16. Into the end point

 廃墟群を揺らすライリーの足音が、二人に畏怖の感情を植えつける。

「鳥のねーちゃん、飛んで逃げようとか考えんじゃねえぞ。そういうハンティングみたいなのは好きじゃねえんだ。一方的に潰しちまうってのは、本当につまんねえ。それに、近隣に住まうクソ共が瓦礫で潰れるのは、互いにあまり気持ちが良いことじゃねえだろ」

 今までの相手と攻撃の規模が違い過ぎる。先ほどと同じように空を逃げ回ることは可能かもしれないが、あれを繰り返すとなると投石により間違い無く廃墟群の外に被害が出る。そもそも、上空で匂いを辿る事は不可能であり、飛んでいる限り火神に辿り着くことが出来ない。だからといって、ライリーを撃退する為に近距離戦を挑むことは、あの規模の力に直接触れることを意味する。

「刹華、一人で走って火神の所に辿り着ける?」

 羽月は、そのままの姿勢で提案する。ライリーに聞こえないよう、小声で。

「……お前はどうするんだよ。飛び回る訳にはいかねぇだろ」

「私のことより、あいつより先に火神を捕まえる事の方が大事。大丈夫、死ぬ気なんてないから」

 刹華は悩む。何か他に良い案が浮かばないかと思案するが、全く思い浮かばない。

「頼んだよ、刹華……ライリーさん、少し落ち着いて話し合いませんか? ここで争うよりも、ちゃんと話し合って、より良い答えを出した方が良いと思うんです。互いの利益の為に」

 羽月は立ち上がり、異形のライリーに交渉を持ちかける。

「あん? お前が俺に利益を提示出来るってのか?」

「そう思いますよ。ライリーさんはバウンティハンターなんですか?」

 ライリーが羽月の意図を汲み倦ねている隙を突いて、刹華は素早く立ち上がりライリーから逃げるような形で走り始めた。

「……おい、お前置いて行かれたぞ」

「あの子、さっきから催していたみたいなので、多分トイレに行ったんだと思います。あまり触れないであげてください。あの子は別にレッダーでもないし、火神のいる場所を知っているのも私ですから、問題ないですよね?」

 羽月も、最初からこんな言い訳が通じるとは思っていない。可能な限り時間を稼ぎ、刹華がライリーに追いつかれる前に火神を確保出来れば何でも良かった。例え自らを人質に取られたとしても、無視させればいい。自分の命を差し出せば弟の手術が出来るのであれば、それは安い買い物だ。懸念材料としては、自分が人質に取られた際に刹華が戻ってきてしまうこと位だろう。

 だから羽月は、刹華が優先順位を間違えないで欲しいとだけ考えていた。

 ライリーは、羽月まで数メートル程のところで立ち止まった。

「まあ、別に構いはしねえさ。ポニーテールのねーちゃんがヒガミの方に向かったんなら、それはそれでいい。二人纏めて捕まえるだけだ」

 それにしては、ライリーの様子がおかしい。刹華が逃げているにも関わらず、随分と余裕を見せている。羽月は何か嫌な予感を感じたが、時間を稼ぐ以外には自分に出来そうな事が無かった。

