第3話 魔法と踊る受験生-3

「ただいまー」

 玄関の照明スイッチを入れながら思わず声を上げる。明かりが全くついていなかったので、母より自分のほうが先に帰ってきたのだとわかっていたが、つい声が出た。

 ふかふかしたファーのスリッパに足を突っ込みながら、キューちゃんみたいなかわいい猫でも出迎えてくれればなあと思う。けれど母と二人で暮らすこの家に猫を迎え入れるのは少し考えたほうが良いだろう。母は留守がちだし、自分も学校があるのだから。

 リビングダイニングの暖房スイッチを入れてから、蘭花はようやくコートを脱いだ。床におろした鞄の上に外したマフラーを置く。部屋に直行して片付ける気になれなかったのは、お腹が空いていたからだ。

 制服のままキッチンに向かい、用意してあった食事をレンジにかける。その場で温まるのを待っていても良かったけれど、まずは窓のカーテンを閉めてしまうことにした。

 高層マンションの一二階なので眺望はいいのだが、やはりカーテンを開けっぱなしにしておくのは防犯上よろしくない。一応は有名人の家なので、セキュリティも万全なマンションではあるものの、住人の防犯意識は大切だ。カーテンを閉め切ったところでレンジの呼び出し音が鳴ったので、食事をトレイに乗せてリビングのテーブルにセットした。

「いただきます」

 同時にテレビのスイッチを入れて、BGM代わりにしながら食事にする。

 母は芸人としては厳しかったし、特殊な職業ゆえにあまり蘭花のことばかりに集中はできないのかもしれないが、それでも普段はいい母親だった。時間がある限り食事は必ず手料理を作ってくれたし、一緒に買い物や旅行にだって行く。

 ただ舞台公演中や、間近に公演を控えているような時期はどうしても帰りも遅くなるし、あまり家にはいられない。なので、公演の近い今日の食事は、昼間来てくれている家政婦の作ったものだった。この家政婦というのも母の望みを満たすべく人で、料理は美容と健康を維持することに余念がないメニューとなっていた。栄養食というと味のほうは期待すべくもないと思われがちだが、これがとても美味しいのだからプロというのはあなどれない。

『…こちらの訓練所では、使い魔を介助動物として訓練するという試みが行われています。現在、介助動物といえば盲導犬や聴導犬などの犬が最も一般的な動物です。しかし使い魔として仕込めば幅広い種類の動物の活躍が見込めますし、介助動物の不足も補えるのではないかと期待されています』

 聞こえてきたニュースに、蘭花はテレビに目を向けた。

 考えられる問題はいくつかあるけれど、なかなか有効で面白い試みだなと思う。 もしも典子がエンターテインメントの世界ではなく、福祉や公共性の高い仕事をしていたとしたら、それはそれでこのニュースのように多くの人の役に立つ魔法が使えていたことだろう。

 エンターテインメントも人の心を豊かにする。けれど蘭花がやりたいことは、それとは別の方向から人心を豊かにすることなのだ。例えば使い魔なら、アニマルショーのパートナーとしてステージに立つのではなく、介助動物として活躍できるような使い魔を育てたい。誰かを助けるために魔法を使いたい。

「ただいまー」

 ニュースが切り替わると同時に、帰宅した母がリビングに入ってきた。やましいことがあるわけでもないのに、なんとなく慌ててテレビのスイッチを切って母を出迎える。

「お帰り、ママ」

「はーい、ただいま。蘭花も今帰ってきたばかりみたいね?」

 真子はテーブルの上の食事を見つけて言った。

「うん。ママは夕飯食べたの?」

「ええ、済ませてきちゃったわ。あなた今日は何食べてるの?」

「キッシュだったよ。食べたらお風呂入る」

「なあに、制服のまま着替えもしないで食べてたの。だらしないことしないの」

 小言を言いながらも、真子はあれこれ忙しく作業をしている。コートを脱いだり郵便物をあらためたりしながらも小言はやまない。

「レッスンで夜遅くなってしまうのは仕方ないし必要なことだけど、それでもきちんとした行動をしなさい。芸能関係の学校は立ち居振る舞いから厳しく言われるし、芸の世界ではそういう細かいことがすべてあなたを高めることになるのだから」

