2 シイナ

 パキンという軽い音が部屋に響いた。ストーブにくべられた薪が割れてオレンジの火の粉が舞っていた。


 ラピスはその前で毛布にくるまって居座っていた。ふと天井を見上げると自分の服が物干し竿に掛けられていた。今はあの女が貸してくれたクリーム色のセーターを着ている。


 ストーブのすぐ隣にある窓は曇って外が見えなかったが、外から聞こえる激しい風の音で、天気が荒れてきたことを理解した。


 先程の一件のあと、あの女に連れられ雪が酷くなる中、この町外れの丘の上の小屋にたどり着いたのだった。

 小屋の外見は古くもなく新しくもないという人が暮らすのには十分といった感じだった。


 小屋にたどり着くなり女は明かりをつけるよりも先に暖炉に火を入れ、ラピスをその前に座らせ、ジルにラピスの服をその辺に干しておくように言うと別の部屋に行きラピスが今来ている衣服を抱えて持ってきた。


 ラピスを着替えさせそこからしばらく経って、現在の状態に至るのであった。


「そろそろ乾いたかな…。」


 後ろから声がしてラピスは振り返った。そこには椅子から立ち上がるジルの姿がある。


 少し歩いていきジルは干してあるラピスの服を触った。ラピスの服からあの冷たく張っていた氷と湿り気は消えていた。


「うん、そろそろいいと思うよ。」


 ドアが開くと共に、灰色のセーターに身を包んだ女が入ってきた。その手に盆を持っておりそこにはカップが三つ湯気をたてて乗っていた。


 女はまず部屋の真ん中にあるテーブルの上に盆を置いた。そして三つのカップのうち二つをジルとラピスに渡した。ラピスがカップを受け取るとじんわりと熱が指先に伝わってきた。


 カップの中は薄い茶の液体で満たされていた。湯気が顔にかかるとともに甘い匂いが鼻腔をくすぐる。


 ジルの方を見ると、彼は軽くそれを冷ましながら飲んでいた。


 ラピスもその真似をしてカップの中の液体に軽く息を吹きかけそれを口にした。口にその液体を流し込むとじんわりと熱が口の中に広がるとともに優しい甘さで満たされた。液体を飲み込むと腹の中からその熱が伝わって体を温めた。


「美味しい…。」


 ラピスが呟いた。後ろから「でしょ?」という声が聞こえた。

 あの女がにっこりと微笑んでいた。その女も美味そうにその液体を飲んでいた。


「お前昔からよくココア飲んでるよな。」


 ジルが女に笑いかけた。この茶色く甘い液体はココアというようだった。


「だって美味しいもん。」


 コップを口から離して女が笑顔で答えた。口の上に茶色い線が現れていた。


「ココアついてる。」


 ジルが口元を指さすと、女は口元に手を当てた。そして慌てて恥ずかしそうに顔を赤く染めた後、そのついたココアを拭き取った。


 ラピスは二人のやり取りをぼんやりと眺めていた。この女はさほどラピス自身と歳は離れていないように思えるが、言動などか少しばかり幼いような印象を受けた。


「相変わらずだな、それ。昔から変わんない。」


 ジルが女を見て口を開けて笑った。女の赤らめた顔にある眉が八の字に曲がった。


「だって………気をつけても着いちゃうし……。」


 女が恥ずかしそうにそう呟くと、ぼんやりとそのやり取りを眺めていたラピスに視線を向けた。黒い優しい光を持った目がラピスを見つめた。


「で、話は変わるんだけど……この子は?」


 女がラピスを指さして、ジルに尋ねた。


「ああ。もともともっと西の方の乾燥地にあるアールズ行政区っていうゴーストタウンにいたけど着いてきた。」


 ラピスは聞き覚えのない地名に首を傾げた。


 後から聞いたが自分がもといた所の名前がこれらしい。古くなった看板はいくらでもあったが、文字を全く読めなかったラピスにとってはただの小屋の修繕材料でしかなかった。


 女もその名前を聞いても思い当たることは何も無いようで、軽く流した。


「へぇ……私はシイナ。シイナ・アイザードだよ。君は?」


 女がその黒い二つの目でラピスを見て自分の名を名乗った。


 聞きなれない名前でラピスは少したじろいた。シイナというのが名前で、恐らく後ろの「アイザード」というのがいわゆる姓というやつなのだろうか。


 ラピスは姓というのを実際聞いたのは初めてだった。ラピスは廃都市やジル、ダウナー街の時でも自分の周りの人は皆名前だけだったのでこれが普通だと、姓というものの存在も知らなかった。