「……それにしても、すごい力ですね。男性のレッダーは能力が強く出るとは聞いていましたけど、これ程とは思っていませんでした」

「……まあそうだな。女よりもパワフルにはなるみたいだな。ただ、女だからってパワーが劣るってのも違うみたいだけどよ」

「というと、女性も強い力を持つ可能性があると?」

 無駄話で時間を稼ぐ作戦。しかしながら、ライリーはその質問の答えを返さなかった。

「……ところで、ヒガミの場所知ってたら、普通飛んだ時にそこへ向かうよな」

 ライリーの言葉に、羽月はほんの少し動揺した。

「つまり、この辺に居るのは確かだが、お前は知らねえんだ。故に、火神の居場所を知ってるのは、あのポニーテールのねーちゃん、だろう? 嘘吐きねーちゃんよお」

「……そんなに私が信じられませんか」

 信じなくてもいい。少しでもここで時間を使ってくれれば。何なら、腹いせに私を嬲って貰っても構わない。それだけの時間があれば、刹華はきっと探し終えるはず。

 それだけの覚悟を決めていた羽月に対して、ライリーは冷静だった。

「お前を信じるか信じないかじゃねえ。俺は俺を信じるのさ。だから、この会話には意味がねえ……さて、ハンディキャップはこんくらいで十分か」

 ライリーは羽月から視線を逸らすと、明後日の方向に向けてクラウチングスタートの構えをとった。

「日本でいう、鬼ごっこってヤツだな」

 ライリーは走り出す。不吉な笑みを浮かべて。




 刹華は廃墟を走り回っていた。記憶した匂いを探し続けているが、なかなか辿り着かない。匂いに辿り着かないとなると、いっそライリーと最初に出会った地点まで戻った方が早いような気がしてくる。刹華の脚なら、本気で走れば五分もかからない。

 ふと、刹華は羽月のことを考えた。羽月一人でライリーの相手が出来るとは到底思えない。何か策でもあるように振舞っていたが、嫌な予感がする。

 刹華は引き返そうと思ったが、それを行動に移して羽月に怒られずに済んだ。遠くから轟音が鳴り響いている事に気がついたからだ。それも、何かを破壊するような音を交えながら、その音源は近づいてくる。嫌な予感がした刹華は、壊れかけの塀の陰に隠れた。

 刹那、爆音と共に隣の区画の廃ビルの壁が吹き飛んだ。飛び散る瓦礫の破片と砂埃。その中から現れるのは、異形の影。

「……いねえな。この辺じゃなかったか?」

 刹華は塀に隠れたまま、先程の轟音の正体を悟った。あれは、ライリーがこの地点に目掛けて直行してきた音だ。それも、軌道上にある障害物を粉微塵に破壊しながら。

 スピード自体もかなりのもので、あの突進から逃げ切れる自信は刹華にはない。このままでは、隠れながらライリーとの距離を取りつつ火神を探すことになる。持久戦を覚悟したその時、スカートのポケットに入れていた携帯が震えた。慌てて電話を開いて対応する。

『刹華、火神は後回しですぐ逃げて! あんなのに見つかったら終わりだよ!』

 羽月の声色から、ライリーの異常さを知ったんだろうと刹華は理解した。

「ヤツがこっちに来てんだ。少し声抑えろ」

 刹華の発言に間違いはなかった。直後に近くの壁が粉砕されたことで、それは確信に変わった。

「ここか。やっと見つけたぜ」

 壁があった場所には、代わりにライリーが立っていた。その笑みは、誰がどう見ても確実に刹華に向けられていた。

「……『やっと』じゃなくて『もう』の間違いだろ」

「日本語指導ありがとよ、センセー」

 礼を言い終えるや否や、ライリーの腕が空を斬る。間一髪のところで転がるように避けた刹華は、その慣性に身を任せるように走り出した。

『刹華! 何があったの!』

「ライリーに見つかったんだよ! もう切るからな!」

 通話を切ると、刹華は走りながら後方を確認する。案の定、異形の者は猛スピードで迫ってきていた。刹華は疾走しながら獣化を行い、四つ角を右折する。すると、すぐに角のブロック塀が砕け散る音が轟いた。ライリーがカーブをショートカットした音だ。

「ダンプカーじゃねえんだぞ……」

 刹華は高く跳躍し、塀の上に飛び乗る。続いて、壁の抜けたビルの二階へと飛び移る。縦方向の動きに対応できないと踏んでいた刹華は、吹き抜けになっていた階段目掛けて突き進む。階段から上に、窓から窓に。ライリーがこれに対応出来ないならば、彼から逃げ切る事も可能だと考えていた。

