3-12

何の前触れもなく、それは突然に私達の中に降りてきた。夢を見ているかのようで、でも、現実に相違なかった。


 震えていた。ただ、自分の身を犯すほどの歓喜にあえぐように、この身体は震えている。自分の振動なのか、それとも、胸の中で息を潜めるようにしていたフランチェスカが発したものなのかは分からない。いや、分かった。両方だ。私達二人が、まるで共鳴するかのように震えているのだ。今まで漠然としていた物事が解きほぐされて、霧が晴れてそこにあるはずの原風景が明らかになったような。そういう、身体という物理的な異変に反比例するかのような、透徹した感触が私の中身を満たしてくる。


 つい先ほどの私達のような、類い稀なる幸運に恵まれたひとびとのみが享受できる多幸感。はるか過去に提唱されたらしい自己実現理論なんかが挙げた欲求段階を、全て登り切ること。現在を生きる大多数の人間は過去の人類に明らかにその階段を簡単に上りきれるようにお膳立てされているのに、皆が満たされることはないというちぐはぐさ。その困難さ。それは、どうしてなのか。


 私はその答えを思いつく必要も無ければ、考える権限も与えられなかった。考えが浮かぶ、というよりは外部から自分を上書きするかのように新たな情報がニューロンを通じて侵入してくるような強引さ。これが、人ならざる上位者のお告げ。啓示、とでも言うべきものなのかと理解した。


 すべてが、私の中で自明になった。歯車が噛み合った、とかいう表現とは違う。自分が、その歯車として大きな舞台を動かす仕掛けとしての機能を与えられたパーツなのだと自覚した。不思議と、鮮明な気分。幸福感で自分という存在を完全に埋め尽くすのとも、異なる。今の私は、どうだろう。ただ、単純作業を何の感慨もなくこなすような、そういう機械化された認識だけがある。


 これが、今の私のような状態が、人間社会の理想とする姿なのだという確信があった。いや、確信なんて生やさしいものじゃない。そう、真理だ。この世界に形は持たなくても横たわって我々を支配する、絶対的であり神聖な回答が、思考が、望まなくても私にもたらされているのだ。


「フリーデ、様。こ、れ、は」


 私に上乗りになっていたフランチェスカが消え入るような声を出した。彼女は喘ぐような息をし、焦点もまた高熱にほだされたように朧気だった。人生でこれ以上にないと言うほどの全能感と納得を受け入れた私とは対照的に、彼女はまだ懸命に何かに対して抗っているようだった。その姿に私は、いじらしさより哀れみのような感想を抱いた。


 一々声に出すのなんて面倒だな、と思いながら、消え入りそうなくらいに薄まった私という我が、私なりの優しさを見せることにした。蒼くなりつつあるフランチェスカの頬に触れる。


「怖くなんてない。私達は、あるべき姿に戻り、与えられた役割をただ果たせば良い。それが分かるのよ。もう二度と、雑多な思考によって作り出された坩堝に捕らわれたり、思う煩うこともない。有史以来訪れなかった人として最上の幸福を、味わえる」

「何を言っている、の、ですか」


 彼女の苦痛に歪み、困惑した表情を目にして、やはり帝国の人間には効き目が薄くなったのだな、と分かった。ジークフリーデ・フォン・フォーアライターの名残が、わざわざ何も知らない彼女に教えてあげることにした。あるいは、こちら側への勧誘のために。


「帝国の成り立ちは、不自然なまでに隠匿されてきた。いや、ひとびとに忘れられるように誘導されてきたと言うべき。それは何故か。何があったのか。それが今の私達にはわかる。私達は連合諸国という母集団のアンチテーゼとして生まれた。そう作られ、隔離されたのよ」

「だから、何の話を。それに、貴女は、誰」


 おかしな問いをする彼女。それを無視して、湧き出るような情報をそのまま口から排出する。


「巨大に膨れ上がった社会構造をより発展させるためには、競争するためのお膳立てが必要だったの。人間全てを一つのコミュニティに纏めて団結するように奨励することは一見理に適っているようだけれど、ぬるま湯は何も生まない。現に長く続きすぎた政治体制のために人類統一連合政府は半ば腐敗してしまったようだし。


