進展はあったけど
成実と合流してから一日。補給艦「ましゅう」の姿を甲板上から横目で見ながら、捕虜にされていたロシア海軍のパイロット、レオニード・ホージン大尉は一つ息をついた。
「ホージン大尉、パパのお友達だし、敵意が無いのは分かってる。パイロットとして発艦させる時があるかもしれないから、その時まで自由にしていていいわよ。乗組員の人たちも最初は警戒すると思うけれど、そのうち話しかけに来てくれると思うから大丈夫。あの子たちは英語話せる人多いし、とても人懐っこいから」
数日前、そう茉蒜に言われ、レオニードは何週間かぶりに艦から顔を出したのだ。それが丁度補給をしているタイミングだったのは、ただの偶然である。
吹き付ける風に身震いをさせながら、レオニードは口角を少し上げる。
「……日本の船は、どうも綺麗だな」
しゃがんで甲板に触れる。ヘリ空母の甲板は縦塗装だが、いずも型の甲板は雨で濡れてもタイヤがスリップしないように、一部が横塗装になっている。
この艦艇はもう「護衛艦」ではありません。「護衛艦」を
何故だ? 俺は今まで、ロシアで幾つもの軍艦に乗ってきただろう。日本のような「護衛艦」とは違う、この「かが」とも違う、本物の「空母」に。
───それなのに、この胸に残るあの少年の言葉は、一体なんなんだ?
「ホージン大尉、ここにいたのね?」
不意に呼ばれ、声のした方向を振り向く。暖かそうなコートに身を包んだ茉蒜が、自身の体格よりも遥かに大きいサイズの上着を抱えて歩いてきていたのだ。
「黛大佐……」
「茉蒜でいいわよ。パパと混じってあやふやになるでしょ? はいこれ」
差し出された上着をしばし見つめ、受け取って腕を通す。モコモコした裏生地が、レオニードの体内をあっという間に暖め、先程までかじかんでいた手先が動くようになった。
「ありがとうございます。しかしこれはどなたのですか? サイズからして、あなたのではないでしょう」
「暖かいでしょ? それ。亮がね、もう秋頃だし洋上は冷えるから、ホージン大尉に渡してって言ってきてね。あの子ったら目も合わせやしないんだから」
「それはきっと、恥じらいがあったのですよ」
「恥じらい?」
茉蒜はレオニードを見る。レオニードは甲板に座り込み、
「友達に何かを渡したり、気を遣うのが自分らしくないと、そう思っているのかも知れません。彼はそういう人です」
「まぁ確かに。私の報告書に「身体に気をつけて」って付箋貼るくらいだもの、余程自分のこと遠回しにしてるのね」
レオニードの隣に座り、足を伸ばす。
茉蒜とレオニードの目に、何事もない蒼穹が映る。でもそれはきっと、日本の状況を何も知らないこの目で見ているからであって、今陸にいる者達にとっては最悪の景色なのかもしれない。そう思うと、茉蒜は怖くて仕方がなかった。
「ねぇ、ホージン大尉。あなた、奥さんいるでしょ? あなたは出かける前、奥さんになんて言われて家を出るの?」
「?」
レオニードは首を傾げる。茉蒜は伸ばした足に目をやり、また話を続ける。
「私、分からないの。亮を発艦させる時、なんて言ったらいいのかが。だって私は司令艦長、それ以上でもそれ以下でもない、この艦内の
珍しいと、そう思った。相談など、父親の成実でさえ、レオニードにはしなかったのだから。蛇の子は蛇と、昔からそういうことわざがあると成実から聞いていたが、今それは違うと断言出来る。血縁関係は親子であっても、心は親子ではない。この人にはこの人なりの考えや悩みがある。話し方はそっくりでも、考えは全く違うのだとレオニードは実感した。
「……い」
「?」
「「いってらっしゃい」と、そう言われています」
「いって……らっしゃい? それ、ママも言ってた。私もたまに言うけど、どういう意味なのかは考えたことは無いわ。私には分からない。それは、「お気をつけて」と同じ意味?」
「少し違いますね」
んー、と考え、レオニードは続ける。
「お気をつけて、は、この先何があるか分からないから、用心してという意味です。いってらっしゃいは、誰かを見送る時に言う言葉です。意味は、「生きて帰ってきて」だと、俺は思います」
