抜け」

 刹華は、一回だけ隣のレーンまでピンを弾き飛ばしてしまったことを思い出して赤面した。隣に安曇がいた事もあり、謝る姿はバイトの時のそれであった。

「そ……そういえば、前使ってたローラースケート、使うのやめたんですか?」

 恥ずかしくなってしまい、話の路線を変更する刹華。

「ああ、インラインスケートな。商店街の連中から危ねえって言われてやめた」

「ま、まあ……あたしが走るのと同じくらいの速さでしたし……」

「事故んねえっつっても聞かねえしよぉ。頑固なもんだぜ連中。ま、あんくらい頭硬え奴らじゃねえと、あたしのストッパーになんねえか」

 商店街の人達が束でかかっても、本気になった彼女を止めるのは不可能なのでは。刹華がそんなことを思っている間に、二人は商店街の入り口まで辿り着いていた。八百屋の男は何やら奥さんに𠮟られているが、向かいの魚屋はそれを見てニヤニヤ笑っていた。

「おう刹華。今日はセンセーと一緒か。子供の遊び相手か?」

 彼は気さくに、二人に声をかける。

「あたしが手伝いに来いよって言ったんだよ。リハビリみたいなもんだ」

「はっはっは、そりゃ気の毒に。刹華、大変だったら俺みたいに出来る奴に任せちまえよ。多少手ぇ抜いても罰は当たんねえからな!」

 そんなことを言う魚屋の背後に、彼の奥さんが腕組みをして立っていることに気がついたが、刹華は曖昧に手を振って通り過ぎた。通り過ぎた後で聞こえた魚屋の悲鳴は、二人揃って聞かなかったことにした。あそこの奥さんは怒ると恐ろしいことで有名なのだ。

 当初の予定では、刹華はすぐに帰る予定だったのだが、安曇の強い要望により、店の手伝いをすることになっていた。安曇の店はおもちゃ屋。仕事の内容は、遊びに来た子供達の遊び相手。

 刹華は、あまり子供が好きではなかった。

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