 しかし、内なる敵を抱え込み続けることもまた純粋な経済成長の妨げとなる。なら、自分達とは異なるコミュニティが外部に存在することが望ましい。そう、外敵がいれば良い。ただ、生憎と随分と長い時間をひとびとは手を取り合うという建前上の理想論を捨て切れていないものだったから、そんな都合の良い仮想敵は存在しなかった。


 だから、数世紀前のひとびとのいくらかは、まだ見ぬフロンティアの開拓を兼ねて各地に散らばった。その一つの成功例こそ、私達の栄えある帝国というわけ。母集団である人類統一連合諸国に対するかのような専制君主体制は、しかし長い年月の間に何れ瓦解する定めにある。何故なら、血統なんていう時代遅れで何の保証もない継承では、必ずしも次世代の指導者が前代のそれを上回るとは限らないから。歴史上のあらゆる独裁国家が、代の境目においてその力を強めることもあれば弱めることがまた事実として存在した。


 その点、フォーアライターという一族に属したであろう過去の誰かさん達は少し小賢しいことを考えたみたい。その根本こそ血縁主義という、長い目で見ればその体制に癌を引き起こす可能性がある性格を、完全に消し去ることは出来なかったけれど、継承者をその能力なり人間性を臣民に発信し、彼らに選ばせるという民主主義的な矛盾した制度を取り入れて見せた。これは、この構造を作り出した者が、何れはフォーアライターによる一族支配の体制は将来の帝国を弱体化させること。そして、その発想の根本に自分達を見捨てた故郷、民主主義を掲げた人類統一連合諸国の影が潜んでいることに気付いていて、そのカウンターとして実現したのだと解析できる。


 そうして現代まで手綱を引き続けている一族、フォーアライター。そう、過去にこの血統に刻印された役割を果たすべく、その支配下にある人々を本来の目的に。例えそれが、自分達という少数派にとっての痛みになろうと、大多数の人間が属するコミュニティにとっての利益へと帰化するまでの先導者。フォーアライター一族だけに限った話ではない。帝国人は皆、その血筋に現代における仮想デバイスの元祖が。自然界のウィルスをベースにしたナノマシンが投与されていた。


 けれど、生物的な性質を禄に精査もせずに投入するのは悪手だったわね。本来、帝国人達の思想を統合、制御するため、人体各所の受容器を突破することで作用する筈の古いナノマシンは、世代を経る毎に帝国人の中に繁殖するどころか淘汰されてしまった。どこかの段階でそれを異物として駆除する機能の方が帝国人達の身体の中で上回ってしまったのでしょう。だから、一部のナノマシンが人体の神経ニューロン等に擬態するなどして何とか生存しようとする過程で、指示を受信できない貴女のような人間も出てくる」


 そこまで言ったところで、私は自分のガータベルトから左手で銃を引き抜き、禄に予備の弾丸が入っていないことに落胆して床に落とした。先の戦闘時にルーデルに弾丸を補充として手渡していたのを失念していた。


 そういえば、自分に覆い被さったまま動けないこの少女。侍女役の人間は護衛用の銃を携帯していた筈だ。そう思って、絡めていた指を振りほどき、右腕をその背中に回して力強く抱きしめる。


 そうして彼女が逃げないようにした後、空いた左手で胸元から下へ下へと自分よりも華奢なその身体をなぞっていく。熱っぽい声を出しながらもがく彼女を押さえつけながら、その作業を進めると、彼女の右足の太股あたりに目当ての物があった。


「何だ。私と同じ場所に隠していたの。言ってくれれば良いのに、水くさいな」


 私の手がそれを引き抜こうとするのを、彼女は上から自分の手で押させ付ける形で防ぐ。存外、私も彼女も肉体は貧弱な方じゃないらしく、純粋な力は拮抗していたし、下敷きになっている私の方が行動に制限が多かった。いっそのこと銃を奪うのは諦めて、右腕を使って彼女の首でも絞めた方が早いかも。そう思って右腕を動かしたけれど、彼女はそれも振り払う。それどころか、私の右の手首を上から全体重を掛けて押さえつけた。私は他人事のように、彼女に言ってやった。


