アイムトリッパ 黒い箱編

亜牙憲志

第1話 目覚め


 無機質な部屋に置かれたディスプレイ画面に、角がわずかに丸い、横長の長方形が表示された。

 それは、まるで古いテレビゲームに出てくるようなメッセージ枠の様。


 チカチカっと白いカーソルが点滅したかと思うと、すぅーっと横に流れながら文字を表示し始めた。


 『 目の前は ブルー

   水中に ただよう 幼いクラゲ 』



 少し間をおいて、流れ落ちる水のように文字がきらめいて消える。

 カーソルが再び点滅、横へ移動し新たな文字を生む。


 『 光さすみなもと その水面へ

   ボクは 手を 伸ばす    』



 ディスプレイを静かに見つめる、白衣の人物は微笑んだ。画面が暗転する。


 新しいメッセージが表示された。


 『 冒険を 始めますか? 〔はい〕 〔いいえ〕』


 『はい』のボタンの上で光っていたカーソルが、首を振るように『いいえ』に移動する。天邪鬼な心か? それとも強い好奇心か……、これは、あまり望んではいない展開。


 チカチカチカ、しばらく『いいえ』の上で留まっていた光が『はい』に戻ってきてくれた。


 「はぁ……そっちも押してみたくなる気持ち、分かるけどね……私もそれほど時間がない……」



 『はい』を選択。


 後頭部から後ろに倒れ、どんどんどんどん下へ落ちて行く。


 大きく螺旋を描きながら、ぐるぐる回り落ちて行く。

 海深く沈んで行ってるのか不思議な感覚。不快ではない、夢心地、夢に没入していく感じで意識が散漫になり……考えがまとまらない。


 寝ているのか? ああ……夢を見ているのか?


 聴覚に心地よい揺れを感じた。

 女性の声だ。遥か彼方から聞こえてくる。


 「さあつかめ! ヒーロー。君の新たな希望を!」




 青年はゆっくりと目を開けた。


 おもむろに上半身を起こそうとするが、どうもに体が重い。


 「ふぅ~」


 深いため息一つ。

 仕方なくまた力を抜き、ふんわりと包まれるようにベッドに身をゆだねた。


 「……」


 上に見えるのは、藍色のレース、美しい唐草模様。……ユラユラと水中のように揺れて見えるのは錯覚だった。


 彼は天蓋付きの豪勢なベッドで目覚めた。


 「ここは……どこ?」


 霞がかかって、肉体以上に重たく感じる脳がやっとギギッギギ…と回りだした。血液とシナプスの歯車だ。


 「ここどこだ? いったい……」


 もう一度、腹筋辺りに力を込め、両手の支えを加えながら上半身を起こす。腹部まで掛かっているスベスベした肌触りのシルクの布をはぎ取り、体の動かし方を思い出すかのように、ぎこちなくベッドサイドから何とか足を下した。


 「……」


 「た、畳は? どこいった?」


 こすれて所々がザラザラになっている安アパートの畳。ボロいとはいえ、足裏になじみ温かい、あの畳が一枚も見当たらない。


 石の冷たさを感じながら、数分の間もただ呆然と足元を見つめていた視線を、やっと高く薄暗い天井に向けた。


 「……」


 木目柄がプリントされた見慣れた合板や、シミで汚れた薄い漆喰壁はどこにも無く、様々な草花を模した彫刻の施された梁や柱、石タイルの壁。

 映画や写真でしか見たことがない建築物の、手のかかった内装デティールの数々。


 ベッドを囲んだレースのカーテン越しに見えるのは、まさに貴族の寝室といった広すぎる一室だった。


 一時、じっと時が止まったかのように動かない青年。

 体内の脈動、かすかな風の音、ゴォーっというこもった耳鳴り、感覚を研ぎ澄ませ心の底で理解する。


 信じがたいがこれは『現実』なのだ、夢ではない。



 現状から一歩でも前へ進むために、最後の記憶、目覚める前の自分の行動を思い出そうとする。


 混乱ゆえか、頭の中の思考がつぶやきに出てしまう。


 「そう、いつものように早朝の新聞配達……確かに行った。そうだ、行った……間違いなく配達は無事に済ませた」


 まぶたをパチパチする。続けてその先を思い返す。


 「……その……その後は…………うん、うん、学校だ。当然、学校へ行った……学校? 高校?? いや違う、大学。……大学だ、最寄りの地下鉄駅まで……自転車こいで……」


 一人うなずきながら、いつも変わらぬ当たり前だった日常の、生活の記憶を反芻する。


 「何か……忘れてないか?」


 首をひねる。


 「……」


 「…………」


 「あああっ!!」


 青年は思わず大声を上げてしまう。


 片手で少し震える口元を抑える。かすかな不安が見開いた両眼のドームを覆い、痛むほどではないが息苦しい締め付けが胸を襲う。

 未来を示す天秤、絶望と書かれた側の皿に重りがのる。不確かという恐怖、盤石だと思っていたものが揺らぐ恐怖が重りを足した。



 「じ……自分の名前が……思い……出せない……」

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