あたしとブツゾウが目的地のアパートに到着したのは、夜の七時を少し過ぎたあたりだった。辺りは暗くなり始めている。

「事故物件、というのを知っていますか?」

 あたしは、うげっという顔をした。

「マジか! あれだろ? 人が死んだ部屋だろ? ここのアパート? やだよ、お化けが出んだろ? 勘弁しろよ!」

 あたしはスマホを取り出した。飛び込みのバイトをするから、飯は外で食うと親に電話したばっかりだが、やはり用意してもらった方がよさそうだ。


 ブツゾウは口の端を上げた。

「ほう、怖いですか。それは結構。そういう判断がすぐにできる人、僕は尊敬しますよ」

 あたしはスマホから指を離した。

「どういう意味だ?」

「怖いを、怖いと認めるのは、結構難しいんです。さ、近くにコンビニがあるので、そちらで晩御飯を買いましょう。勿論僕が奢りますよ」

 あたしは渋面を作った。

「バイトは危険だって言ったよな? どう危険なんだ?」


 ブツゾウはアパートを指差した。

「何か気づくことはありますか?」

 あたしはアパートをまじまじと眺める。

 二階建てで、街灯に照らされた壁は緑色。部屋の数は窓から判断すると六。横に鉄製の階段が付いていて、その下に銀色のポストが、やはり六。

「……ん?」


 あたしは周りを見渡した。

 住宅街で、陽はすっかり落ちている。だからシルエットになった家の窓からは、灯りが煌々と漏れている。

 だが、目を戻すと、件のアパートは真っ暗だ。どの部屋の明かりも点いていない。

「もしかして、誰も住んでないのか?」

 ブツゾウはこっくりと頷くと、さっと歩きだした。あたしも横に並んで歩き出す。

「あれか、幽霊が怖くて、みんな引っ越した……で、お前が今から、除霊をする――」

「それだと葛城さんの出番がありませんね?」

「あ、そっか……は!? 生贄的な――」

「いやいやいや、葛城さん、身のこなしからして結構お強いでしょう? しかも僕を探っていたじゃないですか。そこらじゅうに顔が知られている。生贄として選ぶのは、それこそ最悪の選択ですよ」

「うーむ、中々の説得力。んじゃ、なんであたしを『必要』とか言ったわけ?」

「理由は『マタエモン』ですよ」

 はあ? と首を捻るあたしにアルカイックなスマイルを向けつつ、ブツゾウはコンビニのドアを潜った。


 あたしはブツゾウの奢りで、スパイシー鳥唐揚げ大盛り弁当とコーラを買い、レンジで暖めてもらうと、浮き浮きした気分でコンビニを出た。ちなみにブツゾウはハンバーグ弁当とざるソバだ。喰い合わせが悪そうだな、とあたしが言うと、ブツゾウは男の子ですから肉ははずせず、さりとてソバ好き故に買わずにはおれず、と悩ましげな顔をした。あたしはなんだか面白くてケラケラ笑ってしまった。

「――で、なんでマタエモンなわけ?」

 ああ、とブツゾウは空を見上げた。


「あの部屋なんですがね、確かに事故物件なんです。今まで六十人くらいの人が亡くなっています」


「ま、待て待て待て! 嘘つけよ! それが本当なら、とんでもねえ大事件じゃねえか!」

「はい、そうですね。で、ここからが肝心な点ですが、部屋で死んだ人、その家族、そして不動産屋、大家と関わる人全てが、『納得』しているんですね」

「……なんだそりゃ?」

「部屋に入ってみれば判りますよ。ちなみに亡くなった方の死因は、『病死』です。最期の二人を除いてね……」

 ブツゾウが足を止めた。


 あたし達二人はアパートの前に戻ってきていた。

「さて、葛城さん、この先は部屋で話しましょう。勿論嫌なら帰るという選択肢もあります。その場合、バイト代は出ませんが、お弁当を奢ったので勘弁してください」

 あたしはアパートをじっと見た。

 さっきと全く同じく、真っ暗でしんとしていて――それだけだった。邪悪な気配とか、嫌な感じとか、そういうものは一切ない気がする。

「……ぶっちゃけ好奇心をそそられるんだけど」

「そのように話しています」

 ケロッとしてブツゾウは言った。あたしは、コノヤロウと苦笑いをした。

「部屋に入って話を聞いた後に、帰るってのはあり?」

 ブツゾウは頷いた。

「なんなら、何かが起こっている最中に帰るのもありです。言ってしまえば、葛城さんは今夜、ここでゴロゴロするのが仕事なんですよ。その際にマタエモンさんを少々お借りするだけです」

 結局あたしは、部屋に入った。


 妙な間取りだ、と思った。

 まず玄関がある。そこにキッチンが付いていて、風呂があって、トイレがある。そこまではいい。

 だが、台所に押入れまでついている。収納と言うレベルじゃなくて、布団が入る大きさのやつだ。

 奥の部屋は、正方形で、収納や家具の類は一切ない。壁は白くて床は畳だ。

 窓には分厚い白いカーテンがかかっていて、台所との仕切りを閉めると、真っ白い壁に囲まれたようになる。天井も白だ。

 畳は綺麗だが新品ってわけじゃない。壁や天井だって綺麗だが、最近塗り直したとかそんな風には見えない。やばげな染みとか、何かを吊った痕とかも見当たらないのだ。


 ここで、六十人も人間が死んだ……本当に?