 三回程ビル間を渡った頃、刹華は下界の変化に気が付き移動を止めた。耳を澄ましてみても、あの轟音が聞こえなくなっている。立ち止まってみれば静寂そのもの。上手く撒いたのだと判断し、刹華は壁に身を預けて腰を下ろした。呼吸を整え終えたら、隠れながら火神探しを再開すればいい。向かいの壁に空いた穴から外を眺めながら、深呼吸を続ける。あと五回、深呼吸を続けたら立ち上がろう。そう思って二回程深呼吸をした頃、外の景色が傾いた。気のせいかと思ったが、その傾きはだんだんと急になっていく。刹華が座っているコンクリートの傾きも、同じように傾いていくのを感じた。

「冗談だろ……っ!」

 刹華は咄嗟に立ち上がり、向かいの壁の穴まで駆け込み、そこから飛び降りた。三階の高さから飛び降り着地すると、先程まで刹華がいたビルがかつて無い騒音をたてながら倒壊した。飛散するコンクリート等の小さな破片が飛んでくる痛みよりも、耳を劈く地鳴りよりも、この言葉に困る状況がたった一つの生命の仕業だということが刹華を愕然とさせた。

「上に逃げるんなら、全部壊してやるよ……火神もお前も、巻き込まれないといいなあ」

 巻き上がる土煙の中から、ライリーの声が地を這うように響く。

 あまりに力の差が大き過ぎる。火神が近くにいるのに、それを探すことが許されない。このままでは、いずれ自分か火神が瓦礫に潰される。

 勝てない。そう確信した。こんな状況で目的を達成出来る筈がない。下手なことをすれば大惨事を招きかねない。

 近づいてくるライリーの前に、刹華は為す術も無く膝を突いてしまった。

「……諦めたか。賢い判断じゃねえか。嫌いじゃねえ」

 今まで頑張ってきた。羽月も、刹華も。だが、その努力が刹華にとって空虚なものになってしまった。どうしようもない力の前に、全てが無駄になる。終わりが、一歩一歩と近づいてくる。

 諦めて空を仰ぐ刹華。鮮やかな青い空も浮かぶ雲も、絵の中のもののように見える。太陽も、鳥も。その鳥の一羽が近づいてくる姿を、刹華は虚ろな目で捉える。それが近づいてくるにつれて、それが鳥でないことを理解した。

 羽月だった。高速で飛び込んできた羽月は、両手を広げて刹華の身体を抱く。刹華の足は宙に浮き、風の中へと攫われる。

「刹華、大丈夫?」

 風の音の向こう側で破裂音が聞こえ、刹華は我に返った。

「……大丈夫だけど、飛んだらやべえんだろ」

「低空飛行していれば周囲への被害は多分問題ないよ。あいつ聴覚が鋭いみたいだから、爆竹買ってきて近くで鳴らしてやった。少しは怯んでるんじゃない?」

 よく見ると、羽月の腕には白いビニール袋、指の間に青いターボライターが挟まっている。

「ある程度距離を離したら下ろすよ。警察呼んでおいたから、とりあえず到着まで粘って。私は上から、あいつの追跡を妨害する」

「こき使うよな、ほんとに……しかし、警察がアレ止められるのか?」

「知らない。でも、二人よりはマシでしょ。警視監がアレだったってことは、レッダーだからで捕まる訳でもないみたいだし」

 状況が少し、ほんの少しだけ良くなった。あの途方も無い暴力に対して、たったの二人で立ち向かえるだけ。それなのに、折れかけた心がどうして戻ってきたのか、刹華には分からなかった。

 ふと、刹華はあることを思いつく。

「羽月、向こうに行ってくれ。ライリーが最初に壁をブチ抜いたビルの辺りだ」

 羽月は耳を疑った。そんなことをすると、ライリーに今より近づくことになる。大声で反論しようとした羽月だったが、怒鳴る前にその真意に気が付いた。

「……マジでやる気なの?」

「被害を最小限に留めるってんなら、アイツをブッ倒すのが一番だろ」

 リスクを度外視するなら、その言い分は理解できた。理解出来たからこそ、羽月は溜息を吐いた。

「……やる気なら止めないし手は貸すけど、無茶はしないでよ」

「あんな規格外、無茶しねぇと勝てねぇよ」

 ライリーの暴威を止める為には、もうこの方法しかなかった。




 ライリーは耳鳴りに苦しんでいた。鋭い聴覚は爆竹の破裂音を過剰に捉え、耳鳴りのせいで飛び去っていった刹華と羽月の場所を捉えられずにいた。

「ふざけてくれるじゃねえか」

 だが、それも十数秒の話だ。耳鳴りはすぐに収まり、二人の居場所の特定を再開する。耳を澄まし、索敵を行う。遠くの雑踏の中で、一際近い足音を探そうとしたが、相手が飛んでいることをすぐに思い出した。一人ならともかく、人を担いでそこまで長い間滞空出来るとは思っていない。なのでライリーは、着地音を探すことにした。

