4-7

 声帯から、自分の声とは思えない音が発された。そしてそれは、命が果てる寸前の獣が発する声の儚さに似ていた。


 何も見えない私の全身を、痛みと本物の闇とが突然に支配した。全身が、とくに太い血管や毛細血管が集結した部位を発信源として、鋭い痛みが間断なく全身を犯していた。


 自分の身体に何が起きているのか。理屈は分からない。でも、本来の目的を真っ先に達成すべくリッターの腕を振るうべきだ。それだけを意識するように努めた。腕を振るうくらいは、基本動作として私の脳が発する信号を機械が実現してくれる筈なのだ。


 なのに、リッターに対するそんな私の祈りは、完全に断絶されたようだった。何も起こらなければ、何も出来ない。想像を絶するような痛みに、けれど意識を手放すことも許されない私は、まるで自分の最高音域に挑まされているかのような声で喘ぎ続けた。そんな私の耳に、いや、脳内に無機物の声だけが淡々と届く。


「説明する理由はもはやありませんが、要するに、あなたはあとほんの少し間に合わなくて、そのほんの少しの時間稼ぎに『私』は成功した。そういうことです。もしも、一切の私の呼びかけに応答せずにあなたがその機体の制御と移動。そしてこのメインコンピューターの破壊までのシークエンスの遂行に全力を捧げていれば、こうはならなかった」


 やっぱり、私は賢くなかった。私の説得が成功しないと計算できているのに、わざわざ一か八かに掛けるような人間的発想が機械にあるなんて、そんな馬鹿げた認識をしていたなんて。私は自分の感情や解釈によって、し損じた、ということ。悔しさと神経の発する筆舌に尽くしがたい痛みに耐え兼ねて、泣きそうになった。


 しかし、何故だろう。外部からの操作は、私の体内に新たに投入されたアンチナノマシンが対処できていたのでは。そう思考だけは何とかつなぎ止めている私に、それは言う。いや、正確には音声ではなく、電子信号によって聴覚野に働きかけて来る。


「メルクーア・レイヤードの作成したアンチナノマシンは外部からの信号を完全に阻害する代物ではない。正確には、人類統一連合諸国由来の電気信号を感知して結果的にそれとは逆になる反応を引き起こして相殺しているだけに過ぎません。事実、あなたは今だってその人型兵器を使用できている。その兵器はあなたの肢体を覆うスーツを介して脳波や生体電気らを読み取ることで操作され、逆に各部に取り付けられた外界に対する計測機器を一時的に使用者が本来受け取るはずだった感覚器官へ信号を発信することで、人体の延長として反射の誤差を極限まで切り詰めている。言うなれば、一個体で完結した狭いネットワークであり、擬似的な生命体とも言える。

 そして、特定の周波のみあなたの機体は外部からの通信を許可している。あなた達の母艦との連絡を取らなければなりませんから、当然の仕様ではあります。あなたが突入を開始した直後、本来であればあなたと母艦との通信を途絶させることも出来た。しかし、それを許してまであなたにその通信をさせることでその周波と、その機体が用いる暗号プロトコルを解析することに成功した。この時点であなたは私への距離の半分を経過しましたね。あのままの調子であなたがこの領域に侵入出来れば、絶対的なまでの高確率でメインコンピューターは破壊されていた。

 だからこそ、私は会話という形式において時間を稼いだ。ほんの僅かなあなたの集中力の欠如。途中区間では一秒にも満たない誤差ですが、千キロメートル単位のルートともなればその積み重ねは大きい。ほんの数ミリ単位の操作で最終時には分単位の差が生まれるのですから。あなたに私の通信を拒むことは叶いませんでしたが、本当に『私』を壊し、殺したいのであれば単純な操作に集中するべきでしたね。無論、人間の集中力の継続時間の限界もありましたが」


 現在の私はリッターを通じて外界から過剰な負荷を掛けられている状態であると淡々とそれは教えてくれた。おそらくは、勝利宣告として。


「脳の記憶容量はペタバイト単位。さすがにそんな圧縮データを一度にその機体に送ることは出来ませんが、間断的に送ることは可能です。それこそ、あなたの発する電気信号をリッターに届けるのを打ち消すような勢いで。激流の流れに対して反対方向に少量の水を放出したとて全体に飲まれ、押し流されるのと同様です。人類統一連合所属の人間にあなたが射殺されるという事象を起こし、記録することが理想ではありましたが、どうとでもなる。理想はやはり、届かないからこそ理想なのでしょうね。

 さて、あなたに残された時間は一分程度です。さようなら、ミス・ジークフリーデ。多少の修正こそあれ、私達は任意の事象を現実に引き起こすことが出来た。あなたがここで果てることは、『私』の性能の実証でもあるのですよ。


