第01話 黄金色の昼下がり 後編

「──ネェ、アソボウヨ……」


 ソレは不気味に笑みを浮かべながら、レイスの上に覆いかぶさっていた。すだれのように垂れ下がった長い黒髪。その奥には紅蓮の瞳が、ジーッと見開いたままレイスの眼光を見つめている。


「……………」


 赤く染まったよだれをレイスの顔にポタポタと垂らし、生暖かい吐息と冷たい視線が息をする事さえ許さない。明らかに幽霊とは異なるその姿に、レイスの思考は停止してしまった。全身が小刻みに震え、エミリアの無残な死体だけが脳裏に浮かぶ。


(死ぬ。殺される。あぁ……もう、僕は助からない)


 そして、自身の死をも覚悟したその時だった。


「──レイス! 逃げろ!」


 聞き慣れた声が突然、ソレの背後から聞こえて咄嗟にレイスは、霊素アストラを両足にまとわせる。ソレが廊下から叫ぶ声に一瞬、気を取られた隙を見計らって、レイスは床を勢いよく蹴り上げた。


 霊素アストラをまとった両足は、叩きつけられたゴムボールのように勢いよく床を弾き、丸く縮こまったレイスは寸分違わぬ正確さで、背後の小さな窓枠を捉える。まるで、跳弾した弾丸のように窓ガラスを突き破り、氷結したソレをしり目に2階という高さからその身を投げ出した。


 レイスは地面に強く叩きつけられながらもすぐさま起き上がり、森の中へと一目散に走り出す。


(何がどうなっている? あのバケモノは何だ?)


 薄暗い霧の中で視界も、足場も悪く、慣れた森と言えども最悪の状況だ。雨は既に上がっているが地面はぬかるみ、レイスは不意に足元をとられて前のめりに転んでしまった。


「あっ、痛ッ……」


 地面に倒れ込んだレイスは、未だに震える自身の手足を見つめ、擦りむいた膝を抱え込んでうずくまる。そして、唐突に襲われた最悪の状況から、さも当然のように逃げ出した自分に思わず、不甲斐なさを感じて自身の唇を強く噛み締めた。


(僕は……臆病者だ。家族を見捨てて、1人逃げ出すなんて……最低だ。何をしているんだろう。今もこうしている間に、あのバケモノが大切な家族を喰い殺しているかもしれないって言うのに……。エミリア……)


 レイスは泥に塗れて、霧に閉ざされた空を仰ぎ見る。


≪ レイス…… ≫


 その時、聞こえてきた優しい声は、起きた時にも微かに囁いていた様な気がする、あの無垢な声だった。温かくて透き通るような、繊細であらゆるモノを包み込む──そんな優しいエミリアの声。


「──エミリア?」


≪ ここだよ…… ≫


 声のする方へ視線を向けると霊素アストラ体となった、エミリアの半透明な姿がそこにはあった。普段から見えている幽霊の類と同じ、無機質な存在。


 霧の中に薄っすらと影を潜め、レイスの近くにそっと立っていた。


「エミリア……なの? でも……」


≪ 助けて…… ≫


 幽霊なんて幻覚の一種だと思い込んでいたレイスは、目の前のエミリアに戸惑いながらも、それがエミリア本人であると素直に感じていた。霊素アストラが放つ穏やかな波動を感じ取り、生前に感じていたモノと同一である事は疑う余地もない。あの無残な死体を見ていた事もあってか、レイスはもはや確信せざる終えなかった。


 幽霊は紛れもなくこの世に存在し、死しても尚──その意思は残り続けるのだと。そして、残された遺志を紡ぎ、引き継いでゆくのは現世に生きる者達の役割である事を理解した。


 目の前のエミリアに手を伸ばし、そっと静かに歩み寄る。


「エミリア……ごめん。ごめんね。でも、エミリアはもう……」


≪ みんなを……助けて ≫


 そう言ってレイスに抱き着くとエミリアは、霧のように消えてしまった。


 微かにエミリアの匂いや温もりを感じて、全身に鳥肌が立つレイス。まるで、本当に抱きしめられたかのように不思議な錯覚を覚え、そこにエミリアを確かに感じた。


 生前から面倒見のよかったエミリアは誰よりも家族を思い、誰よりも家族を愛していた。将来はアマンダのような修道女シスターになると夢を語っていた彼女だったが、そんな儚い夢も、あの優しい笑顔も──もうこの世には存在しないんだと悟る。


