第10話 仮令身止 諸苦毒中 「たとえこの身が諸々の苦毒の中にあろうとも」

「大切なのは義侠心、だろ、ぬい」

 少年を拾ってくれた坊ちゃんはそう言っていた。

 少年にはその言葉は難しかった。

 少年は何も持っていなかった。たったひとりでぽつねんと生きてきた。薄汚くて何もない少年。そんな少年を拾ってくれたのは坊ちゃんとぬいだった。

 坊ちゃんは医者一家の嫡男だった。ぬいは坊ちゃんの世話係だった。

 坊ちゃんの親には反対された。坊ちゃんはすぐへそを曲げた。頑張ってくれたのはぬいだった。少年はこの家の軒先に住めるようになった。

 体の弱かった坊ちゃん。

 少年がこの家に迷い込まなければ出会うこともなかった坊ちゃん。

 だから少年はいつも届けた。それがお使いだったから。

 他愛のないものを。輝かしいものを。美しいものを。小さなものを。

 拾って坊ちゃんに届けて坊ちゃんはいつも嬉しそうで。ぬいはちょっと困ってて。

 だけどもう死んでいる。

「どうして」

 死んでいるんだろう。

「どうして」

 忘れていたんだろう。

「どうして」

 ここに戻ってきたんだろう。

「それはね、君が何者かによって心技体の分捕りの内、心によってすべてを分捕られてしまったからだよ」

 ニコニコとどこかで見たことのある男が現れた。

「やあ、久しぶりだね坊や……と呼ぶのは少しおかしいか。君だって坊やじゃないもんねえ」

 知っている。そんなことは知っている。問題は分捕られたということだ。

「まあつまり何者かって僕なんだけどさ。いつも渇虜に怒られたっけもったいぶるのはかったるいからやめろって。うんうん」

 渇虜。聞き覚えがある。知っている。最近だ。最新だ。

「よく御覧よ。綻んだのをいいことに完全に返したから見えるはずさ。君の言うところの坊ちゃんとぬいをさ」

 坊ちゃんは、ぬいを守るように死んでいた。

 それはおかしい。

 坊ちゃんを守るのがぬいの仕事だ。

 だからぬいを守っているのは坊ちゃんじゃない。

 犬だ。

 みすぼらしい犬がいる。

 命はもうない。だけど頑張って守ったのだ。

 ぬいとその後ろの坊ちゃんを守ろうとしたのだ。

 守れなかった。殺された。この家の他の人たちと一緒に死んだ。

 死んだはずなのにどうして。

 どうしてこの犬はここにいるんだろう。

 どうして坊ちゃんの姿がどこにもないんだろう。

 どうして少年が坊ちゃんと同じ姿をしているんだろう。

「そうそう君の体が坊ちゃんで君の心はこの犬っころだよ、思い出したかい」

 少年にはその言葉は難しかった。

 ただ、自分が死ぬということが、少年には理解できた。

 死んでいく。

 少年だった何かが死んでいく。

「犬は恩を三日で忘れるってのは本当みたいだねえ。自分の体も坊ちゃんの体も見分けがつかないなんてさあ。うん?三年だっけ?」

 男はどうでも良さそうだった。どうでもいいのだろう。

 少年は気持ちが悪かった。気分が悪かった。

 知っている。

 この感覚を知っていた。

 食い物にされていく恐怖感。

 踏みつけられる不快感。

 少年は最初から、ずっと、ひしひしと、感じ取ってしまっていた。


 それは嫌だ。

 もう失いたくない。

 だから少年は男に牙をむいた。

 犬は恩を三年で忘れるとしても恨みは一生忘れない。


 だから噛みつこうとした。

 いつものように。

 ぬいを守ろうとしたときのように。

 今のこいつは刀を持っていないんだからそれでも十分なように思えた。

 だけど少年は動かない。

 少年は動けなかった。

 動こうとした理由も分からなくなった。

「……」

 男が何かしたのだろう。

 それだけしか分からなかった。

「心技体の分捕りのうち心、心の分捕り。君は僕を倒そうとした心を分捕られる。この喪失は永劫続くよ。分捕られる心は、不可逆だ。多少の埋め合わせは効いても空いたという事実は変わらない。覆水盆に返らずというやつだ。もう君の魂は穴だらけでどうにもならない。あの肉体のようにね」