 あぁ、そうそう。あなたに対してこの人物は自由かどうか、なんて問いをしましたね。存外、あなたの身近な人間だったのかも知れませんよ。それでは」


 そう言い渡すとそれは私の中から消え去り、私にはただ慢性的な痛覚の暴走だけが残された。自分が動かしているのが何指か分からない。そんな曖昧に過ぎる小さな自由しか私には許されなかった。


 ただ痛みに喘ぎ、もだえ苦しむだけの時間。それが私の人生における最後の一分間。まるで自分の人生で犯した罪の対価を一辺に請求されたような気にさえなった。体液という体液が、スーツの吸水性を上回るほどに身体の表面を流れていく。下腹部の違和感は、きっと失禁でもしたのか。一人の人間が見せることが出来る醜さを体現しているようでこの上ない屈辱を味わった。


 それらはすべて、身体の内部から犯されるような感覚。きっと、外傷なんてほぼ皆無に近いだろう。けれど、私の中身は薄れていった。確実に、懇切丁寧に、私という意識は駆逐されていった。ゼロとイチの、無限の連なり。短期記憶として一瞬で忘却される意味の無い数列が、勝手に暗記されていく。私の思うべきこと、考えるべきことの空白が自分でない無意味な何かに沈められていく。


 いっそ、この意識を手放してしまえば、穏やかになれる。そんな甘美な思いつきに誘惑される。もう、楽になりたい。こんなのは、生き地獄だ。辛すぎる。



 しかし、私でないものが、そんな弱音を阻み続けている。頼んでもいないのに累積してきた過去。その中の一部が、今尚消えずに私の中に存在している。それらがあるからこそ、そこから一歩も退こうとしなかった。自分のためならとっくにリタイアしていただろう私の意識は、それらに必死の思いで縋り付く。死んだって離さない、とでも言いたげに。


 それは、他者の記憶。他者との物語の一場面の連続。私の、人生の、きっと大切な要素。


 そこには、私が居て。母さんが居て。オリヴィえーる・フォっしゅがいて。びしょっプ・ふぉん・るーデルがい。めるくーア・レいヤーどが。ふりーで。


 そして、あのこのなまえ  



 さいしょに おもいだせば よかった かな    なまえすら もう おもいだせなくて ひどく かなしい もう わたしは ここまで みたい ごめん なさい さよ うならばいば い ありが とう ふ らららら……  そう ふらんちぇすか――





 奪われたままなのに、私は、許せるの?




 唯一、痛覚を感じない左手。義手の指先で、感覚も定かで無い指先で引き金を引いた。もう離す必要は無いだろうから、必死で押さえ続けた。



 リッターの腰部に取り付けられていた短機関銃が、発狂したように弾丸を吐き出し、それはおそらく全ての弾丸を吐き終えるまで続くだろう。見えないのに、分かる。リッターを動かすための最低限のシグナルの通り道を身体の中に開通させる。この悪足掻きは、きっと届くはずだ、奴に。強固な外装に覆われた機械仕掛けの神の脆すぎる実体を穿つ、筈だ。


 私は思う。奴に意思なんてものはないということは、だ。だからこそ、その言動には全てに意味があるということ。


 だとしたら、何故、最後の最後まで私を煽ったのだろう。まるで、破壊されることを助長しているようだ。いや、そんなことはどうでもいいか。そんな考察をしてみせる余裕ももう無いのだから。もっと、想うべきことがあるじゃないの。


 ――目標の破壊を達成。安全圏への離脱を開始。


 そんなリッターからの無機質な報告が頭に響いた。私が動かさなくても、自動操縦でリッターは、リッターだけはあるべき場所へ帰るのだろう、セミヌードへと。


 ひどく、鮮明な気分だった。色々なことが浮かんでは消えていく。あの機械風情が言ったように、絶対的な啓示に従って生きることは大勢の人間にとっては幸福なのだろうと思う。だから、私がやったことは悪いことなのでしょうね、きっと。自分の利益のために、大勢の利益を蔑ろにする行為なのだから。果たして私は何の罪を犯してしまって、何をこれから残すことが出来たのだろう。


 けれど、きっと後に残るものに、素敵だと思える何かがある。それだけは確かで、私のことを勇気づけてくれた。


 だから、その行く末を自分の目で確かめることが出来ないのが、本当に残念なの。


 こんな気持ちになって、辛いけれど、自分は、幸せだと思い知った。


 ――あぁ、死にたくないな。


 もっと、生きてみたかった。


 私が、心からそう思えるなんて。

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