もう二度と

「女の子二人がトラックの下敷きになってる!」

「誰か救急車を呼んでくれ!」

「おい、あの子まだ息をしているぞ! お前はそっち側持て!」

 十月の風が冷たく吹く横須賀の交差点。二人の女の子がトラックに撥ねられ、一人は重症、もう一人は搬送先の病院で死亡が確認された。

 その一人───茉蒜は、朦朧とした意識の中で、横たわる一人の影を見据えていた。

 この子はもう助からない。

 人を問わず、動物は首が弱い事を知っている。だから、首から大量の血を流し、茉蒜に背を向けて眠るような姿勢を取っている彼女は、もう起き上がりもせず、目を開けることもしないと直感で分かっていた。

「……り、こ」

 掠れた声で名を呼ぶ。しかし返答は返ってこない。

 まるで、間に厚い壁を挟まれたかのように、茉蒜の声は自分でも聞こえない程乏しく、微かなものであり、いつもなら振り向いて抱きついてくる彼女は、頬に当たる風に吹かれて髪の毛だけが静かに揺れている。

 

 眩しく視界が開けた時、茉蒜はその場で意識を失ってしまった。

 

 ***

 

「隊員の体調に異常無し、と」

 司令室内。時は遡り、茉蒜が夢から目覚めた二時間後。時間にして二十時六分、報告書を書き終えた茉蒜は重く息をついた。日本の状況の、何もかもが分からない。日本領海域を航海していろと言われても、そもそも補給が来るかどうかも怪しいのに、あちこちを動く事など出来なかった。

 補給艦は「ましゅう」だろうか。そうだとしたら、艦自体が大きいから、姿がよく見えるはずだ。

 誰一人死なせず、港へと帰る。二十代後半にしてこの責任の重みは重大だった。期待の眼差しは、いつでも茉蒜の胸をつんざく。失敗したらどうしよう。もし、誰か一人でも死なせてしまったら? 一人だけではなく、自分含めて皆が死んでしまったら……?

 そんな不安が過ぎる。

「さて……と、少し艦内を回ってこようかな?」

 立ち上がり、カードキーをタッチして出ようとして────、

「へっ?」

 ───扉が開いた時、茉蒜の目の前に大きな姿が立ち尽くしていた。灰色の作業服を見てすぐに航空自衛隊員だと分かる。

 まさか……。

 そう思いつつ恐る恐る顔を上に上げて見ると、

「やっぱり」

 思った通りの人物であった。焦げ茶の髪の毛につり目を持ち合わせる、紛うことなき浅野亮である。

「やっぱりってなんだよロリ艦長」

「は? ロリ艦長っていうのやめて貰えませんかね。私は黛茉蒜なんですけど?」

「そうか、分かった。黛茉蒜ロリ艦長」

「……!!」

 ああ言えばこう言う……!

 頭に手を置いて苛立つも、すぐに抑えてひとつ息をつく。

「で、何か用?」

「別に、何も」

「じゃあなんで来たの?」

「声が聞きたくて……」

「理由になってない、それ」

「彼女に会いたくて……」

「……!!!」

 ああ言えばこう言う!

