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 両手で顔を覆ってしまったマリアセリアを置き去りにして、アルセイアスは神殿のきざはしを上った。

 マリアセリアはまだ幼い。恋らしい恋も知らぬままに、アルセイアスに妻問いを受けた彼女は、孵ったばかりの雛鳥が、初めて目にした者を親と覚えるように、己を女にした男を、無条件で吾兄と慕ってくれている。


 そんな罪も非もないマリアセリアに、非情なことを言って泣かせてしまった。それだけではない、パキラリウムにも似たようなことをした。一人残された書庫で、パキラリウムは今頃何を思っているだろう……?


 なまじ、心惹かれる気持ちがあるものだから、傷つけてしまうと痛いのだ。一途に想いを寄せてくれる彼女たちを、アルセイアスとて憎からず思っている。万が一にも心変わりでもされれば、自分のことは棚に上げて嫉妬だってするだろう。いつまでも前夫の影を纏わりつかせている、セルクシイルを諦めきれぬように。


 なんと、欲深く身勝手な性分か――。

 他人に妬まれるまでもなくアルセイアスは自嘲する。女心など、ろくに思い遣ってもやれない自分が、三人の妻を娶っているなどつくづく分不相応なご身分だと。



 三人に等しく想いをかけるよりも、たった一人を愛し抜く方がずっと簡単だ。


 もしも、自分の意思で吾妹を選べるというのなら、第一夫人であるセルクシイルさえいてくれれば、アルセイアスはそれでよかった。



 若くして亡くなったアクタイオンは、アルセイアスのよき兄であり、セルクシイルのよき夫であった。アクタイオンの非業の死は、残された妻と弟を容赦なく打ちすえて分ちがたく結んだ。

 片翼をもぎ取られて、幽鬼のようになってしまったセルクシイルと、傷を舐め合うように身体を重ね、繰り返し繰り返し兄の名で呼ばれながら、少年時代のアルセイアスは、彼女の生きるよすがであること、ただ、それだけを望んでいた。今も、その想いはどこかにある。


 けれども気付けば、アルセイアスの心は常にマルシレスラに囚われている。セルクシイルに傾けていた献身的な愛を忘れ、大神の花嫁に堕落を乞う、罪の色に塗り込められている。


 傲岸で、口の減らない女で、がさつで、性悪で――。

 褒め言葉よりも先に悪態口が浮かぶのに、マルシレスラの一体何が、己を邪恋に駆り立てているだろう? 答えを出せないままに、アルセイアスが祭壇前に辿り着くと、マルシレスラは信じられない格好で彼を待っていた。



*****



「人を呼びつけておきながら、何て場所でお昼寝をなさっていらっしゃるのです、首」


 胸の上で杖を抱き、マルシレスラはひんやりとした石の祭壇に横たわっていた。

 清浄な常処女とこおとめの無防備な寝姿である。眼福といえないこともないが、祭壇は天上に繋がる神聖な処、寝台代わりにしてしまうなど、考えるまでもなく罰当たりな行為である。


「寝てはいないぞ、馬鹿者」


 ぱっちりと瞳を開いて、マルシレスラはすっくりと半身を起こした。片膝を立ててその上に、杖を担げた腕をかける行儀の悪い格好で、訪れたアルセイアスを高飛車に睥睨する。


「ご託宣を頂戴できぬかと思い、大神に供物を捧げていたのだ」

「どこに供物があるのです?」

「ここにあるだろう。花嫁である我自身だ」

「ご神意は頂けたのですか?」

「いいや」


 残念そうにそう言って、マルシレスラはかぶりを振った。その表情から察するに、どうやら悪ふざけをしていたつもりはないらしい。


「大神は供物がお気に召さなかったのでしょう。長老方に見つかって、お小言をくらう前に、祭壇から降りられてはいかがです?」

「ふん。他の男のことを尋ねたのがどうにも不味かったかな。我が主は案外に、嫉妬深い御方だから」


 アルセイアスの八つ当たりを、ぎょっとするような発言で受け流すと、マルシレスラは身体の向きを変え、祭壇の端からひょいと脚から下を降ろした。

 そうしてから、祭壇の縁に腰掛けた状態で、玉の一つも飾らず、一房も結わえず、ただくしけずっているだけの長い銀髪を乱雑に掻き上げる。しどけない仕種だが蠱惑の色はなく、さらさらと流れ落ちる髪の間から覗くのは、峻烈な里の首の顔つきである。