(エミリアは──死んだんだ)


 死してなお家族を思い、その優しさに包まれたレイス。震えていたはずの手足がいつの間か止まり、そこに居たはずのエミリアに深く両手を重ねた。頬には一滴の涙が零れ落ち、情けない自分をただ恥じた。


「もう、逃げないよ。エミリア」


 決意を新たにしたレイスは右手を宙に翳し、その手にトンファーを呼び出す。漆黒に染まるその武器は武術に於いて使用される棒状の武具であり、レイスの最も得意とする近接武器であった。



* * * * *



「キャァァァッアアアアアアアアアアアアアアア──」


 ところ変わって孤児院1階の談話室では、6人がソレと対峙していた。不気味に奇声を上げて、その手に持った肉塊をおもむろに頬張っている黒いバケモノ。


 足元には小さな手足が転がり、ユアが抱きしめている2つの骸はまさに──オルティスとニフロのモノであった。ほぼ原形をとどめていない、喰いちぎられた肉体からは大量の血が溢れ、床一面にその鮮血を染めている。


 まだ6歳だった2つの小さな骸には、嘗ての好奇心に満ちた明るい笑顔を見る事はなく、双子だった2人はいつも行動を共にし、何に対しても一緒に興味を抱いていた。


「何で……オルティスとニフロがぁ……」


 泣き崩れるユアは血塗れの両の腕で2人をギュッと抱きしめ、ソレから守るように風陣の防壁を隔てている。そして、ユアを背にアレクが燃え盛る炎をその右腕にまとわせ、肉塊を頬張るソレを睨みつけていた。


 同様にソレを取り囲むフロドとカフラスとダン、それにレジナルドの4人。


 ユアがそっと2人を寝かせ、風をまといながら静かに立ち上がると、6人はソレを見据えて身構える。冷気に満ちたフロドは眼鏡の下の涙をそっと拭い、カフラスは両腕の霊素アストラを土に変換させて硬質化。ダンは自身にかかる重力を軽減し、宙に舞う。


 そして、レジナルドは指先からビリビリと電流を帯電させて、腰の剣にその指を添えた。


「我が剣技は──バケモノからみんなを守る盾となる!」


「アソボウヨ……ネェ?」

「遊ばねぇよ!」


 ソレがニンマリと不気味な笑みを浮かべて囁いた次の瞬間、カフラスが正面から突っ込む。反射的に振り下ろされたソレの右手を硬質化した両腕で弾き、懐へ潜り込むとさらに左足を硬質化させてソレの両膝を鎮めた。


 すると、カフラスの蹴りでバランスを崩したソレは、すかさず鋭利な左手で切り裂くようにカフラスへと襲う。


「バケモノ過ぎんだろ……」


 しかし、レジナルドが電光石火のような剣技でソレの左手を受け止めると、続いてダンがソレの頭上にふわりと跳び上がった。ユアが風を操り、カフラスとレジナルドの2人をソレから引き離すと、ダンが両手を下に翳してゴゴゴッと唸る重低音と共に重力波を放つ。


「フロド! アレク!」


 宙を舞ったダンが叫ぶと、放たれた重力波はソレを床に抑え込み、背後に回り込んでいたフロドが一気に冷気を床に広げた。ソレの足元から燦然と咲き誇る睡蓮の氷塊は、崩れ落ちたソレの手足を封じ、間合いに詰め寄っていたアレクが炎をまとう右手をソレの額に当てて小さく呟く。


「くたばれっ……バケモノが」


 アレクの右腕をまとっていた炎が掌に収縮すると次の瞬間、爆炎とともにソレの顔面を吹き飛ばした。空気が揺れる程の爆炎はソレの顔面を焼き尽くし、パタリとソレは動かなくなった。


「死んだか?」


 ダンが重力波を止めて床に降りてくると、カフラスが確かめる様に何度も、何度も、黒焦げになった顔面を殴り続ける。エミリアにオルティスとニフロの3人が喰い殺され、訳も分からぬままバケモノと対峙していた彼らにとって、全ては恐慌。


「クソ、クソ、クソ、クソ! 何なんだよコイツは!」

「カフラス……」


 レジナルドが殴り続けていたカフラスの腕を止めると、そこにレイスがようやく駆け付ける。目の前には項垂れる6人と、冷たくなったオルティスとニフロの死体が横たわっていた。