「強引なのね。ひどいじゃない。傷跡が残っちゃうかも知れないわ」

「黙って下さい。いや、黙って。ここで、大人しくして、頂きます」

「それで?時間でも稼いで、誰かの手助けでも請うてみるのかしら。そんな余裕が他人にあるとは、思えないけれど」


 私の言葉の意図にようやく彼女も気付いたらしい。防音が施された室内に外部の様子なんて届くことはないから、手を離せない彼女の代わりに、ソファでもつれ合ったままの姿勢で、私は手を伸ばすこともなく室内の映像機器を遠隔操作する。テーブル上の微粒子を乱反射させ、艦内の複数のカメラが捉えているリアルタイムの映像を流した。


「これは」

「貴女はあの場に居なかったから、初見になるわね。まぁ、彼らのそれと私達のそれでは微妙にそのメカニズムは違うのだけれど。うん。この惑星上の帝国人の七十四パーセント。それが、今の私のように本来の帝国人としての使命に目覚めた、というわけ」


 天板から一メートルくらいの高さに、無数の映像が浮かんでいたけれど、その殆どに同じ制服を着た、同じ人種のひとびとが争っている様子が投影されていた。片や無感情に相手を殺そうとするのに対して、もう片方は私に馬乗りになっている彼女のように、突然の隣人達の変化に翻弄されている。


 それらの幾つかで、同僚を押さえつけようとした人間の頭や胸から赤いものが飛び散ったのを境に、彼女はそれらから目を背けた。私の方を見て、まったく迫力は無いけれど睨み付けてきた。


「何を、したのです」

「は?」

「フリーデ様達に、何を。誰が、どうやって。答えて下さい。今、すぐに」


 私は私なのだけれど。そういう答えはお望みでないようなので、別に話しても問題ないか、と暇つぶし程度に私は教えてやる。


「言ったでしょう。あるべき姿に戻ったの、皆が」

「巫山戯ないで」

「具体的に説明しろ、と。注文が多いわね。じゃあ、懇切丁寧に教えてあげるから、納得したなら貴女も受け入れてね。最低限の素養はあるようだし」

「構いませんよ。納得できるのなら、ですが」


 彼女の即答に思わず吹き出しそうになった。まったく、この子の傾倒ぶりもここまで来ると美徳だな。人間という生き物は、ここまで愚かになれるのか。


「現在の人類統一連合諸国がそうであるように、長らく擬似的な恒久和平に使っていた国家は伸び悩む。特に軍事方面なんか顕著ね。戦争は発明の母、とは一概には言わない。


 人類の歴史上、勝利さえすれば戦争は儲かる、なんていう単純な時代もあったようだけれど、今はそんなにことは単純ではない。けれどね、ある程度の、自分達が完全に滅亡され尽くすほどではない脅威に設えてあげれば、それを乗り越えるためにあらゆる分野に費用が投じられ、平時であれば一蹴されるような理論や研究でも実用化にこぎ着けられる例は少なくはない。


 そう、その規模と被害の天秤さえ懇切丁寧にお膳立すれば、そういう非常時に急進的に成長させた技術を、その後の世代の肥やしとして上手く活用できる。永遠の平和の中での成長を上回るほどの人類社会への利益が上げられるの。資源惑星を食い潰すやり口があたり前になった私、いや、貴女達にはその感覚を正確に把握することは困難かも知れないけれど、地球という一惑星に人類がしがみついていた頃には、その有限の資源を次の世代へと残すこと。つまりは、持続可能な社会ってやつがひどくもてはやされたし、自分達のことだけではなくて、将来の人間のことまで憂うことが美徳とされた時代があったの。資源面においてはわざわざそんなけち臭いことをする必要がなくなったから、そんな感覚は現代までに絶滅したようだけどね。

 けれど、この将来の人間、より言葉を限定するなら、自分が属するコミュニティの将来のために、多少の犠牲を自分自身に課すことは尊い、という感覚は生き残った。少なくとも、国家を経営する側には、そうやって国民達が国の将来の得になることを進んでやってくれるなんて願ったり叶ったりだし喧伝もする。ここまでは、よろしい?」