 ここまでの旅の途中で、生きていくのに必要なことをジルに教えられるうちに姓というものを知ったのだった。


「ラピス……。」


 短く姓のない自分の名前口からを押し出した。それを聞くと、シイナは軽くうんうんとうなり、「かわいい名前だね。」と微笑んだ。

 名前を褒められるのは単純に嬉しかった。


 それから三人でしばらく互いの近状を話し合った。ラピスは話を聞いていくうちにジルとシイナは幼い頃から面識があったことを知った。

 要はこの二人は幼馴染ということなのだ。昔はこの小屋で生活を共にした時期もあったらしい。


 会話を続ける二人をラピスはココアを飲みながら眺めていた。


「ところでラピスちゃんは海が好きなの?」


 ココアを啜っていたシイナが口を開き、ラピスに尋ねた。ラピスも同じようにココアを啜っていた。


「どうした?そんなこと急に聞いて。」


 それを聞いていたジルが疑問を口にした。


「だって氷の上にしゃがんで海を見てたし……そうするくらいだから好きなのかなー……って。」


 ジルの質問にシイナは答えた。

 その時シイナは、ちょうどラピスが海に落ちる前の光景を思い出していた。


 ラピスは子供が地面を一列に行き来する蟻を見ているかのようにゆらゆらと深い色に揺れる海をじっと静かに見ていたのだ。


 その行動がシイナにとってはすこし意外なように思えてしばらく様子を見ていたのだが、ラピスが乗っている場所が氷だとわかって慌てて声をかけた時にはすでに遅かった。


「好きとかというよりはこいつは海を見たことがなかったんだよ。」


 ジルはそう言うとストーブの前に丸まってココアを飲んでいたラピスの頭にぽんと手を置いた。

 急に頭の上に何かが乗っかかって少し驚いた。


「ついてきた理由も海が見たいからだよ。俺がそのゴーストタウンから海はそんなには遠くはないって言ったら連れてってくれって……言われた時はびっくりしたさ。」


 そう言うとジルは口を開けて笑った。長いこと旅をして来たがそう話を持ちかけられるのは初めてだった。


「そんな理由で着いてきちゃったの…………。」


 シイナは頭に手を置かれたラピスに視線を移した。

 その顔は驚きと呆れが混じった苦笑いだった。


「けど今度は南の海がみたい。」


 どう反応したらいいかわからない引きつった笑顔のシイナなどお構い無しに、ラピスはぽつりと呟きココアを飲み干した。


「お、そうか。けど南の海って言ったら今度は相当かかるよ。ただでさえ綺麗な海は少ないんだからな。」


 ジルの言った通り、世界に綺麗な海などもう数えられるだけしか残っていない。


 大抵は水面が虹色に反射し濁った茶が混じり強い油の匂いを発する所や、無数の鉄クズや先人たちの残骸が漂い黒くなった海水が流れる青くすらも見えないところばかりである。


 ここはまだ綺麗なところで魚も取れるが、昔より水質は悪くなっているだろう。


「じゃあ、南をこれから目指すのか……。」


 シイナがテーブルにカップを置いて呟いた。


「そうだな。けど俺も南の方はあまりよく知らないところもあるから暫くちょっとゆっくりするつもりだ。」


 ジルがカップを覗いて残っているココアを全て飲み干した。飲み終わったカップの中に、焦げ茶の細かい粒が取り残されていた。


「だからここに寄ったのね。」


 シイナが口を開いた。ジルは「そう。」と軽く呟いてカップをテーブルに置いた。


 ジルはあそこでシイナと出会わなくともここを尋ねる予定だったのだ。


 宿を取るよりも、知り合いやツテがある場合はそこを頼った方が金の消費も抑えられるし、なにかといいこともある。

 それにシイナとはもう10年ほどの付き合いになっている。ジルの数少ない信用出来る顔なじみの人物でもあった。


「毛布下ろしとかないと…。しばらくママも帰ってきてないから自分の分しか出てないし。」


 シイナはぶつぶつと何かを呟いて、壁に掛かっているあの気心地が随分と暖かかったオレンジ色のコートのポケットを漁った。

 ポケットを漁った彼女の手には深い紺の手帳が握られていた。シイナは手帳をパラパラとめくり何かを書き入れていた。


 彼女の漁っていたポケット以外にもコートにはいくつものポケットが着いている。ラピスはそれを見てコートは単なる防寒用ではなく、なにかの作業着のようにも見えてきた。


 そして、その掛けられたコートのすぐ脇に置かれているものにラピスは興味を引かれた。


「これは何?」


 ラピスがそれを指さした。それは30センチ程の木製の柄に、その柄の倍以上の黒く光る金属の板が取り付けられている。板の一辺はのこぎりのようにぎざぎざと鋭利に切り取られていた。