「ねえママ、そのことなんだけど」

「なあに?」

 一瞬にして、真子の目つきが厳しくなった。大方、何を言われるか察したのだろう。

「前にも言ったけど、私は魔法学校の普通科に行きたいの。芸能科には行かない、パフォーマーにはならない」

「まだそんなこと言ってるの?」

 あきれたような声。真子は腕時計を外しながら言う。

「ママはあなたの弱音なんて聞きたくありません」

 真子はキッチンに移動して、グラスに水を注いだ。そのまま水を飲みほして、廊下へのドアに手をかける。

「ちゃんと私の話を聞いてよ!」

 思わず大声を上げた。感情的にはなりたくないのに、もうはぐらかされている時間だってない。

「……ごめんなさいね。確かに何かしながらする話じゃないでしょうね」

 本当に悪びれているのかもわからない、硬い声で言いながら真子は蘭花に向き直った。

 母は美しい。

 娘である蘭花ですら本当にそう思う。柔和な印象があると言われる蘭花とは正反対に、いかにも意志の強そうな顔立ちだと言われるのが真子だ。背だって高いから、蘭花はいつまでも母を見上げていた。

 艶やかなアイメイクに彩られた瞳が、射るような眼差しで蘭花を見つめる。真っ赤なルージュを引いた唇は、口を開けば強烈な言葉で蘭花を責め立てるような気がする。この人は正真正銘の魔女だと、対峙するたびに思う。

「怖気ついて芸能科に行かないって言ってるんじゃないもん。私のやりたいことと違うから行かないって言ってるの」

「じゃああなた、今まで何のためにレッスン続けてきたの?何のために典子に個人レッスンまで頼んでるのよ」

「レッスンは好きだよ、習い事として楽しかったし、典子先生も大好きだもの。無駄にお金を使ったって思ってるなら、謝るしかないけど」

 ママが有無を言わさず通わせたんじゃない、というのは飲み込んだ。

 確かに自分がやりたいと言い出したのではなく、気づいたら母に連れられるままレッスンに通っていた。けれど、嫌だ、やめたいとごねたことなんて、一時の感傷や愚痴のように言ったことからはあっても、本心で言ったことなんて一度もなかった。

 レッスンに通うことと進路のことは別だと思っていたのに、自分の行きたい道がはっきりするにつれ、ズレが生じてきただけなのだ。

「お金の話をしてるんじゃないの。ママはね、あなたならきっとママと同じように観客を魅了するパフォーマーになれるって信じてるから、今まで投資してきたの。それを惜しいと思ったことはないし、投資した分を返せって言ってるんじゃないわ。あなたのための投資だもの。ママは何より、あなたには素晴らしい価値があるって信じてるの」

「その価値って、パフォーマー以外の道にはないの?私は芸の道じゃなくて、人の役に立つ魔法を使うことだって、大きな価値があると思ってる」

「わかってるわ。魔法が社会貢献していることも、多くの職業で応用が利くことも理解してる。でもそれはあなたがやらなくてもいいじゃない」

「確かに私がやらなくても、いくらでも素晴らしい魔法使いはいるでしょう。でもパフォーマーだって同じだよ。レッスン生はみんな素敵なパフォーマーになりそうな子ばっかりだよ。私は、私にしかやれないことがやりたいわけじゃない。私がやりたいことをやりたいの」

「……蘭花は、ママの舞台を素晴らしいとは思ってくれないの?」

 真子は少しだけ悲しそうな表情をした。母がどれだけ己の芸に賭けているかわかっているので、そんな顔をされるのは蘭花だって苦しい。

「そんなことない。私はママのことを尊敬しているし、芸の世界も素晴らしいって思ってる。けど」

「じゃあわかってちょうだいよ」

「それとこれは別!」

 じれったくて、蘭花は声を荒げる。

「あなたはママと同じで、多くの人が真似したくても真似できない魔法を使えるのよ」

「わかってる、わかってるよ。私だって魔法を大切なものだって思ってるよ」

 蘭花は胸元に手を置いた。

「魔法使いは特別じゃない、その中で少し特殊な魔法が使えたって、そんなに有難がることないって思う。だけど、それでもやっぱり、せっかく持って生まれた魔法だもの、何かに生かしたいよ。ママが魔法の芸で生きる道を見つけたように」

「その通りよ、舞台こそがママの生きる場所。私は私の生きる道を、誰にも邪魔させない。踏みにじられたりしない。誰にも、ランファを貶めるような真似をさせない。レディ・ランファはいつだって舞台で輝き続けるのよ」