 もう一度心の中で絶叫しながら、顔を覆うように手を当てる。

「はー……入れば? 司令室だから、どうせ誰も来ないし」

 親指で部屋を指さし、茉蒜は呆れながら言った。

「お邪魔するぞ」

「んー? 上官のお部屋に入る時は?」

「失礼します」

「よろしい」

 部下は部下。相応の礼儀は、たとえ恋人であろうと一切手を抜かないのが茉蒜だ。亮は茉蒜の横を通り過ぎた後、きょろきょろと辺りを見渡した。

「何か?」

「いや、広いなと思って」

「そりゃあ司令室だからね。艦長室よりも広いのよ」

 その時、亮は一つの物に目を奪われた。

「YF……23?」

 作業用の机に置かれていたのは、YF─23の小さなフィギュアだった。相当年季が入っているのか、塗りが剥げている所もいくつかある。

 亮はこのフィギュアに見覚えがあった。それは自身が一歳の時……茉蒜と初めて会った時に貰ったフィギュアと同じ代物だったのだ。

「まだ持っていたのか」

「そりゃあね。思い出の物だし。亮が持っているのも知ってるわよ」

「なんで知ってんだよ」

 不審者を見るような目で茉蒜を見た亮に、「亮、あんた私の役職分かってる?」とこれまた呆れた様子で言い返す茉蒜。

「航海科」

「そうだけどそうじゃない」

「元操舵員長」

「そうだけど、ってかなんで私の元職知ってんのよ、誰から聞いたし」

「ロリ」

「ああ言えばこう言う! 絶対わざとでしょ! やめてよそう言うの、泣くよ!? 泣いちゃうから、いいのね!?」

 半泣きで訴えた茉蒜に「う……わ、悪かったよ」と亮は少し申し訳なさそうに詫びた。

「私はここの艦長よ。見えないだろうけどね」

「一等海佐がいい証拠だ。すぐにロリ艦……じゃなかった、茉蒜って分かるから」

「今のはわざとじゃないって言うのは分かった。まぁ確かに、この艦内で一等海佐は私だけだし、身長も……小さいし……」

 自虐して自分で悲しくなった茉蒜は、段々と声を小さくしていき、やがて俯いたまま動かなくなる。亮はぽふぽふと彼女の頭に手を置き、真顔で呟いた。

「大丈夫だ、お前は充分可愛いから」

「すんごい嬉しい言葉だけど、そういうこと平気で言えるって事は、さてはあんた恋心無いわね?」

 頭を撫でられることは、茉蒜にとってされたくない事の一つであった。しかし、彼から撫でられることに抵抗はあまりなく、むしろ撫でられて悪い気はしなかった。

 頭といえば、茉蒜の中でとある一人の人物を思い出させる。それはかつての友人であり、今は亡き大切な人。

「亮に撫でられていると、自然と莉子りこを思い出すわ」

 聞き慣れない名前に、亮は首を傾げる。

「私の同期よ。今はもういないけれど」

「それは……どういう捉え方の「いない」なんだ?」

 茉蒜の笑顔は、たちまち寂しげな微笑みに変わっていく。「莉子、莉子か……久々に呼んだね」と懐かしそうに呟く茉蒜の言動から、亮はすぐに「この世には既にいない」という意味だと察した。

「ごめんね、いつも暗い話に持っていっちゃって」

「構わん。続けてくれ」

 椅子に座り、綺麗に整理された机の引き出しから一枚の写真を掘り起こす。

「はい、この子が莉子。中塚莉子なかつかりこちゃん」

 茉蒜ともう一人、茉蒜よりも二十センチは高いであろう女の子、莉子が二人で写っている写真だった。茉蒜は、莉子とじゃれあっていた所を偶然撮られた一枚だと言う。まだ高校生の面影が残る二人の表情はいつに無く笑顔であり、純粋であるように亮には見えた。

莉子りこが死んでから、もう何年経つんだろう。私が十九の時だから、八年……いや、九年経つんだ」

 茉蒜は防衛大生時代、同期である莉子を、茉蒜の不注意による交通事故で失った過去がある。壊しきれない責任という名の檻に閉じ込められ、日々を過ごしてきたと言っても過言ではない。唯一の相談相手であった典子は、茉蒜の相談に長い間応じており、責めずに慰めたりなどをしていた。

 二人はいつしか、互いの苦労を互いに理解し合える関係にまでなり、今こうして責任を分け合う仲になっている。それはきっと、典子が相談に乗ってくれていたからだろうと、茉蒜は常々感じていた。

「医者も最前を尽くしたんだけど、助けられなくてさ。あの子の最期すら看取れなかったよ」

 写真を持つ茉蒜の手が微かに震えている。

「生きていたら、もしかしたら私や典子と同じ階級だったかもしれないのに。それなのに私は、あの子の未来を奪ってしまった。我ながら一生後悔の残る事をしちゃったって、今でも思う時があるんだ」

「……忘れたいと、思ったりするのか?」

 そう聞いた亮に、「典子と同じこと聞いてきた」と、クスクスと笑って言う。

「あるよ。忘れたいって思ったこと。そりゃあ人間だもん、忘れたいことは忘れたいよ」

「じゃあなんで……」

「亮は忘れるタイプの人なの?」

「?」

「一生かけて大切にしたいと思っていた友達を、親友を、家族を、目の前で失って……それでも、忘れたいって思う人なの?」

 茉蒜にそう言われ、亮は自身の家族の事を思い出した。小さな頃に見た、椅子に座り行き詰まるように頭を抱える大きな背中のシルエット。灯篭が仄かな光を放ち、小さく風に吹かれる本のページがゆらゆらと左右に動きを見せる。

「……なにか思い出してたね」

 その声に、亮は我に返る。茉蒜を見ると、いつもの表情に戻っていた。

「その気持ち、大切にしておいた方がいいよ。いつか誰かに継ぐことになる時、きっと助けてくれる唯一の存在なんだからね」

 立ち上がり、茉蒜はカードキーをタッチして亮に出るように促す。

「ごめんね、まだ作業残ってるの思い出したから」

「? そうか、分かった。無理はするなよ?」

「分かってるよ、亮は心配性だなぁ」

 笑って亮を見送った後、静かに部屋の中に戻り、茉蒜は余っていた写真立てに先程の写真を入れる。

「トラックの下で、どうして「ごめんなさい」なんて言ったのよ? あなたが死んだのは、あなたのせいなの? ……ねぇ、莉子」

 写真の莉子は笑顔のまま、何も答えることは無かった。

 

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