6-3 話さしてもらう

 部屋奥の大きな窓。そこの前の、古い無垢の木製ロッキングチェアに、老齢の女性が座していた。背もたれに深く背を預け、秒針よりも遅い速度でかすかに揺られている。

 緩くウェーブのかかったダークブロンドの頭髪は、顎よりもわずかに上でボブ様に切り揃えられている。欧州の色を感じる白い肌、安心感のあるふくよかなお身体。反してどこか儚げな雰囲気がある。

[ライ――真志進くん、こちらがリタおばあちゃんです]

 皆本はわざと僕を名指しする。そりゃそうだ。いまライナルトの名前を出してしまうとややこしくなる。

[おばあちゃん。真志進くんって男の子、来てくれたの。おばあちゃんの話が聞きたいって]

[えぇ、えぇ。ハイ]

 うっすらと開いているリタさんの双眸そうぼうは、窓の方を向いている。まるで外の陽の光をうっとりと眺めているような、まどろみを思わせるまなざしだ。

 皆本によれば、リタさんの視力はほぼなくなっているという話だった。普段は薄開きの状態で、ぼんやりとした大まかな形や光をかろうじて見ている状態なのだとか。そのため僕のことや、まして肉親らでさえ、人間の形として捉えられているかは疑問らしい。

「どう? 半世紀以上経ったとはいえ、リタさんご本人に面影や見覚えはあった?」

 内側から声をかけるが、ぼうっとリタさんに目を向けたまま動かない。内なる声すら聴こえないので、ライナルトの考えがまったく読めない。

「ラ、ライナルト?」

 反応がパッタリと途絶えている。内側に居たんじゃあ、僕はライナルトになにもしてやれない。歯痒く思っていると、皆本もソワソワしたか僕の腕をそっとつついた。

[ライナルト、大丈夫? それとも真志進くんと代わったりした?]

[……なんいや、まだワシやちゃ]

 反応した。しかし気の抜けたような声だ。独り言のようにとても小さい。まるで茫然としているような、聞いているこちらが不安をおぼえる。

[のう、二人とも]

 僕と皆本へ声を潜めるライナルト。コソコソ話様に耳を寄せる皆本がとても近くて、こんなときでさえ内心の僕はピキンと緊張してしまう。

[この前言っとったとおり、ワシ、このまんまリタと話さしてもらうわ]

 このまんまとは、つまり『僕の身体を乗っ取った状態で』ということだ。ライナルト本人の声ではないけれど、リタさんと『直接』話が出来る絶好の機会でもある。

[真志進くんが承諾してるなら、わたしはいいと思う]

「僕も願ってもないことだよ。本人同士で話をしてほしいから、もともとリタさんと話す直前には意識交替を提案するつもりだったし」

[ん、アリガトーな。いま、マシンがいいて言うてくれとるし、予定どおりそうさしてもらうわいね]

 素直だし、穏やかだ。まるで毒気が抜けて別人になったのではと思えてしまう。

[ところで――]

 チラリと皆本を向くライナルト。コソコソは続いている。

[――ユズキはドイツ語、わかるけェ]

[あ、えと。話すのはちょびっとだけだけど、聞くのはそこそこ平気、かな]

[ほうけ。ほしたら悪いんやけど、ワシらの会話、マシンに通訳したってくれん? リタとは母国語で話すわ]

「なるほど。その方が『本物のライナルト』だとすんなり信用してもらえそうだよねっ」

 興奮気味の僕に、ライナルトは「ほやろ?」と得意気に笑んだ。皆本も快諾を示す。

[わかった。真志進くん、同時通訳とまではいかないけど、なるべくリアタイできるように頑張るね]

 天使。意気込んだその表情が神々しい。

[ワシもなるたけゆっくり話すちゃ。ユズキがわからんだら、ワシもマシンに説明したるしィンね。気負わんとってくれ]

[うんっ、了解です]

 ライナルトはゆったりとした足取りで、リタさんのもとへ一歩一歩と近付いていく。

[マシン]

「は、はい」

[まだユズキに言えんがいけど、彼女、やっぱり本人や思うわ。なんやろ……雰囲気いうんかな。そういうががリタのもんやっちゅーか]

「きっとそういうのを、『直感』っていうんだよ」

[直感。ピンと来るとか、そーいうやつやんな?]