「みんな……まさか。そんな、オルティス……ニフロ……」

「レイス、無事だったか。すまない、2人は助けられなかった」


「そんな……僕のせいだ」

「そんな事はないよ。レイス1人に責任がある訳じゃない」


 ダンが駆け寄り、レイスの肩にそっと手を当てるとフロドに目をやる。


「レイス、生きててよかったよ」

「フロドのおかげで僕は助かったけれど、僕は……1人、逃げ出してしまう所だった。みんながバケモノと戦っているなんて知らず、僕は……自分の事ばかり考えて……」


「いいんだよ。もう、終わった事だ」


 フロドが優しくほほ笑み、レイスに歩み寄る。


「逃げ出そうとした時に、エミリアに会ったんだ。幽霊なんて信じちゃいなかったけれど、あれは紛れもなくエミリアだった。僕に≪ 助けて ≫って言うんだ。自分はもう、死んでいるって言うのに≪ みんなを……助けて ≫って……エミリアが、僕に言ったんだ……」


 レイスは肩を震わせながら泣き崩れる。安堵したからなのか、間に合わなかったからなのか、それは本人にも分からない。けれど、溢れ出る涙はフロドの肩を濡らし、握り締めていたトンファーを肩の荷を下ろす様にそっと消した。


「ユアと俺で誰か大人を呼んでくる。みんなはザック達を探してくれ。きっとどこかに隠れているはずだから、ミアと一緒にいるかもしれないし」

「ジュリアも修道女シスターアマンダと一緒だと思う」


 レジナルドとユアがマントを羽織り、街へと向かってから少しして、未だ行方の分からない家族の捜索が始まった。一様にマントを羽織り、取り敢えず身支度を済ませながら各部屋を見て回る。


 しかし、一向に見つからないザックとナルバとジュリアの3人。ザックとナルバに関しては、いつも悪戯ばかりしているお調子者の兄妹で、兄のザックが9歳。妹のナルバは、まだ8歳だ。


 ジュリアに関しては最近になってようやく1人で、トイレに行ける様になったばかりの幼児なのだ。常にアマンダにくっ付いていた事もあって、必ず一緒にいるだろうと考えていた。


「コーランドの婆さん家に逃げたのかもしれないな」


 そう不意にアレクが呟いた。確かにザックとナルバはよくコーランド家に遊びに行っていた。


 メファリスもアマンダもジュリアも、みんなそこに居るかもしれないという事で、少し離れたコーランド家へと急いで向かう事にした一同。



* * * * *



 森の中を歩いて少しすると、湖畔の傍に建てられた古びたコーランド婦人の家へと辿り着く。


 90歳を超えるお婆さんが暮らすには、あまりにも広すぎる不気味な洋館。通称“幽霊屋敷”と噂されているその洋館は、孤児院の子供達にとって特別な場所だった。


 たまに遊びに行っては、コーランド婦人にお菓子を作ってもらったり、破けた洋服を縫ってもらったりと、実の孫のように可愛がられ、お世話になっている。


 心の優しいコーランド婦人は嘗ての戦争で夫と娘夫婦を失くし、森の中でひっそりと暮らしていたのだ。そんな折、ちょうど孤児院の設立に際して協力した事をキッカケに子供達との交流ができた。


「お邪魔します。コーランドさん?」


 レイスが洋館の大きな扉を開けて中に入るも、呼びかけに答える者は誰もいない。


「コーランドの婆さん! アレクだけど!」

「コーランドさん? ダンです!」

「いないのかも? メファリスも、他のみんなもいる気配がしないぞ」


 カフラスがずかずかと奥へ歩いてゆくが、洋館の中はまるで静まり返り、コーランド婦人を呼ぶ彼らの声だけが反響していた。フロドも異様に感じたのか、壁に手を当てて何かを探っている。


「どうした、フロド?」

「いや、こんな時間だから寝ているのかと思って、壁のベルを鳴らしてみたんだが、音がしない」


「確かに……その壁のベルはコーランドさんの寝室につながっているやつだろ?」

「そうなんだけど……」


 いつにもまして不気味な洋館は、5人の不安を煽る。底知れぬ静寂と行方の分からない家族への焦り、ロビー2階に据えられた大きな古時計は刻々と時間を刻み、時計の針が4時ちょうどを指したその時。