「これのこと?」


 シイナが微笑みながらその柄に触れた。長いこと使われているのか、柄をよく見ると木は所々黒ずんでいた。


「これは私の仕事道具だよ。」


 シイナはそう言って、鞘を握ってその巨大な鋸を持ち上げた。黒い刃が暖炉のオレンジ色の炎の光を反射した。ラピスの知っている鋸よりもずっと強い重厚感があった。


「重そう。」


 ラピスが出てきた思考をそのまま言葉にするとシイナは「慣れたからそうでもないよ。」と返した。


「なんの仕事をしているんだ?」


 ラピスがシイナに尋ねた。その質問にシイナは腕を組んで、眉を八の字に曲げてしばらく唸った。それはどうやら言葉を探しているようだった。


「うーん……「冬守り」…って言ってもわからないよね。………流氷、はわかる?」


 シイナの口から2つの単語が飛び出した。そのうちのひとつは初めて耳にしたが、もうひとつはラピスの頭の中の狭い知識の中にも存在していた。


「あの、海に浮いてる氷の塊のこと?」

「そうそう。」


 ジルが言っていたままを返しただけのラピスの答えにシイナは満足したようだ。


「で、ここは流氷がよく流れてくるんだけど……ある程度は大丈夫なんだけど放っておくとたまに船とかにぶつかったり、港に入ってきたりして危ないんだよね。」


 シイナは窓の方へと向かい外を覗いた。

 この町外れの森に近い丘の上から海はよく見える。


 だが、生憎の雪が吹き荒れる天気で視界は悪くて陸と海の境目が微かにわかるくらいだった。

 ラピスもその後ろから外を伺う。


「うーん………今はちょっと見えないね……。」


 シイナは残念そうにして雪で白く荒れた光景から目を離し、カーテンを閉じた。

 風の音がストーブの炎の音と共に部屋に響く。


「私はね、そうやって港に流れてきた氷をそれを使って割ってるの。」


 シイナがその大きな鋸元へ向かい、それを持ち上げた。その時にカランと軽い金属音が響いた。


「持ってみる?」


 シイナが微笑んでラピスの前に鋸を差し出した。


 ラピスはゆっくりと鋸の柄に手を伸ばしていった。そして、ラピスが柄を握るのを見るとシイナは手を離した。


「うわっ…………重、い………。」


 ラピスは鋸の重さに重心を前に持っていかれつんのめりそうになった。


 先程重そうだと言ったがそれよりも上をいく重量だ。鋸の黒い刃が先程よりも重々しい光を放っているような気がした。


 よろけるラピスを見て、シイナが手を貸そうとしたが断った。


 ラピスは静かにそれを下ろした。


「かなり重たいんだな………。」

「そりゃそうだ。分厚い氷を割らないといけないんだしな。」


 椅子に腰掛けていたジルがけたけたと笑った。


「流氷ってそんなに分厚いのか?」


 ラピスがそのような疑問を口にしたのには理由があった。


 ラピスはちょうどこの時、自分が乗っていた氷の上を思い浮かべていたのだ。

 あの地面だと思って乗っていたところは実は凍った海で、それが割れて今こうなっている訳だ。


 自分の重みで割れるように、流氷もそれと同じように薄いものなのかなとラピスは思っていた。


 シイナはラピスの問にこう答えた。


「流氷はたしかに薄いのもあるけど………厚くて硬いのはほんと硬いし、たまーに家一つ分くらいの大きさのもあるよ。」

「そんなに大きいのもあるのか?」


 ラピスはそれを聞いて目を丸くした。


「うん。けどそういうのは港まではなかなか入ってこないけどね。入るまでに割れちゃったりもするし。」


 そう言いながらシイナは机に置いてあったヤカンを手に取り、カップに湯を注いだ。

 カップには既にココアの粉が入れてあったようであっという間に水は柔らかい茶色に染まって、ふわりと甘い匂いが湧き上がった。


 シイナはそれをよくかき混ぜながら「おかわりいる?」と微笑みかけた。


 その言葉に甘えてラピスはココアのおかわりを頼んだが、ジルは湯だけを頼んだ。口直しというところだろう。

 シイナにカップを渡してしばらくすると、白い湯気をたてて2人の元にまたカップが戻ってきた。


「昔に1回あったよな、大きいのが流れてきたの。」

「うん、すっごい前だけどね。………あの時はお父さんたち、少しずつ割っていってたよね……。」


 飲み物を啜りながら、ジルとシイナが思い出話を口にした。


 ラピスは流氷のことを考えながらそれを聞いていた。追加で貰ったココアがゆるりと渦を作っていた。

 その渦を見たあと、ラピスは前よりも少しぬるめのココアを口の中に流し込んだ。


「………ね、ラピスちゃん。」


 ふと、名前を呼ばれてラピスはココアから顔を離した。名前を呼んだのはシイナだった。


 黒く可愛らしい眼でこちらを見ていた。


「明日も海行きたい?」

「え?……うん。流氷とかまたよく見てみたい。」


 シイナはそれを聞いて、ジルの方を見た。ジルは軽く微笑んで頷いていた。シイナの目がたちまち輝いて、口元が綻びた。


 そして、シイナはラピスの手をつかんだ。


「じゃあ、明日一緒に流氷割に行こう!」


 シイナは大きく口を開けてそう言った。

 その時のシイナの顔はまるで子どもが新しい友達ができるのを喜ぶかのような顔だった。

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