10. Into the dawn

 巨大な蠍とぶつかる寸前、刹華は男に横へと突き飛ばされた。二人は転がりながら装甲での体当たりを紙一重でかわしたが、蠍は当然暴れるのを止めない。

「イヤアアアアアアァァァァァ!」

 そして、磔の少女は泣き叫び続ける。悲痛なその声は二人の耳を劈かんばかりの勢いで、倒れ込んだ痛みに追い討ちをかけてくる。

「大丈夫か?」

 男は刹華を心配しているが、刹華は蠍に意識を向けている。

「おっさん、下がってろ。あいつはあたしがどうにかする」

「馬鹿言うな、化物相手だぞ! 死ぬ気か!」

 刹華は、この男は自分がレッダーだと知らないことに気が付いた。しかも、それをバラしてはいけない。それは即ち警察に知られることになる。つまり、獣化が使えないのだ。

 それでも、 刹華の頭の中には退く選択肢はなかった。それは、磔の少女から感じる違和感だった。言葉にならない違和感。ただ、その結論だけは出ている。少女は恐らく、望んで暴れている訳ではない。何が起きているのか分からないが、彼女は苦しんでいる。それだけは根拠無く確かだった。

 そして何より、

「人間、なんだよ……」

 聞き捨てならなかった。

「レッダーは……人間なんだよ。化物なんかじゃねぇんだよ!」

 刹華は男の制止を振り切り、暴れる蠍の腕に掴みかかった。当然、獣化は出来ない。それでも、一度転倒させれば動きを封じられる筈だと考えていた。少女を巻き込んでいるように見えていた甲殻は、接近してみると衣服の背中側を突き破って生えていることが確認できた。詳しいことは分からないが、刹華にはそれが痛々しく感じた。

「おい、落ち着け! 暴れるのをやめろ!」

 刹華の叫ぶような言葉は、全く少女に聞き入れられる様子がない。それどころか、叫び声の激しさと暴れる強さが増し、その暴力で刹華の身体は振り回される。転倒させることなど、叶うはずもない。

「やめろ! こんの……うあっ!」

 刹華の身体は空中へと投げ出され、コンクリートに叩き付けられる。

「馬鹿野郎! 無茶が過ぎるぞ!」

 身体に走る衝撃で咳き込んでいる刹華に、男は心配しながら駆けつける。その間に、蠍は不規則に暴れながらコンビニの駐車場の外へと向かっていく。

「クソッ、今から応援呼んでも、来る前にあいつがどっかで暴れられたら……」

 蠍の少女は泣き叫びながら、夜闇やあんの中へと消えていく。

「……もし応援が来たら、あの子供はどうなるんだ」

 刹華はこの一件の着地点を案じる。

「……確保して施設送りか、最悪は射殺されるかもしれんな」

 きっと、最悪の事態も十分に考えられる話だ。蠍の少女の向かった一本道の先には、三田ヶ谷商店街が存在する。まっすぐ歩けば五分もかからないはずだ。商店街で暴れて怪我人が出ると、擁護する余地がなくなる。

 刹華の思案は止まった。覚悟は決まった。

「おっさん、応援を呼ぶな。今夜は何も見なかったことにしてくれ」

 結論は、諦めることだった。

「そんな真似出来るか! 向こうに行ったアイツはどうするんだよ!」

 この善人は、約束を守ってくれるだろうか。私を、信じてくれるだろうか。レッダーは怪物ではないと、信じてくれるだろうか。

 刹華は、その疑念を捨てた。

「あたしが止める。頼む」

 刹華は、己の保身を諦めた。

 踵のついたゴム製のサンダルを脱いで全身に力を込めると、刹華の手足は毛皮に覆われ、まごうことなきレッダーのそれへと変化した。

「信じてくれ」

 呆気にとられる男を他所に、悲鳴のような泣き声に向けて走り始めた。

 鳴き声の発生源にはすぐに見つけたものの、蠍の足は意外にも速く、商店街エリアまであと数メートルという地点に迫っていた。刹華は追い付くと、勢いそのままに跳躍。その身体は蠍の少女の頭上を跳び越え、商店街と少女の間に着地する。

「止まれぇ!」

 前面に磔になっている少女に触れないように、甲殻の腕の部分に獣の腕を突き立てる形で、蠍を受け止める。衝撃により押されながらも、蠍は目に見えて減速していく。ただ、先程から感じていた嫌な感覚は確信に変わった。

 重過ぎるのだ。しかも、パワーが明らかに刹華のそれを超えている。減速してはいるものの、侵攻が止まる気配は全くないのがその証拠だ。

 全力で押さえつけながら、この蠍の動きを止める方法を考える。

 一つ、物理的に止める。見た目からすると、どうにかしてひっくり返してやれば、一人で起き上がるのは難しそうである。ただ、この重量とパワーに対してそれを実現する方法が思いつかない。刹華は一度この案を保留することにした。