「アルセイアス、お前はキセラシオンの指揮で、キリスの狩人たちが巡視に出かけているのは知っているか?」

「はい。一応のこと『知って』はおりますが……」

「あいかわらず、長嗣の自覚に乏しい奴だな。もう少ししっかりと、里の動きに関心を払わんか」


 アルセイアスの覇気の無い返答に、正直なところを察したらしく、マルシレスラは苦言を呈した。実際に二つの歳の差があるのだが、その年齢を越えた老成ぶりが、アルセイアスにまた生意気な口を叩かせる。


「お言葉ですが私の役割は、過去の記録を朽ちさせぬことと、先入のない未来を予見すること、この二つです。今あることにかかずらい過ぎていては、視えるはずの先行きも視えなくなりましょう」


「ものは言いようだな。お前は毎日書庫に籠りきりで、めったに予見の言上になど参らぬくせに。まあ、よいわ……。

 キセラシオンには、血気盛んな連中の鍛練ついでに、しばらく森の方々を見廻って来いと命じて里を発たせた。それが九日前。まずは何事もなかろうと高を括っていたのだが、今朝からどうにも、おかしな悪寒がやまなくてな……」


 きりと眉を顰め、粟立つ腕を擦り上げるマルシレスラの表情に、アルセイアスもはっとして気持ちを引き締めた。緊張の走るアルセイアスのせなに、つうと冷たい汗が伝う。


「それでは狩人たちは……、森の何処かでけだもの群れに遭遇し、予定になかった狩りを行ったのだと?」

 アルセイアスの見解に、マルシレスラは我が意を得たりと重々しく頷いた。

「おそらくそうではないかと思う。大気が軋んで嫌な感じだ」


 代々の巫女を輩出する氏族が【心】イオスと呼ばれるのは、人の心に係わる異能を持つが所以だ。

 とりわけマルシレスラのように大神の花嫁として奉じられる娘ともなれば、『万民の声を聞く』と謳われた古の巫女そのままに、里に居ながらにして遠くの異変も察知する。


「しかしまあ、狩りならば想定内の出来事だ。この里を隠れ里たらしめておくために、脅威となり得るけだものたちを狩る、その為にいるのが狩人なのだから。万が一を考えて、【命】アロウの癒し手たちも同行させている。――ただ」


「ただ?」


「誰かが負った傷の痛みを、まともに被ってラシアが倒れた。あれには間々あることだが、今朝ののたうちようは尋常でなくてな……。人材不足だからと、我の目となり得る者を付けておかなかったことが悔やまれる。ひょっとしたら、狩人たちは狩りを仕掛けたのではなく、けだものたちに見つけられて、逆に狩られてしまったのかもしれない」


 巫女嗣みこつぎであるリテセラシアは、マルシレスラに輪をかけて感受性が鋭い。神懸った妹の姿には、豪胆なマルシレスラを不安に駆らせるだけのものがあったのだろう。


「まさかそんな……。キリスの狩人たちは、大神の力で戦うつわものではありませんか。外界のけだもの如きに、容易く討たれるはずがありません。それにあの、ラシオンに限って」