 私を抑える力を緩めようとしない彼女からの返事はなかったけれど、私は続ける。


「私達帝国人がするべきことは、まさしくそれ。人類統一連合諸国に警鐘を鳴らし、その眼前に立ち塞がること」

「そして、何れは彼らに花を持たせて破れる。自らを犠牲にしても、他者の利益のため」

「中々賢い子ね。まだシステムに接続していないのに合格最低点くらいは自力で取れるのだから」

 私の形だけの称賛を気にもとめず、彼女は聞いてもいない考えを口にする。

「どういう手品かは知りません。けれど、ここで二大国間にもう一波乱を人為的に引き起こす気ですね。それくらいのことは、私のような無学な人間にも容易に読み取れる。現段階で帝国も、そして人類統一連合諸国も辛うじて致命傷を負わずに済んでいます。けれど、貴女の、いえ、お前の口ぶりから察するに、その戦争状態が生み出す利益という物を国家はまだ十分に回収できていない。既に手に入ったものや失ったものの大きさより、計算上まだ手に入れられるはずの架空の利益をまだ欲している。強欲にも程があります。一体、どれほどの方が、そんな世迷い言のために今まで犠牲になったと」

「人数が問題だと。そうね、私達はその全貌を把握できていないから断言は出来ないけれど、二つの国家間での戦闘行為における死者は、帝国人は主に軍人を中心に四万七千九百三十二だそうよ。あとは、そうね。帝国軍が人類統一連合領の施設に与えた被害が軍人民間人問わず間接的に殺した人数だと……二百八十四人。物質的な被害額もそれぞれ計算してみようかしら?」


 私がそう提案すると彼女は断った。私は嘆息するような風に言う。


「全面戦争に入ったとして、最も収支が正になるのは四年と三ヶ月。それより長くなるのは論外。これだけの期間があれば造船技術と無人機の制御技術の向上が十分達成できる。そうすれば、平時なら一世紀は掛かる外宇宙航空船の実用化へのスパンを半分近く減らせる。人類はより広域を散策することで新たな資源採掘地を観測できるようになるわね。もしかしたら、第二第三の帝国のような生き残りと接触することも期待できる。分かるでしょう。これはほんの一例に過ぎない。でも、帝国に少しばかり我慢してもらえば、一体どれだけの数の人間が、人類全体の大部分が得をするか。詳細な筋を挙げなくても、想像くらいは出来るでしょう」

「そのために帝国を、少数派の人々を切り捨てる。やはり、その思想は破綻している。まるでそれは良いことだと子供に言い聞かせるようではありますが、子供だましにもならない。自身の益のために他者を犠牲にする行為の、どこに正義があるのです」

「正義なんていう立場によってコロコロ変わるものに頼るなんて感心しない。それに、何が悪い。人間皆が、生きとし生ける全ての生命が幸福になることは出来ない。なら最小の犠牲をはじき出した上で大勢の幸福を追求するべきだとは思わないの。まさか、自分達が切り捨てられる側だからそんなのは嫌、なんて勝手なことを言わないでしょうね。大なり小なり、現代に生きる人間は、いえ、ヒトは社会構造の保護がなければ大部分は生存すら出来ない。自然界に文明も与えられずに一人放り出されたら個々人が一世紀以上もの期間をのうのうと生きていけるわけじゃないでしょう。どの道、最低限の社会的レールが無ければ無名の獣として死んでいくしかない存在。なら、せめてヒトではなく人なのだと自分を思い込ませてくれる仕掛けのリソースとして、その維持や発展のために喜んで犠牲になるくらいの気前の良さはあっても良いじゃないの」


 私としてはそれ以上話すことなどなかった。ただ、ジークフリーデ・フォン・フォーアライターという個人が好いていたらしいこの女性の説得に失敗したのだから、この手で処分するのを避けることは出来そうにないな。どうしよう。そればっかりが浮かんだ。


 そんなことにも気付かないのか、私を押さえつける侍女は、終わった議論を否定するのに躍起になっていた。


「人間は、群れを生かすために進んで自らを犠牲に出来るほどの利口な動物ではありません。昆虫に見られるような利己的遺伝子論をひとびとに勝手に押しつけないで下さい。広い視野で見れば、人間が人類という種を生かし続けることを真っ先に考えれば倫理観なんて言う曖昧さより、ただ貴女が語るような現実的な結果や数字だけを参照する考えは理に適っているし正しいのでしょう。しかし、それでも私は帝国のひとびとを犠牲にして大勢の、人類統一連合諸国という多数派らしい集団の将来を飾り立てることを正しいとは思えない。理屈ではありません。そういう感情が、人間にはある」