「生きて……帰ってきて?」
首を傾げた茉蒜に、レオニードは寂しそうに言う。
「だって、本当に戦場に行ったら、生きて帰って来れるか分からないでしょう?」
心臓が跳ね上がる思いをした。「いつ死ぬか分からない」と、茉蒜は意味を自分で言っていたのだから。それをただ見送る日々を続けていたのだから。
亮は怖いのだろうか。望んでパイロットになった彼に、死ぬこと以外の望みはあるのだろうか。ただ分からず、いつもすれ違う日々に、茉蒜は嫌気がさしていた。
心がモヤモヤするからだ。何の夢もないような、彼のあの目を見る度に思うのだ。「この人は、死ぬために生きているのだろうか」と。
考える度に亮の目が見れなくなる。そのうち俯いて話すようになり、茉蒜は何を言っていいのか分からず、結局追い出してしまう。その嫌気を誰かに打ち明けたくて、心当たりのある事をレオニードに話したのだ。そうしたらこの返答だ。今自分は意味を言っていたじゃないかと、何度も自分に言うのだ。
───あの子は、
「あの子は……亮は、生き甲斐を望んでいるの?」
その問いに、レオニードは空を見つめ、目を細める。
「男の子は、生き甲斐が無いと生きていけませんよ」
ひこうき雲が突き抜ける空は、茉蒜が見てもやはり何事も無いように見えた。
『黛艦長、食堂まで』
何処からか聞こえてくるスピーカーの音に、茉蒜は立ち上がる。
「呼ばれちゃった。ありがとね、ちょっと分かった気がする」
「いえ、俺は何も」
「私にとっては感謝するほど、あなたは何かをしたのよ。まぁゆっくりしていて頂戴」
レオニードは走り去る茉蒜にヒラヒラと右手を振り、
「……いってらっしゃい」
そう口にして、また補給をしている光景を目に入れた。
***
「テレビが流れ出した?」
食堂内、テレビを見ながら茉蒜は驚いたように呟く。
呼び出したのは、機関員の朧舞子曹長だった。こくりと頷き、慌てた様子で舞子はテレビのリモコンを持って電源を入れた。
映し出されたのはニュースの画面。一人のニュースキャスターが、手に持つ紙を見ながら話をしている。
『今日深夜頃、日本海沖を中心にアメリカ海軍の軍艦が多数目撃されました。海上自衛隊は領海侵犯として威嚇するも、未だ日本の領海内に留まっているとのことです。これに対し防衛大臣は「日米安全保障条約、日米行政協定が無くなった今、この日本では軍事力を強化している。時期に空母化される艦艇も増えるだろう。こちらは戦争をする気はないが、あちらがその気なら対等に撃ち合うべきだ」と話しています』
ましゅうが出港する様子が映し出された映像を見つめ、茉蒜は信じられないとでも言うかのような顔をした。
「……空母ってのはもしかして、この「かが」って言いたいの?」
日米安全保障条約と、日米行政協定。それらが破棄されたということは、日本にいるアメリカ軍は行き場を失い、アメリカに軍経費を分担せず、基地を追い出される。だから、逆に軍事力を利用して、日本を潰そうとしている。
「でも待ってよ艦長、それじゃあMSA協定はどうなるの?」
いつの間にかいた姶良が声をあげる。
「MSA協定……マニュアルセキュリティアクト、日米相互援助協定の事?」
「それ。もしそれが無くなったら、日本は完全に軍事的援助が無くなっちゃう。そうしたら、自衛隊は自衛力を無くして、本物の軍人になっちゃうよ!」
「軍人……ここまで来たなら、きっと破棄されているはず」
我々自衛隊は、防衛大臣の下で動いている。防衛大臣が戦争を企てるようなら、自衛隊はそれに従わなければならないのだ。だってそれが自衛隊、それが「軍の片割れ」なのだから。
「私達は、アメリカに利用されている? そうなったら、また第二次世界大戦のように、世界を巻き込む戦争にまで発展してしまう……?」
茉蒜はしかと見ていた。先程の映像の端にほんの少しだけ映る、アメリカ空母「オリスカニー」の姿を。
「……領空、領海共に制権を取られているってことね」