 そして、その予想は的中した。飛び去った方角とは真逆の地点で、一人分の着地する音がした。つまり、鳥のレッダーは依然として飛んでいる。そちらを狙うのは無駄だが、先程のような妨害には気をつけなくてはならない。とはいえ、あんな非力そうな奴に出来ることなどたかが知れていると、ライリーは思い直した。

 と、ライリーは不思議なことに気がついた。足音がゆっくりなのだ。先程の着地音から足音が歩くリズムで続き、遂には止まってしまった。

「……誘ってんのか?」

 罠を仕掛けるような時間があったとは思えない。ただ、爆竹で攻撃するような真似をしたということは、こちらの聴力について気が付いているとライリーは考えていた。

 考えを巡らせていると、先程の方向から再び音がした。今度は足音というより、足を鳴らすような音。それは間違いなく挑発であると、ライリーは解釈した。

「面白ぇ……思惑ごとぶっ壊してやる」

 即座に構えると、ライリーは直線距離のコースを猛進及び破壊し始めた。立ち塞がる壁を次々に粉砕し、モンスターマシンのようなスピードで突き進む。

 十数秒ほど突き進んだところで、ライリーは進路上から少しずれた所に刹華を発見した。少しだけ慣性で前に滑りながらも、ライリーはブレーキをかけて止まった。

「よお。投了する気でもなさそうだな」

 ライリーがにやりと笑うと、刹華は険しい表情のまま交戦する構えをとった。

「来いよ、イノシシ野郎。とっとと終わらせるぞ」

「いいねぇその度胸。叩き潰してやるが、死んでくれるなよ。お前が惜しくなってきた」

 その会話の終わりは、終幕の合図だった。ライリーは先程までと同じように、刹華に向けて突進する。ライリーの角が刹華に接触する寸前、衝突を避けようとした刹華だったが、背後の壁とライリーの衝突に右手が巻き込まれる。ライリーは予定通りの進路を辿り、ビルの壁をぶち抜いて屋内へと突入した。

 まともに動かなくなった右腕の痛みに呻きつつも、刹華はライリーを追ってビルの中に侵入する。

「向かってくんのか逃げてんのか……日本人特有の曖昧な姿勢か? 諦めろよ。勝負はついてる。ヒガミの居場所を言え」

 瓦礫が飛び散る伽藍洞のビルの中で、ライリーは不服そうに佇んでいる。一定の距離をふらふらと保ち続けながら、刹華は左手で手招きする。

「潰してみろよ。早く……」

「死にてえのかよ。ガッカリだ」

 クラウチングスタートの構え。諦めたライリーと、諦めていない刹華。

「かかって来いよオラァ!」

 刹華の怒鳴り声をスターターピストルに、ライリーは一瞬で最高速度まで加速した。その凄まじい運動量は、刹華の正面へと向けられている。

 一秒も無い、それこそ一瞬の出来事だった。刹華は跳んだ。陸上選手顔負けの背面跳びで、ライリーを突進を回避した。その結果、ライリーは刹華の背後にあった壁を豪快に突き破る。その先には、老朽化によって地下まで突き抜けてしまった床。空中に放り出されたライリーはブレーキをかけることが出来ず、地下へと転落する。軌道上に大きな柱が立っていたことで、ライリーは柱を粉砕する羽目になった。

「刹華!」

 呼び声の主は当然羽月。壁に空いていた大穴から文字通り飛び込むことで、負傷した刹華をビルの外へと連れ出す役目を無事成し遂げる。刹華の怒鳴り声は、それを知らせる為の合図だった。