 男があの肉体と示した先には見たこともない誰かを思い出させることすらない本当に知らない少年がボロボロの体で追いすがってきていた。

「話が色々違うぞ、倉居不悔。全然ダメだてんでダメだ。あの小娘、ちっとも俺なんかじゃ歯が立たないぞ」

「やあ犬原、どうやら僕の妹の悔乃に負けたんだねえ情けないねえ」

 誰が誰の妹だって。

「梗乃も負けるし犬原も負けるし。ううん、手駒が弱すぎたんだねえ」

 ずいぶんと聞き覚えのある名前ばかりを口にする男だ。

「その弱すぎる手駒ばかりを集めたのは誰だよ」

「ボロボロの体に減らず口だけは残ったようだな犬原。惨めなことこの上ないね。手駒が弱いことは僕が弱いことにはならないさ。落ち度だとしても失態だとしても別に困らない。手駒なんて所詮捨て駒にしたっていいくらいのものなのだから」

「このクソ野郎が」

「渇虜に散々聞かされたんだろう僕の悪口。クソ野郎くらいで言い表せるかな?」

「……

 犬原は何かを思い出したようにそう言った。

「まあしょうがないから僕が御自ら会いに行こう。愛しい妹と、くそったれの親友に」

 歌うように軽やかに不悔はそう言った。

「どうしてこんなことしたんですか」

 どうしてそんなことを聞いたのか少年には分からない。それは少年の意思ではないような気がした。自分の中でよく知る誰かが聞きたがっているそんな感覚があった。

「撒き餌。君たちがあんまりにも美味しそうだったから、囮にして悔乃を負かそうと思ったのさ。犬も食わない餌だったがね」

「どうして悔乃さんに勝ちたいんですか」

「違う違う。僕は勝たなくていい。誰かが悔乃を負かせればいい。悔乃を負かして悔乃の呪縛を解き、悔い返すんだ」

「喰い返す?」

「そうそう悔い返し。倉居の位の継承はとても暴力的な仕組みでねえ。勝てばいいんだの一点突破なの。野蛮だよねえ。ええと、だから悔乃を誰かが負かして、その誰かを僕が負かす。そうすれば僕は悔い返せるわけだ。倉居の位を」

「そんなものがほしいのですか」

「要らないよ。自分から捨てたくらい要らないよ。ただそれらが悔乃の元にあるのだけは気に食わないのさ」

 その顔に浮かぶ表情を少年は理解できない。そのような複雑な感情を少年は知らない。

「悔乃以外の人間には負ける気しないんだけどね。悔乃は僕の天敵なのさ。惨めなことにね」

 惨めと己れを評しながらも不悔はそれを気にしている様子はなかった。

「それじゃあバイバイ。健全な魂の犬原と健全な肉体の犬っころ。君たちはそれぞれ不健全な肉体と不健全な魂のせいで死ぬんだ。お悔やみ申し上げる。不悔だけにね」

 不悔はなにとはなしに天を仰いだ。

「そろそろ雨もやむだろう。晴天の内に死ねることを幸せに思うんだね」


 倉居不悔はまだ生きている二体の負け犬を置いて去って行った。


 少年は崩れ落ちた。

 もうない。

 少年を奮い立たせるものはない。理由がない。根性がない。仇がない。理屈がない。自由がない。力がない。何もかももうなくなっていく。

 そんな少年とは裏腹に犬原は立ち上がろうともがいていた。

「諦めないぞ。諦めない。俺は死ぬわけにはいかないんだ」

 犬原はうわごとのように呟いた。

 少年はその気持ちが分かるような気がしたけれど、もうそんなことを思う余裕はどこにもなかった。

 犬が人になった恩恵はあったのだ。何かを感じ考えることが出来た。今までの少年では分からなかったことも分かるようになった。

 だけどそれは終わっていく。勝手に始めたあいつによって勝手に終わらされた。

 少年の意識は小さくなる。

 坊ちゃんやぬいはこんなことを考えてこんなことを感じていたのだと知ることの出来た領域が消えていく。

 ただ腹を空かせていて、ただ誰かを大好きで、ただ誰かに何かを届けていた。それだけの生き物に戻っていく。

 それは惜しくない。その日々は幸せだったから。だけどもう坊ちゃんもぬいもいないのに、戻ったところで何になるのだろう。

 元のみすぼらしい少年が健全なだけの坊ちゃんの体でどうして行けというのだろう。

「よこせ」

「いいよ」

 だから犬原の願いに少年はすぐに頷いた。

「大切なのは義侠心だって、そう教わったから」

 その意味が今ならまだ分かるから。

 犬原は驚いた。

 嘘だろうという顔をした。

 自分で望んだことのくせに犬原は迷った。

「はやく、もう、そろそろで」

 全てが消えてしまう前にここに残っているうちに君にあげよう。

 ああ、そう言ってくれたんだ。あの時もそう言って貰ったんだ。

「ありがとう」

 犬原はようやくそう言った。

 そういえばその言葉を少年も言ってみたかったのだった。

 いつも言ってもらっていたから。

 だけど言いたかった人たちはもういない。

 そして言える心ももうなかった。


 少年は死んだ。

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