 瞳に剣呑なものさえたたえて真子は断言する。

 己のすべてをかけて舞台に立つこの人をねじ伏せる言葉を蘭花は持たない。でも、蘭花は母の生き方をねじ伏せたいわけではないのだ。ただ。

「それはママの生き方だよね?」

 母の生き方を押し付けては欲しくない。

「そうよ」

「だけど、私はママじゃないの」

「それでも、あなたは草壁真子の、レディ・ランファの娘の、草壁蘭花よ」

 そんなことはわかっている。そしてそれは誇りであると同時に、今は大きな枷だった。

「……ママは先にお風呂に入ってくるわ。蘭花も早くご飯食べちゃいなさい」

 そう言って、真子はリビングを出ていく。引き留めることすらできずに、蘭花は唇をかみしめた。

 味も感じられないまま食事を飲み込んで、食器をキッチンに下げる。キッチンカウンターに置きっぱなしになっていた真子の腕時計が目に入った。

 一見するとシンプルなデザインだが、文字盤と竜頭にさりげなく宝石をはめ込んだ高価なものだ。部屋の照明にも美しく輝くジュエリーウォッチは、身を飾るものにも一切の妥協を許さない真子のプライドと成功を象徴するようで、蘭花にはその高級時計を見栄や虚栄心だと切って捨てることなどできなかった。

「ママのわからず屋っ」

 まるで小さな子供のように吐き捨てるのが精いっぱいだった。


「え?先生一緒に行けないんですか?」

 出かける支度をしていたところに、スマートフォンに着信が入った。着替えている途中だったワンピースに慌てて袖を通して電話に出ると、一緒に出掛けるはずの典子からだった。

『ごめんね、真子さんに急に頼まれごとされちゃって』

 今日は典子と一緒にフーディエの舞台を見学に行く予定だった。

 言い争いこそしたものの、行くと約束したものをふてくされて反故にするような真似はしたくない。それに蘭花は真子の舞台が好きなことに変わりはないのだ。

 関係者だけを観客に行われるリハーサルへの招待で、待ち合わせの時間に間に合うように支度をしていたところだったのだが。

『すぐに家を出なくちゃならないのよ。劇場にキーユを連れてきてほしいって言われててね。車出さなきゃならないし、ゲージを用意しなくちゃいけないし……。ほんと真子さんは唐突なんだから』

「なんかママがすみません……。キューちゃんを連れて行くんですか?いったいなんだってそんな」

 さすがに急に舞台のプログラムにアニマルショーを組み込むはずはないので、一体全体どういうことなのだろう。

『私の現役時代から贔屓にしてくれてた方が、開演前にお見えになるそうなのよ。キーユを久しぶりに見たいんですって。まあ……あれよ、スポンサーのご機嫌取りよ』

 典子はどことなく言いづらそうだったが、蘭花は別段驚かなかった。華やかな世界でも、いや、それ故にお金の問題はついて回るのだ。出資してくれる人がいるのはいいことだし、ご機嫌取りもお礼だと思えばやましいことでもないだろう。

「わかりました。じゃあ劇場で会いましょう」

『うん、じゃあまたあとでね』

 電話を切って、スマートフォンをそのまま鞄に押し込む。家を出るまでは少し時間があるので、改めて鏡をチェックした。

 別に誰に見せるわけでもないけれど、お出かけとなると心弾むものでお気に入りの薄桃色のワンピースを着た。

 今日も寒いので、コートを着てからマフラーをぐるぐる巻きにする。母のそれとは違う、安物の腕時計を腕に巻いて文字盤に目を落とせば、ちょうどいい時間だった。 

 最後に戸締りを確認して、蘭花は家を出た。

 

 劇場は独特のにおいがする。実のところ、それは大量に用意されたパンフレットの紙の匂いだったりするので、劇場じゃなくても覚えがある匂いなのだが、蘭花はとても胸が高鳴るのだ。

 劇場に来ればわくわくすることが起きる。素敵な時間が待っている。幼いころから母に連れられ劇場に来て、舞台の母を観てきて、染みついた高揚感。この気持ちは決して嘘ではない。

 トイレを済ませて、ロッカーにコートとマフラーを預けて劇場内に入る。今日は限られた招待客だけで人が少ないので、ロッカーも空いていた。

「あ、先生。お疲れ様。キューちゃんは?」

 指定席に先についていた典子が手をひらひらと降っていた。隣の座席の座面を下ろして蘭花も着席する。

「キーユは楽屋を借りて休ませてるよ。私もキーユも久々にお偉いさんの前で一芸やったもんだから疲れたわー」

 典子はストレッチをするように、狭い座席で控えめに体を伸ばした。

「でもまあ、喜んでもらえるのは悪くないね」

「うん、いいことですね」

 言いながら、蘭花は背もたれに身を預けた。劇場内で静かに流れていた音楽が突然高まる。丁寧なアナウンスが流れて、照明が徐々に暗くなっていった。

 魔法のショーの幕が上がる。


 ステージは一面の花畑だった。

 水と炎を操る魔法使いが放つ、決して相容れることのない二つが交わる。二つは花を押し流したり燃やしたりすることなく、まるで鳥のような形を作ってステージ上を飛び交う。花畑で遊ぶ水と炎の精だ。

