第28話 近づく吐息
休憩用に解放されている部屋で、アイリーンはソファに深く腰掛けた。
何をやっているのだろうと、自分で自分が嫌になる。
アルバートが誰と何をしていようと、自分が怒る資格などないことくらい、百も承知だ。
こうなることが怖くて、他国に逃げようとしていたのに。
自分の勝手で手を振り払ってしまったアルバートに、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
それに、あの女性にも。
「謝らなきゃ……」
「アイリーン?」
落ち込んでいたアイリーンが急に立ち上がったからだろう、アズラクが訝しげに声をかけてきた。
「私、謝らないと。アルバートにもだけど、特に、一緒にいた女性に」
「謝るって、なぜ?」
「だって、私が大きな声を出したせいで、アルバートが驚いて彼女を突き飛ばしてしまったのよ。それに、恋人でもない女が勝手に嫉妬して、
そう言うと、何が面白かったのか、アズラクが小さく喉を鳴らした。
「謝罪の必要はない。おまえは悪くないからな。あえて言うなら、あの場で一番悪かったのは俺だろう」
「?」
むしろ一番悪くないというか、関係ないのがアズラクのはずだが。
アイリーンはそう思っているので、彼の言葉になんと返せばいいのか逡巡した。
「ま、それは後でまとめて謝るとして。アイリーン、今日はおまえに頼みがあったんだ」
「頼み?」
「弱っているおまえにつけ込むようで悪いが、俺との結婚を早めてほしい」
「結婚を早める? でも私たち、まだ正式に婚約もしてないのに?」
「だとしても、おまえの心残りはこれで消えたろ?」
「それは……」
「いい加減、エリクは諦めろ」
刃に見えた。その、赤い瞳が。
そこに揺らぐ自分が映っていて、アイリーンはまぶたを伏せる。
――〝いい加減、エリクは諦めろ〟
それは、もう何度も、自分で自分に言い聞かせてきたことだった。
それでも諦めきれなくて。苦しんで。悩んで。泥沼から抜け出せずにいる。
いや、正しくは、アイリーンはアルバートを諦められずにいる。
だって。
「……リジーはね、本当のことを言うと、とっくにエリクを諦めていたのよ」
脈絡のないアイリーンの話に、しかしアズラクは黙って耳を傾けてくれた。
「リジーはね、自分が死ぬとき、エリクを諦めたの。もう二度と恋なんかしないって、リジーは、諦められたのよ」
けれど、アイリーンは。
今ここで生きている、アイリーン・ミラーという女は。
「でも私は、どうしても、アルバートを諦められないの。エリクじゃないわ。私が好きなのは、アルバートよ。確かに過去に引きずられた想いもあるわ。でもね、それだけじゃないの。アルバートはエリクより寂しがりやだし、しょっちゅう王女を訪ねてくるような困り者だけど、でも、でもね。エリクより人の痛みを知っていて、だから優しくて、今度こそ大切な人たちを失わないようにって、見張ってないと勝手に倒れてしまうくらい、頑張り屋なの」
だから、好きになった。愛してしまった。
死神を待ち望みながら、その死神を拒絶していた。
「ねぇ、どうしよう、アズラク」
ぽた、と一滴の雫が瞳から落ちる。
こんな馬鹿な自分を笑ってやりたいのに、うまく笑えなくて、頬が引きつった。
「気づきたくなかったのに、気づいちゃったのよ。エリクなら、逃げれば諦められると思ってたのに。アルバートはだめ。逃げても無駄だって、気づいちゃったの」
きっかけを与えたのは、オーガストの言葉だ。
とどめを刺したのは、さっきの光景だ。
「ならば、気づいたおまえは、どうするんだ?」
アズラクが、そっと頬に手を当てる。
とめどなく流れていく涙をすくうように、その手つきはとても優しかった。
「俺は別に、おまえがアルバートを想っていても構わない。もとよりエリクを想うリジーを娶るつもりだったんだ。言っただろう? おまえの心を奪うと。奪う自信があったから、そう言ったんだ。それは今も変わらない」
優しい手が、そのまま撫でていき、顎にかかる。くいっと上を向けさせられた。
力強く燃える瞳に、真っ直ぐと射抜かれる。
「なあ、知っていたか、リジー。いや、おまえは知る由もなかっただろう。ルークはな、リジーが好きだったよ。一心にエリクだけを追う、その瞳に、横顔に、密かに惹かれていたんだ」
初めて聞く想いに、アイリーンは瞠目した。
「ルークは最後まで
でも、と。
「おまえが、アイリーンが、アルバートを好きだと言ったから。
そうして、腰を引き寄せられて。
「だからこれは、ルークじゃない、今の俺がしたいと思ったことだ」
「え」
アズラクが顔を傾けながら近づいてくる。
視界は妖しい魅力をまとう彼でいっぱいだ。
それにピントが合わなくなったとき、彼と、吐息が重なった。
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