 ──ゴォーン。


 突然、静寂を切り裂くように古時計の鐘が鳴る。太陽を模した天井に反響して吹き抜けのロビーは、空気が膨張したように鐘の音を大きくさせた。


 驚いた4人は身を竦め、辺りを見渡す。すると、そこにカフラスの姿はなく、奥の廊下へと続く扉が少しだけ開いている事に気が付く。


「カフラスのやつ、勝手に動きやがって」

「仕方ない、連れ戻しにいくか?」


 フロドが渋々、カフラスの後を追おうと言い出したその直後に、2階の別室からガシャンっと、大きな物音がした。さっきまで誰も居ないと思っていたが、もしかするとザック達が身を潜めている可能性を考えて、4人は2手に分かれる事に──フロドとアレクがカフラスを追い、レイスとダンで2階の捜索をする。



* * * * *



 2手に分かれたレイス・ダン組はロビーの螺旋階段を上り、物音がした一室へと向かう。


「何でコーランドさん、いないんだよ。まさか、お化けとか出たりしないよね?」

「レイスは幽霊の事、信じてないんじゃなかったの?」


「星教的には実在するんだろ? 実際、見えるし……信じる事にしたんだよ」

「遂に認めた訳か。だからって、ビビりすぎだよ」


 怯えるレイスに腕を掴まれ、ダンが音のした部屋の扉を開ける。その部屋は書斎として使われているコーランド家の大きな書庫だった。まるで迷路のように入り組んだ本棚を抜けて、音の真相を探っていると突然、背後で再び物音がする。


「わぁああっ! 今、誰かいたよ!」

「分かったから、少し落ち着けって。コーランドさん? ザック? メファリス?」


 ダンが書庫の奥へと姿を消した後、手前の本棚から突然、人影が現れた。


「おやおや、誰かと思ったら……レイスじゃないかい。こんな夜更けにどうしたんだい?」


 本棚の陰からその姿を現したのはコーランド婦人、その人だった。背中を丸めた小さなお婆さん。その手にはヤマナラシの杖を持ち、その白く繊細な杖をコツコツと鳴らして、レイスに歩み寄る。


「コーランドさん、大変なんです。バケモノが孤児院を襲って……ミアは?」

「落ち着きなさい」


「ザックとナルバやジュリア、それにアマンダも姿が見えないんですよ」

「バケモノかい? どんな姿をしておった?」


「黒くて、大きくて、手足が細長く、爪と牙がとっても鋭かった。それに、紅蓮の大きな瞳をしていたんです。不気味に笑って……エミリアにオルティスにニフロの3人が、喰い殺されました……」


 少し悲し気な表情を浮かべてコーランド婦人は、レイスの腕をおもむろに握った。


「ソレは──堕天シンラじゃよ。星教に古くから伝わる忌まわしい怪物。悪しき魂と純粋な肉体が交わる時、人は怪物に堕ちてしまうという。全ての元凶は遥か昔、神々によって生み出された邪悪な始祖“マヴロ”だと言い伝えられてきた。この世に起こる摩訶不思議な出来事も、子供が消える不可解な事件も、全て──闇に蠢く奴らの仕業なんじゃ!」

「コーランドさん、痛い……」


 老人とは思えぬ程の握力でレイスの腕をギュッと掴む、コーランド婦人。今までに見た事がないくらいに取り乱したコーランド婦人は不意によろけて、思わず杖をついた。


「コーランドさん、ザック達を見ませんでしたか?」

「知らんよ。それより、堕天シンラに会ったのなら、くれぐれも用心をする事だね。奴らを殺せるのは加護を与えられた星騎士のみ。星霊アニマと対話し、星霊アニマに愛された者だけが邪を滅する事が出来る」


「大丈夫ですよ。もうバケモノなら皆が倒しましたから」

「死んではいないさ。加護をまともに扱えぬ子供らにア奴は到底、殺せやしない」


 その時、レイスの脳裏に嫌な想像が廻る。街へと大人を呼びに行ったレジナルドとユアだ。2人が星騎士ではなく普通の大人を連れて戻ったとしたのなら、最悪な事態になり兼ねない。レイスの不安は鼓動を締め付ける様に肥大し、バケモノが再び起き上がる姿を想像してしまった。


「コーランドさんの言う事が事実なら、孤児院に急いで戻らなくちゃ!」


「──レイス、誰と話してるんだ?」

「えっ⁉」


 1人で話しているレイスの声に戻って来たダンが、蒼白の表情を浮かべて見つめる。レイスがさっきまで話していたコーランド婦人に目をやると、そこにはヤマナラシの杖だけが本棚に立てかけてあった。