 一つ、暴れる意思を削ぐ。顔を上げて泣き叫ぶ少女を見ると、目立った傷がある訳でないことが分かる。暴れている原因は内側からの痛みか、或いは感情的なものか。

 だったら、と、刹華はこの案へと舵を切る。

「ほーらお譲ちゃん落ち着けー! 何も怖くねえぞー! 深呼吸しろー!」

「ぎゃあああああぁぁぁぁぁん!」

 完全に無意味だった。只でさえ子供を相手にした経験が乏しい刹華は今、全力で力んでいる。表情も声も口にする内容も、全てにおいて頑張ってみたつもりだったのだが、子供相手に相応しいものではなかった。

 ジリジリと力で押されている間に、泣き叫ぶ蠍は遂に商店街のアーチへと差し掛かる。刹華はこの場所をよく知っている。お世話になった人達が沢山住んでいる。被害を出したくないという気持ちが、刹華の中で強くなる。

「くっそぉ……落ち着け、落ち着けええぇぇぇぇっ!」

 気合。そう表現するしかないようなそれで、刹華は己を鼓舞する。また少し、ほんの少しだけ蠍は減速するものの、それでも力不足は否めない。事態を変えらないことに苛立ちを感じる刹華。

 もう少し、もう少しだけでいい。

「うおっ、なんだ? やたらうるせぇと思ったら。そっちのは……刹華じゃねぇか!」

 頭上、というよりも斜め後ろかつ仰角四十五度くらいの角度から、突然男性の声がした。それは八百屋の二階の窓からだった。白髪混じりの男が、刹華の方を覗き込んでいる。

「何だそいつは? まーたなんか厄介事起こしてんのか?」

「うっせぇ! こいつを取り押さえるのに忙しいんだ! 大人しく寝てろ!」

 刹華に怒鳴られた八百屋の男は、すぐさま窓を閉めた。

 ただ、それは寝る為ではなかった。十秒も経たず、パジャマ姿の八百屋の男が裏手から現れる。そして、無言のまま刹華の横まで駆け付け、蠍の腕を掴んで押し返そうと試み始めた。

「ふんぬっ……こりゃ重ぇな。腰にクるぜ……」

「馬鹿! こんなの相手に、普通の人間がどうにかできるか! 離れてろ!」

 刹華が怒鳴ると、間髪入れずに八百屋の男は怒鳴り返した。

「馬鹿野郎! ガキが困ってたら助けるのは大人の仕事なんだよ! 黙って助けられろ!」

 言い返す言葉が思い浮かばないまま、

「……ったく、死んでも知らねぇぞ」

 と、刹華は少しだけ頬が緩んでしまった。いつもの八百屋のおっさんだ、と。

 そうこうしていると、再び後方から別の男の声がした。

「なんだぁ? みつおに刹華じゃねぇか。どうしたそのデカイのは? なんかの祭りか?」

 八百屋の向かい側の魚屋から、丸坊主の男が現れた。

「タコ野郎、いい所にきた! こいつを取り押さえるんだとよ! 手伝え!」

「マジかよ! そりゃ負けてらんねぇな! 高まってきたぜ!」

 魚屋の男は、八百屋の反対側から蠍の甲殻を押し返し始めた。

「あん時のお前みたいなもんだろ、刹華。止めてやろうじゃねぇか」

 魚屋は、刹華に向けてにやりと笑う。

「……あたしはこんなに派手じゃなかっただろ」

「そうか? まあ、分かんねえからどうでもいいか。いくぞ!」

 せえのの掛け声と共に、三人は蠍を後方へと押し返す。すると、やっと蠍が前進するのを止められた。ただ、蠍の脚は空回るように動き続けているため、力を抜けばこの拮抗を崩されてしまうのは明らかだ。油断は許されない。

「キャアアアアアアァァァァ!」

 相変わらず、磔の少女は叫び続ける。ただ、その声の質が変わったような気がして、刹華は顔を上げる。すると、少女の背後にゆらりと動く影が見えた。振り子のように前後にゆらゆらと動くのは、蠍の尻尾だった。勿論、先端には鋭利な棘状のものが見える。それが反動をつけるように、今までより大きく不自然に後ろに下がった。そのままの起動で弧を描きながら戻ってくるならば、間違いなく刹華に直撃する。避けようとすれば、蠍は勢いを取り戻し、両サイドの二人が巻き込まれる。二人共、少しヤンチャなごく普通の成人男性なのだ。最悪死ぬ。