 一番大きな支えを失ったビルは、最後の悲鳴のような轟音と大量の土煙を生み出しながら、ものの見事に倒壊した。




「……派手にやったね。こんなに間近でビルの解体現場を見ることになるとは思わなかったよ」

「他人事みたいに言うなよ……柱にぶつけるルートまで考えたのは羽月だろ」

「それはそうなんだけど、ビルの地下に落とすっていう刹華の案だけだったら、這い上がって追っかけてくる気がしたし。それに、ビルの倒壊は狙えたら狙うくらいのアレだった訳で……」

 瓦礫の山の前で呆然とする二人。

「……流石にこれは死んだんじゃねえのか」

 訳の分からない速度で吹っ飛びながら地下へと転落し、ビル一棟分の瓦礫を頭上に降らされた生物が生還する可能性。それがゼロでないというのならば何なのだろうか。

「正当防衛……だよな?」

「……分からない。法律も、流石にあそこまでの規格外を想定してないと思うよ」

「そうかもしれねえけど、正当防衛か向こうの自爆であって欲しいだろ。じゃないと、あたしは殺人でお前は殺人教唆だぜ?」

「聞こえなーい。私は火神を捕まえるまで捕まる訳にはいかなーい」

「……お前、時々血も涙も無い鬼みたいなこと言うよな」

 他に方法が思いつかなかったとはいえ、自分達が殺されかねない危険な存在だったとはいえ、尊い人の命が失われてしまったと思うと、二人の精神にどんよりとしたものが漂う。

「……とにかく、火神を探さないと。遠くに行ってないと良いけど」

「ああ、それなんだけどな……」

 刹華の言葉を遮るものについて、二人は全く想像も想定もしていなかった。瓦礫の山の一角が崩れる音。そして現れる、一つの影。

 ライリー=ヴァーデック。規格外の凶獣は、角が折れながらも生きていた。

「……羽月、良かったな。殺人教唆にならずに済みそうだぞ」

「これは流石に嘘でしょ……いや、人殺しにならずに済んだけどさ……」

 瓦礫の中から這い上がった凶獣は、二人を睨む。

 そして、不意に笑った。

「やっぱ面白えじゃねえか。アンコールといきたいとこだったんだが……」

 構える二人とは対照的に、ライリーは落ち着いた様子で辺りを見回した。

「……仕事は失敗にして帰るか。面倒事は嫌いなんでな。じゃあな、可愛いお嬢ちゃん達。またどっかで一発やろうぜ」

 瓦礫を蹴飛ばしながら、ライリーは背を向けて立ち去っていった。

「……助かった、みたいだね。でも、どうしてだろ」

 ライリーの姿が見えなくなったところで、力が抜けて膝に手をつく羽月。

 刹華は獣化を解きながら、ライリーが立ち去った理由を思い出す。

「警察じゃねえのか? ほら、パトカーの音が近づいてきてるし」

「それは無理があるでしょ。あんなのが警察怖がるなんて……」

「じゃあなんで呼んだんだよ……ああ、火神のことなんだけどな。多分そっちの二つ目のビルの中にいるぞ。あの煙草の匂いがする」

 羽月に呆れながら、先程言い損ねたことを思い出す。それを聞いた羽月は、目の色を変えた。

「ほんとに? ナイスタイミング過去の私! じゃあ、警察が来たら私がそこまで誘導するから、刹華は念の為に火神を見張っててくれない?」

「利き腕が滅茶苦茶になってる奴をこき使うなよ……ったく」

 刹華は文句を言いながらも、目当てのビルへととぼとぼ歩いて向かう。




 廃ビル三階。煙草の匂いが強くなってきたところで、刹華は歩くのを止めた。壁の向こうに人の気配を感じたからだ。その存在を確認すべきかどうか、刹華は迷う。当然確認をすべきなのだが、万が一にでも火神が刹華の姿を目撃した場合、逃げられる可能性が生まれる。体力を消耗している上に利き腕が動かない刹華に、凶悪犯を引き止められるのか。その疑問と同時に、右腕の痛みが刹華の脳内で主張を始める。痛み、熱、意識の遠退き。それらに追い討ちをかけるように、刹華の足場が突然崩壊した。転落しようとする最中、咄嗟に左腕で崖にしがみついたが、それだけだった。刹華が崖から這い上がることを、様々な要因が妨害する。下を見ると、穴が一階まで突き抜けているのが見える。