「えっ。いや、でも……。確かにコーランドさんがここに」

「誰もいないよ……」


「僕は……そんな、コーランドさんは確かに居たよ。ほら、腕だって掴まれて痕が残っているし、きっとどこかに行ったんだ」

「コーランドさんの握力じゃ、そんな痕はつかない。レイス、コーランドさんは恐らくもう……」


 レイスの右腕には、クッキリと手形のように痕が残っている。確かに90歳を超える老人の握力ではなかった。


 霊素アストラ体と呼ばれる幽霊は、謂わば器という制御を失った遺志そのモノであると星教では教えられている。即ち、霊素アストラは意思に基づき、遺志を形づくるモノ。


 生命の根源である霊素アストラが肉体を離れて存在するという時点で、その者は死んでいる事を意図していた。死体を見つけなくとも霊素アストラが見える彼らにとって、確認するまでもない事実である。


「あのバケモノに殺されたのかも……」

「寝室を見に行こう。ザック達も、そこにいるかもしれない」


 ダンとレイスは2階の廊下を奥まで進み、突き当りの階段を上って3階へと赴く。1階ロビーの明かりをつけた事で吹き抜けの2階までは、その明かりが届いていたのだ。しかし、3階までやって来るとそこは窓もなく、ただ暗闇だけが永遠に続いているようだった。


 2人はその手に霊素アストラをまとい、その薄明かりだけを頼りにさらに奥へと突き進む。まるで、うわさ通りの“幽霊屋敷”は静まり返り、ギィーッと床の軋む音だけが暗闇の中を響かせる。


「慎重に、極力物音は出さない方がいい」

「レイス、いくら何でもビビりすぎだよ。大丈夫さ、バケモノなら俺たちが倒しただろ? あのバケモノはコーランドさんのこの屋敷から来たに違いない。だから、もうここにはいないさ」


 ──クチャ、ムシャ……クチャ……。


「…………」


 揺れる霊素アストラの微かな明かりに照らされて、レイスの表情が一気に青ざめる。ちょうど廊下の中間あたりまで進んだ2人は、その歩みを止めて音のする方へと明かりを向けた。


 何かをそしゃくしているような、そんな音だ。部屋を確認すると、そこはコーランド婦人の寝室で間違いない。今にも飛び出しそうな心臓を抑えて、レイスがその部屋の扉をゆっくりと開ける。


 ──クチャ、ムシャ……クチャ……。


 部屋は窓ガラスが割れ、玄関先で鳴らした予備ベルも損壊していた。血に染まったレースが夜風に揺らぎ、滅茶苦茶になった寝室の中心でソレは月明りに照らされて、惨たらしくも喰い散らかされた肉塊の傍らにしゃがみ込む。白髪の骸は既に誰か分からない程の状態で、その頭部を実に美味しそうな表情を浮かべて、ソレが無我夢中に貪り喰っていた。

 

「う゛ッ……」


 レイスが咄嗟に背を向け、口を抑えて廊下に飛び出す。部屋を漂う異臭に、目の前の無残な光景がレイスに吐き気を催させたのだ。ダンも平気そうな顔をしてるけれど、レイスの背中を摩るその手は確かに震えていた。


 部屋の中にいるソレは確かに倒したはずのバケモノで、彼らを追ってこの屋敷まで来たのだろうか? そんな憶測を考えながら、ダンはひとまずレイスの容態を優先させる。


「お゛ぉッ……う゛ぇおおおおおぉッ……」

「レイス、ひとまずここから離れよう。バケモノに気が付かれたら一巻の終わりだ」


「ごめん」

「フロド達に合流するぞ」


 レイスの腕を肩に回し、そっと立ち上がると背後から微かに吐息が聴こえた。


「──ハァ……ハァ……ハァ……」

「……ッ……」

「……えっ……」


 部屋から顔を覗かせて2人を見つめている、紅蓮の大きな瞳。血に染まった鋭い牙にニンマリと吊り上がった口角。ボサボサの長い黒髪が、不気味に女性を彷彿とさせている。


 視界の端で背後の存在を確認した2人は、その吐息がかかる程の距離に驚愕する。そして、動かなくなった体は次第に震えが増し、背筋が凍り付くような悪寒と共に絶望が2人の背中にドッと圧し掛かった。


「──ハァ……ハァ……ネェ、アソボウヨ」

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