「それは、自分の脳に存在する認知的不協和を解消するために思考を停止しているだけ。あるいは、もっともらしい解釈によって自分の心理を揺さぶる状況を、それらしい原因に帰属して自分を慰めているだけに過ぎない。人類社会はね、個人に多彩な感情だの価値観なんてものを持つよりも、集団を成長させる利益を提供するリソースになることを望んでいるの。その恩恵を受けてしか生きられない脆弱な生命体に、自由意思なんて認めてやるほどの義理も価値もない」


 一切声の調子を変えることなく、私は右腕の拘束を緩めると同時に、彼女の腹部に膝を滑り込ませて一気に持ち上げた。その小柄な身体から呼気が強制的に発され、今まで密着していた私達の身体に僅かな空間が生まれる。すぐ様、緊張した彼女の身体が、私に行動させまいと再び覆い被り、その隙間は埋め尽くされるのだけれど、おしい。


 彼女の太股から抜き去った金属製の銃の切っ先は、既に彼女の胸にめり込まんばかりに押し当てられていた。無論、その銃がその効力を発揮するかどうかの権限がそれを握る私に一任されている。私は、最後にジークフリーデ・フォン・フォーアライターの意志とやらを尊重して、言ってやる。


「貴女もこちらに来ない?二国間に亀裂を生じさせるために、ジークフリーデ・フォン・フォーアライターは適当な人類統一連合諸国所属の人間に殺される必要がある。それか、手間は掛かるけれど、自害なりしてその犯人を適当に創作してもいい。どちらにしろ、私はここで死ぬ。けれど、貴女の生存の有無は大局には何ら寄与しない。だから、これまで自由意志なんぞに漬かりきっていたかつてのジークフリーデ・フォン・フォーアライターへのせめてもの慰めとして、貴女を見逃してあげてもいい。私達と同じ舞台に上がりなさい。そうすれば、そうね。帝国本国までは指示は物理的には届かないけれど、そこへ貴女が生還できた際に何をするべきか。それくらいのオーダーは事前に命じられるでしょう。それを果たせばいい。そうすれば、使い古された台詞だけれど、命だけは助かる、というやつ」


 断ります。


 彼女がそう言おうとする予兆。それを認めた私は、一音すら発声させることも許さず引き金を引いた。


 びくん、と動いた後にフランチェスカという人間の身体はただの有機物に成り果てた。重くて、邪魔。それを押しどけてソファから床に落とすと、見栄えなんて気にする必要は無いその炭水化物の塊は手足を不格好に広げた。まるで解剖されるのを待ち受けるハツカネズミのようだ、と私は思った。


 いや、そんなことはどうでもいい。一先ずこの部屋からは出よう。私達は同じネットワークに繋がれた帝国人の知覚した情報を利用して、個人が把握できない広大な範囲での出来事をまるで自分のことのように認識できた。いや、もはや私達に個人なんていう概念は過去のものか。こうして私自身にも余分な思考が残されているのが非効率的で忌々しい。


 だから、部屋の出入りを唯一許す、一部の人間しかその開閉を行えない扉を、強引に解錠した人間の存在。それに、ジークフリーデ・フォン・フォーアライターという一端末が察知できなかったのは、その侵入者が無数の帝国人という生きた監視装置らの目を、悉く欺くという神がかりな偉業を見事に達成してみせたからだった。


 開閉する扉越しにその人物を誰か把握できないということは、少なくとも私達のように人類種を救う使命を自覚した申し子ではないと言うこと。迷わず、開閉途中の隙間に一発を発砲。しかし、何の反応もなく、どうも左右の何れかに相手が身を隠しているのだと察した。残弾は、四発か。


「内部の許可も無く侵入できると言うことは、消去法によりメルクーア・レイヤードに他ならない。まったく、顔見知りに気安くマスターキー権限を渡すなんて、かつての私の愚劣さに泣きたくなる」

「泣きたくなる、ですって。おかしいわねぇ、それ」と想像通りの、けれど、常時のそれより生の感情をむき出しにした声が響く。「私の知るジークフリーデ・フォン・フォーアライターなら、今頃感情をむき出しに泣いている。自分自身の手で、愛しい人間を殺すなんてことを無感情に実行できる友人を、私は知らない。あぁ、本当に。やってくれたわ、くそったれが」