茉蒜は立ち上がり、「艦橋に戻る。もうすぐ補給が終わると思うから、終わったら持ち場に戻ってね」と言い残し、走って食堂を出た。
姶良は椅子に座り込み、ため息をつく。
「どうしたのよ、らしくないわね山下三曹?」
「ん、いいや。おばあちゃんが作っていた船が、戦争で沈むために使われたって考えたら……なんだか、怖くて。この艦艇も、いつかは本当の戦争に出て沈んじゃうんじゃないかって思ったらさ、私の操舵で死なせたくないって思うようになったんだよ」
腕を机に置き、顔を埋める。
「私達よりも重要な事を抱え込んで、私達隊員のために一番悩んでいるのは、艦長なのに。こんな悩みで悩んでいる暇なんてないほど、艦長は考えに考えているはずなのに。どうしてあの人は、あんなに冷静でいられるのかな……」
「顔に出ないだけよ。あの人は愛海とそっくりだもの、きっと今頃、制空権、制海権を取り返す方法を頭で練っているはずよ」
「汐奏二佐もそういう人なんだ……」
「私達は考えるよりも、艦長の判断に従うしかないの。たとえそれが、命を絶つ事であっても、そうでなくても、私達は司令艦長が絶対なのだから。でも……」
「?」
舞子は茉蒜が出ていった食堂の入り口を見つめながら、小さく呟く。
「どうしてアメリカは、日本と敵対してるのかしら? よくよく考えればおかしい事じゃないの」
「なんで?」
「あの戦闘機、どこの国のやつか考えてみなさいよ」
テレビのチャンネルを変えても、同じニュースが流れるばかり。時が刻まれる時計は、無機質な音しか奏でない。
一体この先どうなるのか。それは他の乗組員達には想像がつかなかった。
「……あれ? あの戦闘機って……破棄された後に導入されたんじゃ」
気がついた姶良は首を傾げる。
だが一つだけ言えることは、
「小さな戦争は、もう始まっている」
ただ、それだけのことだ。
***
コンコン、と艦長室の扉が鳴る。茉蒜が振り向いて扉のキーロックを外すと、典子が困った顔をして立っていた。
「典子じゃん。どしたの」
「艦橋に戻るって言っといて戻らなかったのはどこの誰かしら?」
「誰からそんなことを……って姶良ちゃんか舞子ちゃんくらいしかいないか」
書類を整理する茉蒜を見て、典子は書類の方に目をやる。
「日米行政協定、日米安全保障条約、それにMSA協定? 珍しいもの見てるのね、どうしてまた……あなた法律には詳しいはずでしょう」
「確かにパパやママから聞いてたのはあって詳しいんだけど。ちょっとね、具体的にどういう条約だったかなぁって思ってさ。テレビが繋がった事もあって、久々に防衛大臣の顔が見れたわ」
「あぁ、なるほど。でもどうして今になって? 今までテレビなんて見れなかったじゃない」
見れなかった。
その言葉が茉蒜の胸に引っかかった。そうだ、今までは見れなかった。港や陸に近づいた訳でもないのに、どうして?
「典子、あんた、昨日寝る前に言ってたよね。電波妨害は人の手でも出来るって」
「ええ。どうして?」
「それが引っかかるの。どうして電波妨害をしなくなったのか、気にならない?」
「確かに、そう言われればそうかもしれない」
書類を引き出しに仕舞い、茉蒜は典子と一緒に艦長室を出る。
「通信に詳しいのは……みのりちゃん?」
「いいえ、この場合は肥田三尉が詳しいわ」
「あの子電気科高校卒だもんね。大学は言語大学らしいけど。もう交代の時間?」
「交代の時間は夕食時よ」
「じゃあ、その時に聞かなきゃ」
艦橋に入り、「艦長、副艦長入ります」の声に合わせて復唱する声が響く。
「何をしてらしていたのですか?」
はなだが不思議そうに茉蒜へ問いかける。
「テレビが映るようになったから、その件で色々とね」
「なるほど」
受話器を手に取り、茉蒜はみのりに向けて「パ……じゃないや、成実大佐に通信を回してくれる?」と、ほんの少しだけ焦った口調で言った。
「了解。繋げる」
受話器に耳を当て、聞こえる声に集中した。
『黛だ、どうした?』
「パパ、ちょっと聞いてくれる?」
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