 水と炎の精に呼び起されて、花の精が表れる。真っ白い花を一つ一つ繋ぎ合わせたようなドレスを着たレディ・ランファ。

 ランファが歩を進めると、一面に咲いていた花が一斉に空に散った。散った花は、そのまま蝶に姿を変えてステージ上を飛び交った。使い魔の蝶ではなく、花も蝶も魔法で作り出した幻想だ。蝶を捕まえようとして手を伸ばし、そのままランファは宙へ飛び上がる。蝶と戯れながら、舞台上を飛び回った。

 観客席からは感嘆のため息と、静かな歓声が上がる。


 空を飛ぶ魔法。


 お話の中の魔法使いは簡単に空を飛ぶけれど、現実に空飛ぶ魔法を使える者はごくわずかしかいないとされる。空を飛べる魔法使いを、蘭花は己の母と、自分自身しか知らない。

 空中ブランコのようにスリリングに、ティンカーベルを信じられるくらい夢いっぱいに、空を飛ぶことができる魔法使い。それがレディ・ランファだった。


 夢のような時間は終わりを告げ、客席に明かりがともる。現実に引き戻された人々は、それでも舞台の余韻に浸りながら満足気な表情を浮かべて帰路に就く。帰りがたいような、後ろ髪惹かれるような思いでロビーを後にする何とも言えない気持ちも、蘭花は嫌いではない。けれど今日はこのまま帰るわけではないので、帰る人の邪魔にならないよう、ロビーの隅で待機していた。

「私、ママに終演後帰らないでしばらく待ってるように言われてるんです。ママがロビーに出てくることはないと思うし、かといって勝手に楽屋に入れないし……。スタッフさんにつないでもらうにも忙しそうだから、スマホに連絡くるの待ってるんですけど」

「そうなの?私は帰ったほうがいいのかな。とりあえずキーユを引き取りがてら確認してみるわ」

「スタッフさんにロビーから出るように言われたら出ちゃうんで、とりあえず何かあったら先生にも連絡しますねー」

 どうも時々母は大雑把だ。いくらランファの娘だからって、きちんと待ち合わせていない限り勝手な振る舞いもできないだろう。

 とりあえずスマートフォンを注視する。人が少しずつ減っていき、蘭花もいつロビーから締め出されるかとはらはらしながら辺りを見回した。と、同じように所在なさげにしている人が目に入る。蘭花に背中を向ける格好で、少し離れた場所で壁の時計と出口のほうを交互に見やっていた。

 蘭花の着るふんわりとしたフォルムのコートと対照的に、すっきりとした黒いコートと地味な色のマフラーをまとっていて、一見大人の男性に見える。しかしよくよく見ていると、時折見える頬の輪郭は同学年の男子と変わらないように見えた。背は高いけれど、あまり蘭花と歳は変わらないのかもしれない。真正面から見ていないからわからないものの、そう思って見ていると、確かに履いているスニーカーや肩にかけている鞄はティーン向けのデザインっぽく見える。

 なんとなくその少年らしき人と、スマートフォンを交互に見つめているうちに、ロビーからはどんどん人が減っていった。いよいよロビーに残るのはスタッフと自分とその人だけになるかに見えた時。

 少年が蘭花のほうを振り返った。想像通り、同い年くらいのその少年。セルフレームの黒い眼鏡をかけた、その少年と目が合って。

火連かれんくん!」

 蘭花は声を上げた。

 この人は。この男の子は。

 背は高いけど、顔は少しだけ面長だけど、眼鏡はこんな大人っぽいデザインじゃなかったけど。

「火連くんだよね?」

 ずっと、蘭花の心の中にいた男の子。

 ずっと、ずっと会いたかった人。

「……蘭花か?」

 少年のほうも驚いたような顔で尋ねた。

「そうだよ、蘭花だよ、火連くん!」

 勢い込んで名を呼ぶ蘭花に、驚き顔だった少年はとたんに顔をしかめて。

「……下の名前で呼ぶなよ」

 蘭花の記憶の中にあるよりも少し低い声で、そう言った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る