 顔の最低限の面積を開閉しきった扉から顔を僅かに覗かせ、メルクーア・レイヤードは万事を理解しきったようだった。迸るような殺意を纏うその眼球あたりに私が発砲すると、ちょうど彼女も首を引っ込めて辛くも回避した。残りは三発。その内に仕留めなければ。私は、私達は、彼女への揺さぶりも兼ねて問う。


「貴女は、確か端末も無しにフローディンディスプレイを使用していたわね。それが可能ということは、人類統一連合由来のナノマシンがその血流を流れている。なのに、何故一段階目の指示に。フレンチ・アップルガース准将だかの言葉を借りるなら啓示だったかしら。それに従わなかったの。どう、無効化した」


 返答は一切無い。刹那、返事の代わりだ、と言わんばかりに無言で室内に何かが放り込まれた。擲弾か。何を考えているか知らないが、ジークフリーデ・フォン・フォーアライターの死を回避する必要は無い。だから、こちらは特に回避も防御もしない。


 しかし、それは見た目に反し、一切暴力的な効力を発揮しなかった。頬を叩かれたような破裂音。それによって室内にまき散らされるのは、鋭い破片や火薬による衝撃などでない。無数の、煌めくような塵。どこか現実離れした風景に魅了されたように、それまで滞りなく私に殺到していた情報の氾濫が打ち切られた。だから、気付く。この室内を満たす、そのきらきらと輝くそれらは、電波欺瞞紙が決して広くない空間に拡散されたものなのだと。メルクーア・レイヤードが投げ込んだのは、チャフグレネードとでも言うべき何かだったのだ。


 チャフグレネードの作動を合図に、彼女はその姿をさらした。目立った武器の類いもその手にはなく、一息にこちらへ駆けてくる。私が啓示を断ち切られ、その原因を察するのにコンマ数秒もかからなかったが、既に飛びかかりすれば届かんばかりの距離へと躍り出ていた。彼女の一連の行動は、確かに迅速だった。だが、それでもやはり無謀に過ぎない。 


 今の私には、火器の使用を含めた手続き的記憶をネットワークから呼び出すことは出来なかった。彼女は、素人でも一人前の兵士のように行動できるようにする、憑依経験とでも言うべきそれを私が使用するのだと承知していたらしく、阻害するためにチャフをばらまいたらしい。


 しかし、ジークフリーデ・フォン・フォーアライターは、本人が思っていたよりも大抵のことはそつなくこなせる人間のようだ。人に銃口を向けることを躊躇わなければ、あの銃撃戦に参加しようと思えば出来るくらいには。文字通り、理想的な動作で発砲してみせる。


 誤ることなくメルクーア・レイヤードの脳頭蓋を貫通する筈の銃弾は、けれど目的地へと達しなかった。確認も兼ね、続けて一発を撃ち込む。しかし、やはり彼女の僅か手前でひらひらと彼女が纏うコート、あるいはスカートの布がその見た目とは裏腹に、他愛もなく必殺の加速度を得た弾丸の起動を阻むように立ち塞がり弾いていった。それら一瞬の出来事が、私には時間の流れが停滞したかのように知覚できた。複合素材を、何らかの形で制御しているのか。それ以上思考している余裕はなかった。 


 メルクーア・レイヤードが遂にこちらの懐に入り込んだ。苦し紛れに半ば殴りつけるように腕を振るうが、他人を殴るような経験はこの肉体にはなかったらしく、こちらは素人のそれまるだしだった。それこそ、相手はネコ科の動物のような敏捷さであっさり躱すと、こちらの背後まですれ違うように移動。背後から左腕を私の首に回して拘束してきた。しかし、絞首するつもりではないようだった。


 今まで武器などないと思い込んでいた右手。そこに隠し持っていた注射器状の筒を、メルクーア・レイヤードは私の首元に叩き付けた。その衝突の慣性によって筒の内部では何らかの化学反応でガスか何かが発生したらしい。彼女が押さずともそのピストンが稼働し、私の内部に何かが一瞬の内に注ぎ込まれる。


 途端に、全身を硬直させるような衝撃を受けた。手から銃が滑り落ちていく。操り人形の糸が外れてしまったかのように、ジークフリーデ・フォン・フォーアライターはその場に崩れ落ちた。

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