 三階建ての建物から転落した満身創痍の女子高校生は生き残ることが出来るのか。過去に四階建てから飛び降りたこともあったが、それは毒を受けていたとはいえ獣化していた場合であって。ならば、獣化して飛び降りれば済む話だろうか。怪我や朦朧とする意識の問題で、着地までに間に合うかどうか怪しい気がする。難しいのではないか。

 そもそも、生き残る必要があっただろうか。羽月が火神を捕まえれば終わりだ。生きる上で、特にやり残したことはない。しがみついているのも、限界が近い。

 ただ、もしかすると、私が死ぬと先生は悲しむかもしれない。やもすると、羽月も。

 ……悲しませたくはなかったな。

 ずるりずるりと滑る左手を諦めかけていた時、刹華の腕を掴んだ者がいた。

「大丈夫か! 今助ける!」

 刹華が顔を上げると、意外な人物がそこにいた。

 火神真也。指名手配中の放火殺人犯であった。




「……君はなんでこんな場所にいるんだ。大怪我までしてるじゃないか」

 火神真也は刹華を引き上げた後、離れた場所で静かに煙草を吸い始める。火神は髭が伸びたり服が汚れていたりしていたが、刹華が思っていたよりも穏やかそうな目をしており、同時に虚しさのようなものを感じさせた。

「ここは危ない。君にとって、ここに隠れているのが良いのか、早く逃げた方が良いのかは分からないが……」

 刹華は壁に寄りかかりながら、火神の態度に違和感を覚えた。それに、得体の知れない不安も。

「……申し訳無い。僕が病院へ連れて行けば良いんだろうが、僕は指名手配されててね。無駄な正義感を出したせいで、クソったれのカルト教団に嵌められて、無実の罪で追われる身なんだ」

 刹華は理解出来なかった。

「……犯罪者はみんなやってないって言うだろ」

「冤罪でも同じだよ。人はそう簡単に真実に辿り着けない」

 火神は説得する気が無さそうな顔をしている。

「あたしは……あたしは、あんたを捕まえに来たんだ。もう、すぐに警察も来る」

「そうか……潮時か。丁度良いかもしれない。追われるのも、もう疲れてしまった。死刑になるか赤い饗獣に殺されるかなんて、もうどうでもいい」

 火神の言葉の一部に、刹華の心は急激にザラついた。


『死刑になるか赤い饗獣に殺されるかなんて、もうどうでもいい』

『俺は赤い饗獣が一人にして無敗の傭兵、ライリー=ヴァーデック様だぞ!』


 妙に、筋が通り過ぎている。

「僕を売れば賞金が出るんだろう? それが君の為になればいい。上手に使ってくれ」

「……なんで、そんなに気を遣うんだよ。あんたは殺人犯じゃなかったのかよ」

 めまいに耐えながら、刹華は震える声で問い質す。

「僕は人殺しなんてやっていない。連中に嵌められたんだよ……ああ、でもそうか。こんなことを君に言うのは酷なのかもしれないな。悪かったね」

 近づいてくる足音。それに気が付いたのか、火神は煙草を捨てて靴で揉み消し、両手をけだるそうに挙げた。

「僕がどうなったとしても、どうか自分を責めないであげてくれ。君は、みんなの敵を捕まえただけなんだから」

 それから、すぐに警察が駆けつけた。その辺りからの刹華の意識は曖昧になった。自分が警察に何かを叫んでいた気もするし、あとからやってきた喜ぶ羽月や、彼女が刹華を心配する様子なども見た気もするが、内容は殆ど残らなかった。

 これが、この話の顛末。この騒動の顛末である。


――青暦二四三五年

ヒルルコドン、角の乱獲より絶滅。

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