 それでもマルシレスラの悲観を、アルセイアスは全面的に否定した。現実感が湧かないということもあるが、何よりもキセラシオンを、信頼に値する男だと認めているからだ。


「我とてそう思いたい。だが、最悪の予想はしておくべきだ」

「……」


「アルセイアス、そこでお前に問いたい。今さらではあるが、この事変に係わるようなものを何か視はしなかったか? いや、今からでもいい、何か視えるものはないか?」


 マルシレスラの問いに、アルセイアスは首を左右に振った。大神の名を念じ目を閉じてみても、何ら脳裏に浮かびあがるものはない。


「特には、何も。里の大事を示すような予見がありましたなら、お呼び立てされるまでもなくご報告に上がっております」

「……それもそうだな」


「ご落胆なさらずに、どうか希望とお受け取り下さい。不吉を口にせずに済んだこと、私は深く安堵しているのですから」

「怖いことを平気で言うのだな」

「それを承知で――、この私を召喚なさったのでしょう?」

「……その通りだ」


 マルシレスラは長く息を吐いて、里を負う肩の力みを抜いた。そうしてから、おもむろに、翳の差すアルセイアスの双眸を憐れむように見つめた。


「お前の才が、無益だとは言わない。むしろ此度のような場合には、正直なところありがたくもある。だが、その青い瞳と共に、我が主がお授け下されたのは、我と部族を守る祝福であろうに……。悲運ばかりを、外さずに言い当てる予見者など、全くもって前代未聞だ」


 シルヴの瞳を継ぐ者を、一括りに予見者といってもその程度や精度は様々だ。明日の天気を当ててみせるだけの者。災厄の相を読み注意を促す者。幾通りもの行く末を示唆する者……。未来というのは流動的なものであり、予見が外れることも珍しくはない。


 そんな中で、逃れられない運命を視るアルセイアスを人は呼ぶ。『絶対の予見者』、あるいは『死の宣告者』と。


「それでは、アウルが私に与え賜うたのは、祝福ではなく呪詛なのでしょう。大神はおそらく、私の存在を疎んじているのですよ」

「危険思想だな、アルセイアス。我を前に我が主を誹謗するのか?」


 杖の先をアルセイアスの胸に突き当てて、マルシレスラは目をすがめた。その紫水晶の瞳から、心をぞろりと撫で上げて、いたぶるような責めを感じる。


「ならば消して下さいますか? 私の中にある、その危険なものを。汚れきった心を真白に清らかに、塗り替えて頂けるなら本望です」

「ふ」


 アルセイアスの若気を愛しみながら、意地悪く足蹴にするように、杖を引いてマルシレスラはにやりとした。


「お前から邪なものを削いでしまったら、子ができなくなってしまうだろう。せっかく土壌に恵まれているというのに、お前ときたら、種蒔きがさっぱり下手くそで困る」

「……善処できますよう、努力します」


 マルシレスラはただ単に、妻たちの懐妊の報が聞かれないのを嘆いてみせただけなのだろうが……。アルセイアスにしてみれば、閨の手管の不足をあげつらわれているようで、微妙に屈辱を感じる言い種だ。


「期待しているぞ。ああそうだ、セイアス」

「はい?」


「子作りに励むのは結構なことだが、時間と場所はわきまえろ。お前が昼日中ひるひなかから書庫にパキラリウムを連れ込んでいるものだから、おちおち本も読みにゆけないという苦情が上がっている」


 まるで先ほどの所業を見てきたような訓戒に、アルセイアスはぎくりとする。

 否、油断も隙もないマルシレスラのことだから、巫女の目――マリアセリアの目を通して、実際にパキラリウムとの濡れ場を目撃していたのではないだろうか……?


「そこまで恥知らずな真似は致しておりません! そのお言葉、そっくりそのままパキラリウムにも聞かせてやって下さい! ――失礼を!」


 傲岸で、口の減らない女で、がさつで、性悪で――、ついでに言えば卑劣だ!!

 マルシレスラの評に悪口を一つ付け加えながら、アルセイアスは肩をそびやかして踵を返した。



 なのに惹かれてやまない、その理由に、答えはやはり、出せそうにない。

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