 刹華は覚悟を決め、歯を食いしばった。ここで刹華が落ちれば飛車角落ちどころではないので、目的達成を見るのであればこの覚悟は間違いなく間違いだった。

 運命の女神は、微笑まなかった。

 その代わりに、他のものが雄叫びをあげた。

「うおおおおおあああァァァっ!」

 蠍の背後から、何者かが突っ込んできた。それは、先程の警察官だった。

「おっさん!」

 警察の男は蠍の尻尾に飛びついた。その重量で、尻尾の動きは本来予定していたであろう軌道を描くことを止めた。

「くそっ! もう、誰かを傷つけられるのは御免なんだよ! 警官舐めんなァッ!」

 警官の男の参戦により、尻尾の動きは抑制された。つまり、蠍はまともに動く手段をなくした。

「お、警官の大立ち回りは貴重だな! テンション上がるぜぇ!」

「馬鹿言ってんじゃねぇぞタコ! 腰いわしても知らねぇぞ!」

 やいのやいの言い合う両サイドのやり取りを見ながら、刹華は不意に一つの失敗を悟った。

 そして、タコと呼ばれた魚屋がそれを指摘した。

「ところで刹華、こっからどうするんだ?」

「……考えてなかったな」

 泣き叫び続ける磔の少女。こいつをどうにかしなければ蠍は静止しないと予想はつくものの、生憎誰も動ける状況にない。

「……あのさぁ。連絡が遅いと思ったら、これどういう状況?」

 泣き声に混ざって、空から声が呆れているような声が聞こえてきた。

「刹華、なんで君はいつも厄介事を引き込んでくるの。厄年なの?」

 翼を畳みながら羽月は刹華の背後に着地し、心の底から嫌そうな顔をした。

「……仕方ねぇだろ。羽月、頼む。この子を落ち着かせてやってくれ」

「いいけど、その代わり君は一生私の奴隷ね」

「お前、まともな死に方しねぇぞ」

「冗談だよ」

 羽月は八百屋と刹華の間に歩いていき、磔の少女を優しく抱き締めた。

「大丈夫、怖くないよ。みんな、君を助けたいんだ。安心して。落ち着いて」

 羽月は背中を擦りながら、優しく語りかける。磔の少女は暫く泣き叫んでいたが、徐々に泣き声が小さくなっていく。そして、遂には蠍の脚がゆっくりと崩れ、最後は完全に動く力を無くした。




「それで、その子はどうするつもりなんだ」

 警察の男は、すやすやと眠る蠍の少女をおんぶしている刹華に問う。

「迷子に詳しい人に相談する。誰も怪我してねぇんだから、警察沙汰ではねぇだろ」

「迷子に詳しい人ねぇ。警察は十分迷子の取り扱いに詳しいと思うけどな」

 苦笑いする男に対して、刹華の中には最初に出会った時の疑念はなかった。

「……おじさんって、お巡りさんなんですよね。私達がレッダーだって、分かってます?」

 羽月がバツが悪そうに聞くと、男は不思議そうな顔をした。

「ん? 君達はレッダーだと知られる事に、何か問題でもあるのか?」

 羽月が巷で流れている噂を丁寧に教えると、男は納得した。

「その噂が事実かは分からないが、そういう話なら俺は職務に従う気はないな。それに、君達は他の人間を守ってくれた。邪な奴でないなら、俺は捕まえる気はない。セツカちゃん……だったか、きみとの約束もあるしな」

 安堵する羽月に向かって、男は「まあ、この前の暴力事件の犯人とかなら捕まえるけどな」と付け加えた。それに対して、刹華は表情が曇る。

「……おっさん。悪いんだけど、あの時のチンピラを殴ったのはあたしだ……っ!」

 羽月に脛を鋭く蹴られ、少女を背負ったまま蹲る刹華。だが、言葉を切るのが遅かった。

「……ほう。聞かせて貰えるか。どういう状況だったのか」

 羽月は仕方なく、諦めてその夜の全てを話す。写真や動画を用いて、必要なことを必要なだけ。

「……ははあ。そりゃあ、向こうの証言と食い違うな。レッダーが勝手に襲いかかってきたって話だからな。ただ……」

 男は羽月の携帯電話で、乱闘シーンを再び見る。

「これは過剰防衛とか難癖つけられかねねぇな。本気出せば連中を飛び越えて逃げられただろうから。逃げるのが癪なのも、こういう連中が痛い目見せないと分からねぇってのも少しだけ思うが。レッダーってのは因果だな」

「捕まえるんですか。刹華が襲われた側なのに」

 羽月は毅然とした態度で問い正す。

「レッダーじゃなければ乱暴されていたのに……レッダーだったら暴力に応戦しただけで捕まるんですか」

 男は、溜息をついた。優しい顔で。

「落ち着きなお嬢ちゃん。現行犯逮捕ならともかく、俺は休暇中だ。それに、セツカちゃんと約束したんだよ。今夜のことは見なかったことにするってな」

 そして、ポケットから名刺入れを取り出し、中の紙を羽月に渡した。

「困ったことがあったら呼んでくれ。俺は煙草買ったから帰る。あと、夜間徘徊はあんまり感心しないぞ」

 男はそれだけ言い残して、夜道を歩いて去っていった。

 羽月はその後ろ姿を眺め終えると、名刺に目を通す。

「浅川卓蔵……へっ?」

 驚きの声をあげた羽月の後ろから、痛みが引いてきた刹華が覗き込む。そして、同じく驚きの声をあげた。

「は? 警視監って、めちゃくちゃ偉いんじゃないのか?」

「……警察官も、捨てたもんじゃないのかもね」

 二人は、夜が明けようとする中で今夜最大の驚きを体感した。


――青暦二四四三年

キョクトウマダラサソリ、駆除活動により数が激減し絶滅。

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