「ライナルト的に、ピンときたんだよね? いま会ってみて」

[けどピンときただけや。真実やない。やから――]

 リタさんの左肘まで到達したライナルトは、そこへ膝をつき目線を合わせる。

[――やからワシが腹ァ括って、ちゃんとしていかんなん]

 ライナルトの静かな決意に、ひとつ強く肯定を向けた。

 淡い茶色をしたリタさんの双眸そうぼうは、皆本のそれとよく似ている。しかしまるで気力が抜けているかのようだ。生気がないとまではいかないものの、『心ここにあらず』のようなまなざしをしている。

[『こんにちは。ご機嫌いかがですか』]

 僕自身の声で発せられる流暢なドイツ語は、聴かされている側としてはなんだか異質なものに思えた。緊張するというよりも気恥ずかしさを強く感じて、背筋から脳天へ鳥肌が抜けたことに苦笑いが漏れる。

[『あら? 懐かしいわ。あなたは、わたしの母国語が、話せる方なのね』]

[『はい、そうなんです。それにこちらの言葉の方が、あなたがお話ししやすいかと思って』]

[『お気遣い感謝するわ。確かに、日本語を話すのは、そんなに得意ではないのよ。日常生活や、孫とおしゃべりする分には、困らないけれどね』]

[『それはよかった』]

 リタさんにかすかに笑みが宿る。

 それにしても、皆本はスゴい。本当にほぼリアルタイムで通訳をしてくれている。ライナルトが「違う」だの「そーやない」だのと口を挟まないことから察するに、きちんと正解意訳を踏んでいるのだろう。リタさんの話し言葉がゆっくりだということも、もしかしたら幸いしているのかもしれない。

[『さっそくですがリタさん。二、三お伺いしたいことがあるのです。ご協力願えますか』]

[『わたしの故郷のこと、だったかしら? 孫から、触りだけ聞いています。何かのお役に立てるそうだけれど?』]

[『ええそうです、聡明なひと。今日は、あなたの覚えていることをお話しいただきたくて、馳せ参じました』]

 さすがに『聡明なひと』という単語には、皆本も照れを見せた。うん、仕方がない。気持ちはわかる。ライナルトは案外不意打ちでクサい単語を吐いてくるから、侮れないし気が抜けない。

[『具体的に、どういったことをお話ししたらよいかしら。内容によっては、お話しできないかもしれませんわ』]

[『ええ、結構です。その場合は、残念ですが諦めます』]

「ライナルト……」

 重い返答だと思った。『諦める』という一語に背負わされた事情が半世紀超え分であることを、僕も皆本も深く噛み締める。サクサク見切りを付けがちな僕は、ライナルトのこういうところを見倣うべきなのだろう。それこそ、昨日剣と話をしたときのような。

[『では手始めに、リタさんが日本にどういった経緯で来られたのかを、大まかでもよろしいのでお聞かせ願いたいです。いかがです?』]

[『経緯? わたしの来日理由? そんな個人的なことで、よろしいの?』]

 まぁ、不審がられて当然だろう。うっかり苦笑いが漏れてしまう僕。

[『もっとオーストリアの風土とか、いろいろお話しできますのに』]

[はい、よいのです。『あなたのそのお話こそ、とても参考になります。ぜひともお教え願いたい』]

 部屋に入る前に皆本が言っていた。直接的にライナルトのことを訊ねると話してはもらえないけれど、『故郷のこと』から斬り込めばまだチャンスはありそうだと。

[わたしからもお願い。わたしも聞きたい、おばあちゃんのそのお話]

 食い気味のライナルトへ皆本が加勢に入る。

[おばあちゃんの昔のお話は、わたしにも関係あるもん。ね? わたしたちもう一七歳超えてるよ。大概のことはわかるし、いろんなこと自分で判断できるよ]

 切に乞う孫娘の頼みを耳にして、リタさんはロッキングチェアの背もたれに後頭部をくっつけた。まるで中空をぼんやりと眺めるようにしている。ロッキングチェアを秒針よりも遅いリズムで揺らしながらいくつか思案している様は、皆本が言っていた「話しにくそうにする」仕草なのだろうか。

 ややあって「そうねぇ」と首を傾いだリタさんは、ゆっくりとひとつ深呼吸をした。

[わかりましたわ。話せそうなところから、順番にでもよろしい?]

[ええ、もちろんです! 『ありがとうございます』]

[そうねぇ、じゃあ……異国のおばあちゃんの昔話でも、してみましょうね。お話は上手じゃないから、ごめんなさいね]

 安堵に顔を見合わせる、ライナルトと皆本。よかった、皆本にも笑顔が戻った。

[『日本に来ることになった始まりは、わたしに婚約の申し出が上がったことだったわ』]


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