 あたし達は畳にそのまま座ると、弁当を食べ始めた。

「で、なんでブツゾウはこんな事をやってるわけ?」

 ハンバーグを箸で半分に切ったブツゾウは、大胆にかぶりついた。

「むぐむぐ……ふう。僕は、いや、僕みたいなのはどこの地域にも一人いるんです。いわば、地域限定の霊能力者。この土地から力を貰って、この土地の脅威を排除してまわる、白血球みたいな存在ですね」

 あたしは、はへえと間抜けな声を出した。

「マタエモンが見えて無かったら信じられない話だな。ってことは、この土地? この辺りにいる限り、無限に力を使えるわけだ?」

「まあ、そうです。とはいえ、物を壊せるような力じゃないですし、土地から一歩でも出れば普通の人ですね」

「謙虚なことで」

 ブツゾウは、にこりと笑った。

 なんともご利益のありそうな笑顔だ。


「さて、この物件ですがね。実は入居するのにかなり厳正な審査があります。審査条件のうち、最も重視すべき点は――余命です」

 余命? とあたしは唐揚げにかぶりつきながら眉をひそめた。

 ブツゾウはソバを啜り、はいと頷く。

「ここに入居するには、余命が半年以下でないと駄目なのです」

「ふうん……で、今まで皆さん、予定通りお亡くなりになっていると? でも、なんで?」

 ブツゾウはハンバーグの最後の欠片を口に放り込むと、ティッシュで口の周りを拭いた。

「ふう……では、やってみますか」

「ん? やるって、何を――」

 ブツゾウは口を尖らせ、あたしに息をふーっと吹きかけた。デミグラスソースと麺つゆの匂いが鼻をくすぐる。

「……へいへーい! 女の子にいきなり息を吹きかけるなんて、エチケット的にどうなのよ?」

「それは、大変申し訳ありません。今度からはやる前にお聞きしますので……ところで葛城さん、後をご覧ください」

 あたしは振り返った。

 壁に真っ黒い染みがあった。

「…………え? な、何だこれ? さっき――まで、なかったよな?」

 染みは、水にたらした墨汁のようにモワモワと渦を巻いている。

「これが、この物件の特性です。本来ならば住んでしばらく経つと自動的に起こるのですが、今回は強制的に起しました」

 ブツゾウの説明と共に、染みはゆっくりと形をとっていく。

「……マタエモン、か?」

 墨絵で書かれたような太った猫はビャウと、毎日聞いていた声で鳴いた。

 あたしは――泣いてしまった。


「……というわけで、この部屋はその人に憑いている霊とこうした形で交流できるのです。人生の最後を迎える人達に、せめて一時の安らぎを与えるわけです」

 あたしは、マタエモンの喉の辺りの壁をこしょこしょと撫でた。墨絵のマタエモン――スミエモンはあたしに喉を見せてゴロゴロと喉を鳴らし、ごろりと横になり、腹を見せた。

「これ、壁に手突っ込めないの?」

「……慣れるの早っ。

 まあ、普通の人にはできませんね。御臨終が近ければ、魂が体から出やすくなって、壁の中に入れる場合もあるそうですが……」

「へえ……バーチャルだねえ……」

 バーチャル、と絶妙な顔をするブツゾウ。あたしが壁にもたれると、スミエモンが壁の中であたしの腕沿いに上に駆けあがり、肩の辺りに顔を擦りつけた。

 あたしは首を捻った。

「で、これのどこが危険なんだ? スミエモンがこうやっている為にあたしの命を使うとか、そんなのか?」

 スミエモン、とブツゾウは訝しげな顔をした。

「この現象は部屋の力ですよ。壁紙と土地と、まあ色々な要素が集まった結果です」

「……となると、あれか、ここで亡くなった最後の二人が問題って事か」

 ブツゾウは姿勢を正した。

「そうです。マタエモンさんは、いわば餌なんです。ここで、これから起きるかもしれない事に対する」

 ブツゾウは深々と頭を下げた。

「申し訳ありません。マタエモンさんと遊ぶ葛城さんを見ていたら、僕は間違っていると感じました。葛城さんにマタエモンさんを戻しますので、今日はこの辺で――」

 スミエモンがブミャーと鳴いた。

「……スミエモンが話してみろってさ」

 ブツゾウは顔を上げ、しばらくあたしを見ていたが、正座のまま、ずずっとあたしの方に近づいて声を落とした。

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